大日本帝国を肯定的に評価する世界の著名人の発言一覧

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大日本帝国を肯定的に評価する世界の著名人の発言一覧(だいにっぽんていこくをこうていてきにひょうかするせかいのちょめいじんのはつげんいちらん)は、太平洋戦争終結前の日本について世界の著名人が肯定的に評価した発言の一覧。

目次

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アメリカ合衆国

ダグラス・マッカーサーGHQ総司令官)

日本は、産業以外には、国有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産物が無い、が無い、ゴムが無い。その他、実に多くの原料が欠如していたのです。もし、これらの原料の供給が断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障に迫られてのことだったのです。(1951年5月3日 米国議会上院の軍事外交合同委員会の答弁にて『東京裁判 日本の弁明』)

「日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。」(1951年5月3日・米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

「いいかね。日本政府は、われわれ占領軍をみくびっている。この国を理解できないよそ者だから、うまく騙せると思っている。天皇を中心としたこれまでの国家体制や指導者を変える必要はないし、いずれは占領軍に甘えながらも、その考えを変えようとしない。われわれはなぜ日本と戦ってきたのだ。それはファシズムを吹聴し、人道に背いたこの国を裁くためだ。日本人に過ちを認めさせ、敗北したことを教えなければならん。そのためには日本人が尊敬し、記憶に残している人物を裁くことが先決で最も効果的ではないのかね。それは同時に、日本人が自らの歴史を裁く見本になもなる。」(福川粛『ダグラス・マッカサー(アジアの歴史を変えた男)』メディアファクトリー、1993年、50-51頁)

ジョイス・C・レブラ博士(米国コロラド大学歴史学部教授)

「大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。」(『東南アジアの開放と日本の遺産』秀英書房、256-257頁)

「東京で開かれた極東国際軍事裁判で、打ち出された一つのイメージ、即ち、日本は世界で最も強欲な軍国主義国家の一つであったとする思想は、太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争の幾つかの局面を暗闇に閉じているのが現状である。又、日本の歴史家達は、東南アジアに於いて日本が大東亜共栄圏に託した理念、実現の方法等を吟味する事に、今日迄消極的であった。ごく最近になって、アメリカ合衆国の学者は、日本の戦争目的を再検討する事に着手し、これ迄の定説を修正し始めた。(中略)再検討を志すアメリカ合衆国の学者達の意見に依れば、太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版では無く、それにもまして西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が、(自国の)存亡に関わる権益を防衛する為の戦いであったのである。更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来は見なされていた、大東亜共栄圏の理念も又再検討されて然るべきである。」(ジョイス・C・レブラ『チャンドラ・ボースと日本』原書房、1969年)

ジョージ・S・カナへレ博士(ハワイ・日本経済協議会事務局長)

「日本占領軍が、インドネシア民族主義の為に行った種々の訓練の中で、最も重要なものの一つは、インドネシアに正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事であろう。この作業は、特にジャワ、バリ及びスマトラの各島で推し進められた。後に、インドネシア独立軍の将校や下士官となった者達は、殆ど全て、及び何万と言う兵士達は、この訓練を経て、軍事技術を身に付け、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に、独立戦争を戦ったのであった。もし、この訓練が無かったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材が無かったなら、インドネシア独立戦争の行方は違った方向に進んでいたかも知れない。こうして、日本の占領は、インドネシアの民族主義勢力を、権力の戸口まで導いた。(中略)(インドネシアの)民族主義者にとって、日本の占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。」(ジョージ・S・カナへレ『日本軍政とインドネシア独立』鳳出版社、1977年)

ハミルトン・フィッシュ(政治家、『悲劇的欺瞞』(Tragic Deception, 1983) )

「ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

ロスロップ・スタッタード(歴史学者)

「すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。」(ロスロップ・スタッタード『有色人種の勃興』長瀬鳳輔訳、政教社、147, 151頁)

ニミッツ元帥(太平洋艦隊司令長官)

