仏典は「生ける者の哲学書」であらねばならぬA                        

父母恩重経A
平成17年2月


 1日

父母恩徳十種

第四「乳哺養育の恩」である。

もし夫れ平安なれば、猶お蘇生し来るが如く、子の声を発するを聞けば、己れをも生まれ出でたるが如し。

その初めて生みし時には、母の顔―かんばせー、花の如くなりしに、子を養うこと数年なれば、容―かたちーすなわち憔悴す。

 2日

母の背をさすりながら思うこと

この背に おんぶされた わたしの幼い頃 いま 負わせている 苦労の数々
 3日

水の如き霜の夜にも、氷の如き雪の暁―あしたーにも、乾ける処に子を廻わし、湿―うるおーえる処に己れ臥す。

子、己―おのーが懐に屎−くそまーり、或いは其の衣に尿―いばりーするも、手自ら洗い濯−そそーぎて、臭穢―しゅうえーを厭−いとーうことなし。
 4日

父の寝顔に深まるかげり母の頭に増える白い髪

十種の恩徳の、第五「廻乾就湿の恩」と第六「洗灌不浄の恩」である。
 5日

食味を口に含みて、これを子に哺−ふくーむるにありては、苦き物は自ら嚥−のーみ、甘き物は吐きて与う。もし夫れ子のために、止むを得ざ

る事あれば、みずから悪業を造りて、悪趣に堕つることを甘んず。
ーー
父母十種の恩徳「嚥苦吐甘の恩」であり「為造悪業の恩」である。
 6日

もし子遠く行けば、帰りて其の面を見るまで、出でても入りてもこれを憶い、寝ても寤−さーめてもこれを

憂う。己れ生―しょうーある間は、子の身に代らんことを念−おもーい、己れ死に去りて後には、子の身を護らんことを願う。
 7日

親という漢字の左の扁は「立木」、右の旁―つくりー
「見」。

遠くまで立木の上に登って子を見守る姿の象形文字が「親」である。
十種の恩徳の十「究竟憐愍の恩」である。
 8日

かくの如きの恩徳いかにして報ずべき。然るに長じて人と成れば声を抗げ気を怒らして、父の言―ことばーに順―したがーわず、母の言に瞋−いかーりを含む。既にして婦妻を娶れば、父母にそむき違う

こと、恩なき人の如く、兄弟を憎み嫌うこと、怨みある者の如し。

―本当に親の愛情が分かった時に、本当の成人―大人になった自覚があると言った青年がいた。

 9日

妻の族来りぬれば、堂に昇せて饗応し室に入れて歓晤−かんごーす。

嗚呼嗚呼、衆生顛倒して、親しき者には却りて疎み、疎き者は却りて親しむ。父母の恩重きこと天の極まりなきが如し。
10日

若い人の偏愛を戒めている。老親の若夫婦に対して芽生え始め

た嫉妬心と僻みを指し示している。
11日 この時、阿難、座より起−たーちて、偏に右の肩を―はだぬーぎ、長跪合掌―ちょうきがっしょうーして、前―すすみー
仏に曰―もうーさく、世尊、かくの如き父母の重恩を、我等出家の子は、如何にしてか報ずべき、つぶさに其事を説示し給えと。
12日 右肩を脱ぐはインドで最も敬虔な作法。恩を分解すると因と心、原因が分かる心が恩である。 子供という本に何かを書き込む前に、親も子供から何かを読みとることが大切だと。
13日 仏宣言―ほとけのたまわくー、汝等大衆、よく聴け、孝養の一事はも在家出家の別あることなし。出でて時新の甘果を得れば、将−もーち去りて 父母に供養せよ。父母これを得て歓喜し、自ら食−くらーうに忍びず、先ずこれを三宝に廻−めく゛―らし施せば、即ち菩提心を啓発せん。
14日 千利休は、茶は喫むものなり。仏に供え、人に施し、われも飲むなり。 これは三宝帰依が茶の湯の精神であることを意味している。
15日 父母病あらば、牀辺―しょうへんーを離れず、親しく自ら看護せよ、一切の事これを他人に委ぬること勿れ。時を計 り便を伺い、懇―ねんごろーに粥飯―しゅくはんー喫し、子は親の喫するを見て、抂−まーげて己が意―こころーを強くす。
16日 八福田の第一は看病であると。 八福田とは、仏・聖人・修行者・師匠・先生・父・母・病人。
17日 親暫く睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡覚−ねむりさーむれば、医に問いて薬を進めよ。 敬田とは仏、聖人、修行者を信じ奉仕すること、恩田は、師匠・先生・父母に報恩。病人の世話は悲田。
18日 日夜に三宝に恭敬―くぎょうーして、親の病の癒えんことを願い、常に報恩の心を懐きて、片時も忘失―わするること勿れ。 永遠なるものから観られている自己の自覚。
豊かな
る念いは、宗教に生きる者の心境である。
19日 この時、阿難又問いていわく、世尊、出家の子能くかくの如くせば、以て父母の恩に報ずと為す乎。 仏宣わく、否、未だ以て、父母の恩に報ずと為さざるなり。親、頑ァ−かたくなーにして三宝を奉ぜず、不仁にして物を残―そこなーい、不義にして物を竊−ぬすーみ、 無礼にして色に荒み、不信にして人を欺き、不智にして酒に耽らば、子は当に極諫して、これを啓悟せしむべし。世間には問題の子ばかりてだはない、問題の親もいれば非行の親もいる。子に泣く親も、親に泣く子もいる。
20日 もし猶ァ−なおくらーくして未だ悟ること能わざれば、則ち為に譬をとり、類を引き、因果の道理を演説して、未来の苦患−くげんーを救うべし。もし猶頑にして未だ改むること能わざれば、啼泣歔欷―ていきゅうきょきーして己が飲食―おんじきーを絶てよ。 親、頑ァなりと雖も、子の死なんこと懼−おそーるるが故に、恩愛の情に牽かれて、強忍して道に向わん。

