日本人の「心の古典」10 義経記(ぎけいき)・増鏡・十六夜日記 

平成17年8月

 1日 義経記ぎけいき 軍記物語、作者不明、室町時代に成立、義経を悲劇的に描き判官びいきの基。

―しづかーの舞、白拍子舞の名手であった静が、愛する夫、義経を憎み追う兄・頼朝の前で、舞い歌わねばならない。静はこともあろうに、夫への変わらぬ情愛を歌う。頼朝は面目を潰され怒るが、妻、政子は女としての意気に感じてとりなす。

 2日 判官びいき

ほうがんびいき、判官は検非違使―けびいしー判官を兼任していた義経のこと。頼朝に追われた悲劇的な人生を多くの人の熱い支持を得たこと。

優れた人物が流離して苦難の人生に生きる貴種流離の一種、日本的な在り方として謡曲や歌舞伎に盛んに取り入れられた。
 3日 静の舞

静、その日は、白拍子多く知りたれども、ことに心に染むものなれば、しんむじょうの曲といふ、白拍子の上手なりければ、心も及ばぬ声色―こわいろーにて、はたと上げてぞ歌ひける。

静はその日は、白拍子の曲は沢山知ってはいたが、特にそのなかで気に入ってもおり、しんむじょうの曲という白拍子が得意でもあったので、それを想像もできぬほど見事な声音で、朗々と声をはりあげて歌ったのだった。
 4日

上下「あっ」と感ずる声、雲に響くばかりなり。近くは聞きて感じけり。声も聞こえぬ上の山までもさこそあるらめとて感じける。

貴賎上下の「あっ」という感嘆する声が雲まで響くほどである。近くにいる者は実際に聞いて感嘆したのであった。声の聞こえぬ八幡宮の上の山の人までも、さぞみごとであろうと想像して感嘆したのであった。
 5日

しんむじょうの曲、半―なかーらばかり数へたりける所に、祐経心なしと思ひけん、水干の袖外して、せめをぞ打ちたりける。

しんむじょうの曲を半分ほど歌ったところで、祐経はその曲が無分別だと思ったのであろうか、水干の袖を肩脱ぎして、最後のせめの急調子を打ったのだった。
 6日

静、「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて、「情けなきかな祐経かな。今一折舞はせよかし」とぞ申しける。

そこで静も「君が代の」と声をはりあげて歌い納めたので、人々はこれを聞いて「情けない祐経よ。もう一さし舞わせるようにしろ」と申したのであった。
 7日

詮ずる所、敵―かたきーの前の舞ぞかし。思ふことを歌はばやと思ひて、しづやしづ賎−しずーのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

所詮は敵の前での舞ではある。静は、心中思っているところを歌ってやろうと思い、しづやしづ=しず織りのおだまきを繰るように、静よ静よと繰り返し私の名を呼んで下さったあの昔の判官様の時めく世に、今一度したいものよ。

 8日

吉野山嶺の白雲踏みわけて入りにし人の跡ぞ恋しき

と歌ひければ、鎌倉殿、御簾をさっと下したまひけり。

吉野山-吉野山の峰の白雲を踏みわけて山中深く入ってしまわれた、あのお方の跡が恋しく思われる。

と歌ったので、鎌倉殿は御簾をさっと下ろしてしまはれたのであった。

 9日

鎌倉殿、「白拍子は興ざめたるものにてありけるや。舞の舞ひやう、謡の歌ひよう、怪しからず。頼朝田舎人なれば、聞き知らじとて歌ひたるか。

鎌倉殿は、「白拍子とは興ざめなものであったよ。舞の舞い方、歌の歌い方が気にくわぬ。この頼朝が田舎者だから、わかるまいと思って歌ったのか」
10日

「賎のをだまき繰り返し」とは、頼朝が世つきて、九郎が世になれやとや。あはれおほけなく思ひたるものかな。

「賎のおだまき繰り返し」とは頼朝の世が終わって、九郎判官義経の世になれというのか。なんと身の程もわきまえず考えたものよ。
11日

「吉野嶺の白雲踏みわけて、入りにし人の」とは、たとへば頼朝九郎を攻め落とすといへども、いまだありとござんなれ。あなにくし」とぞ仰せられける。

「吉野山嶺の白雲踏み分けて入りにし人の」とは、早い話が、頼朝が九郎を攻め落としたと言っても、まだ健在だというのだな。うーむ憎いこと、憎いことよ」と仰ったのであった。
12日