「この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

米国戦略爆撃調査団

「日本の指導部が、国家の存亡に関わる利益の為にと固く信じて、(今次の)戦争を始めた事は明らかである。これに対して、アメリカ合衆国は、単に自分達の経済的優位と主義主張を押し付けようとしたのであって、国家の存亡に関わる安全保障の為に戦ったのでは無いと、アメリカ合衆国人は信じていた。」(米国戦略爆撃調査団団長ニッツからトルーマン米国大統領に提出された報告書、1946年7月)

ハリー・S・トルーマン当時大統領 1945年8月19日国内向け声明

「日本の戦争屋は、すでに降伏しました。彼らは無条件降伏をしました。欧州での勝利の三ヵ月後に、極東の勝利がきました。八年前、日本が開始して太平洋上に悪魔の軍隊をばらまいた侵略戦争は、完全な敗北に終わりました。これは独裁者たちが世界の人類を奴隷化し、その文明を破壊し、暗黒と堕落の新しい時代を作ろうとする大きな計画の週末を示すものです。今日は地球上の自由の歴史の新しい出発の日であります。世界にわたるわが勝利は、戦う決意に燃えて、男も女も団結して自由への勇気と体力と精神から得られたものです。」(ハリー・S・トルーマン『トルーマン回顧録1』加瀬俊一監修、堀江芳孝訳、恒文社、1966年、336頁)

イギリス

H・G・ウェルズ(SF作家)

「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

アーノルド・J・トインビー(歴史学者)

「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」(英紙『オブザーバー』、1965年10月28日)

「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。」(毎日新聞、1968年3月22日)

「その後一九四一年には、日本はヒトラーに劣らぬほどの一大錯誤を犯した。一方の戦線では決定的な勝利を得ることに成功していない戦争をまだ抱えているというのに、日本はソヴィエト連邦に対するヒトラーの攻撃と同じくらい自殺的な途方もない侵略行為によって、今や太平洋に広大な新しい戦線を展開し、ここで軍事行動を開始したのであった。太平洋地域のイギリスとオランダとフランスの領土を侵すという楽な仕事だけをこの地域でおこなう代わりに、日本はアメリカも攻撃した。日本人が犯したこの最大の愚行は、計画が思い通りにゆかないときにはエスカレーションという反応を見せる思い上がった軍国を待ち伏せている因果応報の、典型的な一例である。」(A・J・トインビー『回想録II』山口光朔・増田英夫訳、社会思想社、1970年、63頁)

スリム中将(イギリス第14軍司令官)

「たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。」「かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。」(『敗北から勝利へ』)

エリック・ホプスバウ博士(英国ロンドン大学教授)

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」(エリック・ホプスバウ『過激な世紀』)

インド

ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相)

日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義グループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果をまずさいしょになめたのは朝鮮であった。・・・日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった、日本はヴェールでいつわる用意もせずに、大っぴらで漁りまわった。(略)日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史の中でもまことにいたましい、暗黒な一章だ。(ジャワハルラル・ネルー『父が子に語る世界歴史・』みすず書房、1959年)

「チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。」(貝塚茂樹『民族解放の星』講談社、253-254頁)

ラダ・クリシュナン 大統領

「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像も出来なかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」(昭和44年日本経済新聞)

グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

「このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。 インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。」(1946年・デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事・法学博士)

「 要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3-20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。」(1952年11月5日・広島高等裁判所での講演、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

インドネシア共和国

ブン・トモ元情報相

「日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」(昭和32年の来日の際の発言、出典不明)

「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

アリフィン・ベイ(ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

「 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。(中略) (日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。」(『魂を失った日本』未央社、57-65頁)

アラムシャ陸軍中将(インドネシア大統領特使)

「平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」「どういうことですか?」「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」とアラムシャ陸軍中将は語りました。」(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

サンパス将軍(東欧大使歴任)

「平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」となげいていた。」(『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