「五常」の思想―仁・義・礼・智・信は人間の守る
べき道徳。
21日 もし親志を遷して、仏の五戒を奉じ、仁ありて殺さず、義ありて盗まず、礼ありて淫せず、信ありて欺かず、智ありて酔わざれば、則ち家門の内、親は慈に、子は孝に、夫は正に、妻は貞 に、親族和睦し、婢僕忠順し、六畜蟲魚まで、普く恩沢を被りて、十方の諸仏、天龍鬼神、有道の君、忠良の臣より庶民万姓まで、敬愛せざるはなく、暴悪の主も、佞嬖−ねいへんーの輔も、妖児兇婦も、千邪万怪も、これをいかんとすること無けん。
22日 ―ここーに於いて、父母、現には安穏に住し、後には善処に生じ、仏を見、法を聞いて、長く苦輪を脱せん、かくの如くにして、始めて父母の恩に報ずる者となすなり。 捨て身の報恩話、現代にも現実的な話である。
23日 仏さらに説を重ねて宣わく、汝等大衆能く聴けよ、父母のために心力を尽して、あらゆる佳味、美音、妙衣、車駕、宮室等を供養し、父母をして一生遊楽に飽 しむるとも、もし未だ三宝を信ぜざらしめば、猶お以て不孝と為す。真理を悟った人が「仏」、仏の教えを「法」、法を信じるものを「僧」というが僧は在家も出家もない。この三宝を信じ敬い、わが身と心を調えるのが仏道。
24日 六波羅蜜
六つの徳目。
@仁心
A礼式
B柔和と辱を忍ぶ
C精進
D寂静
E学問―空の智恵。
如何んとなれば、仁心ありて、施を行いも礼式ありて身を検−ひさしーめ、柔和にして辱―はじーを忍び、勉強して徳に進み、意を寂静に潜め、志を学問に励ます者と雖も、一たび酒色に溺るれば

、悪魔忽ち隙を伺い、妖魅すなわち便を得て、財を惜しまず、情を蕩−とろーかし、忿−いかりーを発−おこーさせ、怠を増させ、心を乱、智を晦―くらーまして、行いを禽獣に等しくするに至ればなり。
25日 大衆よ、古より今に及ぶまで、これに由りて身を亡ぼし、家を滅ぼし、君を危くし、親を辱しめざるは無し。この故に沙門は独身にしてぐうなく、その志を清潔―じょうけつーにして唯だ道をこれ務む。 子たる者は深く思い、遠く慮りて、以て孝養の軽重緩急を知らざるべからざるなり。凡そこれ等父母の恩に報ずるの事となす。沙門は出家して修行する人、独身で心身を清らかにして仏道に励む。
日本の仏道には権威が無い、それは俗人と全く同じ生活をして、のうのうと肥満となり、更に最近の善光寺の糞管主坊主のような色行をするからだ。
26日 この時、阿難、涙を払いつつ座より起ち、長跪ーちょうきー合掌して、前―すすーみて仏に曰して曰さく、世尊、この経は当に何と名づくべき、又いかにしてか奉持−ぶじーすべきと。

父母の恩を諄々と説く釈迦の教えを聞いた阿難は、

心の深いとこで静かな爆発を感じて涙が頬を伝い、この教えを何と申したらいいかと問う。

27日

仏、阿難に告げ給わく、阿難、この経は、父母恩重経―ぶもおんじゅうきょうーと名づくべし。もし一切衆生ありて、一たびこの経を読誦−どくじゅーせば則ち以て乳哺−にゅうほの恩に報ずるに足らむ。もし一心にこの経を持念し、又人

をして之を持念せしむれば、当に知るべし。この人は、能く父母の恩に報ずることを、一生のあらゆる十悪五逆無間の重罪もみな消滅して無上道を得むと。

読むのは読、暗記して読むのを誦という。読経は数量の問題に非ず、一度でいい、真剣に読むことである。
28日 この時、梵天帝釈、諸天の人民、一切の集会―しゅうえー、この説法を聞いて、悉く菩提心を発−おこーし、五体地に投じて涕涙―ているいー雨の如く、進みて仏足を頂礼し、退−しりぞーきて各々歓喜−かんぎー奉行したりき。 念持仏のように、お経の教えを常に身につけて、離すことなく信心に励むのが「持念―念持」、その教え通りに実践するのを「奉行」と言う。
                                                  完
この父母恩重経を引用したのは、忘れた仏性―誰もが生来持つ心、仏心―を思い起こす縁であれかしと思うからであります。(徳永圀典)