中学校用『社会科学分野・歴史科 第五冊』(インドネシア語)、マルトノ著、ティガ・スランカイ社、1988年版

「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。それは、日本がやってきてまもなく、次のような宣伝を展開したからである。日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」「このよな事実を見て、かつて民族主義運動で活躍した指導者たちは、安閑としていたのだろうか。もちろん、そうではなかった。彼らは、民衆の側に立って闘い続け、独立を達成するために民衆の闘争精神を育てたのである。彼らが闘っていた相手は、残酷なことでは非常に名高い日本軍だったから、彼らの行動は大変注意深いものだった。民族主義者たちは、表立って日本軍政府と対立しなかった。それは非常に危険であり、闘争を有利にしなかったからである。日本軍は、抵抗する者はだれであろうと、遠慮せずに殺した。」(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』265-266, 274頁)

オランダ王国

サンティン(アムステルダム市長、現内務大臣)

「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。本当は、私共白色人種が悪いのです。百年も二百年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。植民地・属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄権樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。即ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑む事を止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」(1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶、(財)日本国防協会理事の浅井啓之氏が1994年3月24日作成)

シンガポール共和国

ゴー・チョクトン 首相

「日本軍の占領は残酷なものであった。しかし日本軍の緒戦の勝利により欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内にアジアの植民地は全て解放された。」(「諸君!」1993年7月号)

リー・クアンユー前首相(現顧問相)

我々はイギリス人を追い出したかった。……イギリスの武力の崩壊を見た後、そして三年半の過酷な日本軍政の支配に苦しんだ後、人々は植民地支配を拒否したのだ。……私と私の同僚の世代は、若い時に第二次世界大戦と日本による占領を体験し、その体験を通して、日本であろうとイギリスであろうと、我々を圧迫したり、いためつけたりする権利は誰にもないのだ、という決意をもつに至った世代です。我々は、自ら治め、自尊心ある国民として誇りをもてる国で、子供達を育てていこう、と決心したのです。(岩崎育夫『リー・クアンユー・西洋とアジアのはざまで』岩波書店〈現代アジアの肖像15〉、1996年、44頁)

中学校初級用『現代シンガポール社会経済史』(英語)中学初級歴史編修委員会編、ロングマン・シンガポール出版社、1985年版

「一二三年間、シンガポールの人びとは平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人びとは戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した三年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。」「シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)、あるいはショーナンアイランドと生を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人びとは日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々をすごした」(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』24-25頁)

セイロン国(現スリランカ民主社会主義共和国

J・R・ジャヤワルダナ蔵相(後にスリランカ大統領)

「何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローーガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。」(1951年9月6日、サンフランシスコ対日平和条約の締結と調印のための会議に於ける演説、スリランカ大使館(東京)資料)

タイ王国

ピブン首相(当時)

タイ国は伝統ある独立国である。他の出席国のごとき新出現の日本の傀儡国と同席することを潔しとせず。首相自ら出席することは対日屈伏と見られ、統治が困難になる。日本がどうしても出席を強要するならば、臨時議会を開いて自分は辞職する。(昭和18年の大東亜会議への出席拒否理由)(土門周平『戦う天皇』講談社、1989年)

ククリット・プラモード(タイ国元首相)

「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。」(サイアム・ラット紙、12月8日)

中学校二年生用社会科教育読本『歴史学 タイ2』(タイ語)、教育委員会編、仏暦2523年(1980年)版

「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人のグループのなかには、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対するものもあった。これらの一般民衆グループには、連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむえず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により、自由たい運動の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の自由タイ運動は、アメリカ政府の支援を得て順調にことを運んでいた。イギリス国内では、スパワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分は運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとり、さまざまな行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、日本兵を拘引したりして連合軍を援助した。」(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』梨の木舎、1990年、146頁)

大韓民国

朴鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳、韓日文化研究所、1967年10月)

「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

高等学校用『国史』(下)国史編修委員会・一種図書研究開発委員会編、大韓教科書出版、1988年版(教科書)

こうして軍需工場が建てられ、鉱山が開発されたが、これは日本の戦争目的を遂行するためのものであり、これらは韓半島での収奪を助け、植民地経済への隷属性が増大しただけであった。大陸侵略に狂奔した日帝はアメリカとイギリスに対抗し、第二次世界対戦の主要挑発者となった。日帝は戦争遂行のため総動員令をくだし、韓国での人的および物的収奪を強化するとともに、民族抹殺政策を強行した。
(略)日帝はまた、戦争物資を調達するために、食料や各種物資を奪っただけでなく、青年たちを戦線に送るための志願兵制度を実施したが、まもなく徴兵制に切りかえ、日本、中国、インドシナ、太平洋諸島に強制動因した。そのうえさらに、女性たちをも侵略戦争の犠牲にすることをためらわなかった。(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』106-107頁)

朱耀翰(元国会議員)

「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ?黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」(『ゴーマニズム宣言第六巻』、232頁)

中華人民共和国

毛沢東初代国家主席・中国共産党主席

日本軍は実に役立った。中国各地を実際に占領し村々を焼き払うことにより、日本軍は人々を教育し、政治意識の高まりを早めた。共産主義者が率いるゲリラ部隊が隊員をふやし、支配地域を拡大しやすい条件を作ってくれたのだ。毛主席と会う日本人がいま過去について謝罪すると、彼は逆に日本の援助のおかげだと感謝するのである。(エドガー・スノー「毛主席会見記」『朝日新聞』昭和40年2月4日朝刊1面)

初級中学課本『中国歴史』第四冊(李隆庚編)(教科書)

抗日戦争の勝利は、中国人民が帝国主義侵略に反抗しながらも失敗し続けたこの一〇〇年来の局面を転換し、植民地人民が残虐な帝国主義国家の侵略を打破する道を築きあげた。中国の抗日戦争は世界の反ファシズム戦争を形成した重要な部分である。抗戦の勝利は、世界の反ファシズム戦争の勝利に重要な貢献をし、全世界の圧迫されている民族と人民の解放闘争に深遠な影響をおよぼした。(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)49頁)

蒋介石

「ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

中華民国台湾

高級中学『歴史』第三冊、国立編訳館編・刊、1987年(教科書)

太平洋戦争の勃発後、わが国は十二月九日、正式に日本に宣戦布告した。同時にドイツ、イタリアに対しても宣戦布告。侵略国家と反侵略国家との協会がハッキリした。(略)近代帝国主義国家が勃興して、東アジア各国は日本を除いて、西洋列強の植民地、半植民地となった。日本が戦争を起こし、いわゆる「大東亜共栄圏」を樹立しようとしたのは、中国の植民地にしようとしたばかりでなく、西洋各国の東アジアにおける植民地をも奪おうとしたのである。(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』166, 175頁)

許文襲(実業家)

「台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本のそれは良心的な植民地だったのです。」「戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の日本政府は深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です。」(蔡焜燦『台湾人と日本精神』)

朝鮮民主主義人民共和国

高級学校二年用『世界歴史』総連中央常任委員会教科書編纂委員会編、学友書房発行、1989年版(教科書)

アジア制覇の野望を達成しようと早くから画策していた日本帝国主義は、ファッショ・ドイツによりヨーロッパえ戦争がひき起こされると、より活発に動き出した。日本帝国主義は、中日戦争も終わらないうちに他の戦争に突入し、アジアの盟主になろうとする野望を実現しようとした。戦争挑発に臨んで、近衛(総理)と東条(陸軍大臣)のような好戦的人物によって政府を組織したが、この近衛政府は、一九四〇年八月、アジア侵略を具体化した「大東亜共栄圏」を公然化した。これはひと口にいって、日帝が「アジアはアジアのために」という欺瞞的なスローガンを掲げ、東南アジアを含めた大植民地帝国を創設しようとする、悪辣な侵略計画であった。日本の反動派は、「大東亜共栄圏」には、朝鮮、中国、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシア、ビルマ、フィリピン、チモール、ソ連の遠東地方などが含まれると主張してはばからなかった。(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』130-131頁)

フランス共和国

ベルナール・ミロー(ジャーナリスト)

「これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。」(ベルナール・ミロー『神風』内藤一郎訳、早川書房、359頁)

ベトナム社会主義共和国

12年生用『歴史 第一巻』(ベトナム語)教育省編、1984年版

「残虐な略奪行為と侵略の陰謀を隠すとともに、インドシナにおける唯一の支配者の地位に躍り出る準備のため、ファシスト日本は進駐当初から、数多くの邪悪な政策を弄した。まず、チャン・チョン・キム、グエン・スアン・チューなど、フランス植民地主義になにがしかの不満をもつ知識人や名士、あるいはグエン・テー・ギエップのようなフランスの古いスパイといった連中を秘密裡に集め、次のような親日組織作りの手助けをした。「大越民正」「大越国社」「越南愛国」「復国」「大越国家連盟」などである。彼らは南部の「カオダイ」や「ホアハオ」といった反仏傾向のある宗教組織も利用した。そして、これらのグループは「越南復興同盟会」という名の親日統一組織に糾合され、日本の傀儡政権の受皿作りをした。と同時に日本は「大東亜共栄圏」なるペテンを謳い文句にして、彼らの文化や力の「無敵」性を宣伝するため、日本語教材を大量に出版したり、日本語学校を開設したり、展覧会や日本映画の上映会を開いたり、またインドシナと日本の留学生交換を行ったりした。」「まもなく、日本は古い権力機構を廃止し、親日派のチャン・チョン・キムにベトナムの傀儡政府を作らせ、傀儡のバオダイに国王の名称を与えた。この一派も「愛国・愛民」を装おうとしたが、しだいに無力をさらけだした。実際は、インドシナの旧総督にかわって日本の「最高顧問」がすべての権限を握っていたからだ。彼らは日本の従順な手先となり、日本がよりいっそう狡猾に、かつより多く、わが人民から搾取することを許した。モミの調達、田畑への麻の強制植えつけなどは依然として行われ、飢餓は一層深刻となった。そのうえに、日本の数限りない残虐行為があった。ベトバックにおけるベトミン根拠地への攻撃、逮捕・殴打・拘禁・銃殺・陵辱・強奪などにより、民衆を恐怖におとしいれた。こうして、またたくうちに、ファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。わが人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。」「一九四五年の三月九日以後、インドシナ共産党とベトミンは、日本の対仏クーデターが勢力の衰えの徴候であり、日本「解放」のスローガンが絵に描いた餅であり、親日裏切り一味の「独立」スローガンが人殺しの毒まんじゅうであることを、わが人民にくりかえし明らかにした。党は、ファシスト一味が完全に破綻し、世界中の民主勢力が必ず勝利すると断言した。そして、総蜂起の機会をつかみ祖国の完全独立を獲得するための準備をしよう、党は人民に呼びかけた。事態は、その判断の正しさを雄弁に証明した。一九四五年五月、ファシスト・ドイツは完全に崩壊した。ファシスト日本は一層孤立を深め、殲滅されるのが近づく、八月八日、ソ連は対日宣戦を布告し、ソ連は怒涛のごとく満州に進行して百万の日本関東軍を掃討した。そして、八月十三日、日本政府は、降伏を宣言し、さらに八月十五日、同盟国に対する無条件降伏の文書に正式に署名した。東アジアにおける獰猛なファシストが倒れた。インドシナにおけるその狼の子どもらは、すっかり途方に暮れてしまった。インドシナ革命の機は熟した。インドシナ人民の「千年に一度の好機」が到来した。」(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』梨の木舎、1990年、166-168頁)

マレーシア

ガザリー・シャフェー(元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)

「日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」」(1988年7月19日・於赤坂プリンスホテル、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

「とくに私(ガザリー・シャフェ外相)が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。」と昭和63年9月、先の大戦で詫びる日本の政治家を批判した。」(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

中学校二年生用『歴史の中のマレー』(マレー語)M・タムビラジャー著、連合出版、1988年版

「日本はマレー人の解放獲得の期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。」(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』63頁)

初級中学校用『歴史 第二冊』(中国語)マレーシア華文独立中学校統一課程編集委員会編、連合出版有限公司、1980年版

要旨:

  1. 一九四一年、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。その主要な目的は、一、東南アジアの天然資源を奪い取って対中国作戦を継続すること、二、華僑の中国に対する協力を阻止すること、であった。
  2. 一九四二年、イギリス軍司令官パーシバルが日本に降伏し、日本のマラヤ軍事統治が開始された。
  3. 日本軍はマラヤにおいて、虐殺、酷使、欺瞞によって中国人を統治した。
  4. 日本軍は、捕虜のインド兵士を「インド国民軍」に改編し、日本軍の指揮下においたほか、インド人労働者をタイに送って「死の鉄路」の建設にあたらせた。
  5. 日本軍は懐柔政策によってマレー人の支持を取りつけた。統治を強固なものにするために、さらにマレー人の民族的感情を挑発して中国人に対抗させた。
  6. 戦争による破壊と、日本の経済的搾取政策により、日本統治時期のマラヤの経済は衰退し振るわなくなった。
  7. アメリカは一九四五年八月、日本の広島、長崎に原子爆弾を投下し、日本はようやく降伏した。
  8. 中国人は「マラヤを防衛し日本に抵抗する」運動の中で、彼らのマラヤに対する哀惜の念を強めた。マレー人は日本統治の間に民族の政治的覚醒を高めた。(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』93-94頁)

ミャンマー連邦

反ファシスト人民自由連盟(ビルマ愛国戦線)宣言文

われわれビルマの人民は、今や日本のファシストの鉄のかかとのもとに苦しんでいる。われわれの家庭の平和と安全は絶え間ない危険にさらされている。われわれは、毎日のように日本の憲兵隊、日本の兵士、日本の商人、そしてかれらの手先によって虐待されている。われわれの財産は没収され、われわれはそれぞれの家庭から追い出されている。神聖なわれわれの聖地は、日ごとに侵されつつある。立派なひとたちが、罪人とまるでかわらぬ扱いをうけている。婦人たちの貞節さは犯されている。われわれの食料は、日本人に略奪されている。わが国の産物は、なんの価値もない日本の通貨と交換されている。われわれの牛や家畜、われわれの自動車や荷車は徴発されている。わが同胞は、過酷な労働に徴発され、われわれの境遇は、畜生よりもひどいものである」(矢野暢『タイ・ビルマ現代政治史研究』京都大学東南アジア研究センター、1968年)

バ・モウ(ビルマ元首相、独立宣言より)

「約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・」(日下公人『一問に百答』PHP研究所)

八年生『ビルマ史』(ビルマ語)、ビルマ連邦社会主義共和国教育省初等中等教育カリキュラム・教科書委員会編、1987年版

「一九四三年八月、日本は、ビルマに「独立」を供与し、バモオ博士を行政府の長=アディパティに任命した。このアディパティは、内閣総理大臣の役割を果たすものであった。アディパティは各省大臣を任命した。政府のスローガンは、「一つの血、一つの声、一つの命令」であった。内閣のほかに、アディパティが任命した議員による諮問評議会が設置された。しかしどのような諮問機関が設置されようとも、バモオ博士の率いる政府は、日本軍の命令を実施するだけの政府であった。」「こうして、日本時代、ビルマの経済は壊滅的な打撃を受けたのである。」「着るものもなく、治療するための薬もなく、さまざまな経済的な落ちこみのためにビルマの国民は貧しい生活を強いられた。しかし、日本人に取りいり、不法なやり方で利得を狙った者たちは潤った。ファシスト日本が支配した時代には、社会にまとまりがなく、教育もほんどなきに等しい状態であったたtめ、道徳や規律は乱れ、人びとの精神も退廃した。」(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東南アジア編)』梨の木舎、1990年、130-132頁)

モンゴル人民共和国(現モンゴル国

八年生用教科書『モンゴル人民共和国史』モンゴル国民教育省教科書・雑誌合同編集局発行、1987年(教科書)

数十年にわたってわが国の独立を脅かし、モンゴル人民共和国の発展の大きな障害になっていた日本帝国主義を粉砕したことによって、モンゴルの独立を強固なものにし、安全を保障し、そして平時の社会主義建設を推進する平和な時代の幕が開かれた。(越田稜『アジアの教科書に書かれた日本の戦争(東アジア編)』79頁)

関連項目