二位殿(頼朝の妻、北条政子)これを聞こしめして、「同じ道の者ながらも、情けありてこそ舞ひて候へ。静ならざらん者はいかでか御前にて舞ひ候ふべき。他と日いかなる不思議をも申し候へ、女ははかなきものなれば、思−おぼーしめし許し候へ」と申させたまひければ御簾の方々を少し上げられたり。

二位殿はこれをお聞きになって「同じ遊芸者とはいえ、風雅な心があればこそ舞ったのでございます。静でない他の者なら、どうして殿の御前で舞うことなどできましょうぞ。たとえどのような非常識なことを申しましたとしても、女はかよわい者でございますから、どうかそれをお考えになりお許しなさいまし」と申し上げたので鎌倉殿は御簾の端の方を少しお上げになった。
13日 増鏡

歴史物語、作者不詳、応安年間1368年-1375年の成立。後鳥羽上皇から後醍醐天皇の150年間の記述。

公武闘争の歴史を公家側から百余才の老尼が年若の女房に語る体裁の20巻。
14日 源氏物語の影響が強いと言われる。 承久の変、1221年、後鳥羽上皇は源頼朝の死後、幕府の混乱に乗じて、政権を取り戻すべく執権北条氏を打つ兵を挙げるが敗北する。上皇は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐に流される。
15日 新島守
このおはします所は、人は離れ里遠き島の中なり。海面―うみづらーよりは少しひき入て、山かげにかたそへて、大きやかなる厳―いはほーのそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊など、けしきばかり事そぎたり。
このお住いあそばしている所は、人気もなく里からも離れた島の中である。海べからは少し入りこんだ所で、山かげに片寄せて、大きな厳のそびえているのを支えにしながら、松を柱として、葦をふいた屋根の廊など、ほんの形ばかりの御所として簡素に作ってある。
16日

まことに、「柴の庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御宿りなれど、さる方になまめかしくゆえづきてしなさせたまへり。水無瀬殿思し出づるも夢のやうになん。

ほんとうに、「柴の庵に少しの間住むだけだから」と歌に詠まれた通り、仮そめのものに見えるお住いではあるが、それ相応に、優美に趣向をこらしてお造りになっている。水無瀬の離宮をお思ひだしになるにつけ、それがまるで夢のように思われる。
17日

はるばると見やるる海の眺望、二千里の外も残りなき心地する、いまさらめきたり。潮風のいとこちたく吹き来るをきこしめして、

・我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け

・おなじ世に又すみの江の月や見ん今日こそよそに隠岐の島守

遥かに見渡せる海の眺めは、二千里のかなたまでくまなく見える気持がして、今さらながら、白楽天の詩趣がしみじみと思い返される。潮風が激しく吹いてくるのをお聞きあそばして、
我こそは=私こそ新しい島の番人だ。隠岐の海の荒々しく吹く風よ、気をつけてやさしく吹いてくれ。
おなじ世に=同じこの世でまた住吉の月を見られようか、今遠く離れた隠岐の島守となつている身ではあるが。

18日 十六夜日記いざよひ日記

日記紀行、弘安3年1280年に成立、阿仏作。阿仏は鎌倉時代の歌人。通称、阿仏尼、藤原為家の側室、令泉為相・為守の母。

息子の為、幕府に土地相続問題で訴訟を起こすべく鎌倉に下向した構成。子を思う親の愛情が見て取れる。
19日 いざよふ月

昔壁の中より求め出でたりけむ文の名をば、今の世の人の子は夢ばかりも身の上のこととは知らざりけりな。みづぐきの岡の葛原は返す返すも書き置く跡確かなれども、かひなきものは親のいさめなりけり。

昔、壁の中か探し出したという書物の名前、すなわち「孝経」の「孝」を、今の世の人の子は、少しも自分に関係あることとは知らなかったのである。亡父が繰り返し書き残した筆の跡は確かであるけれども、効果のないものは親の訓戒なのであった。
20日

また賢王の人を捨てたまはぬ政にももれ、忠臣の世を思ふ情けにも捨てらるるものは数ならぬ身一つなりりと思ひ知りなば、またさてしもあらで、なほこの愁へこそやるかたなく悲しけれ。

また賢王が有為の人をお見捨てにならない善政に漏れ、忠臣が世を思う真情にも捨てられるものは、取るにたらないわが身ひとつであったのだと悟っていまえば諦められようが、またそうばかりもいかず、やはりこの嘆きこそ晴らしようん゛なく悲しいものだ。
21日

さらに思ひつづくれば、和歌−やまとうたーの道は、ただまこと少なくあだなるすさびばかりと思ふ人もやあらむ。

さらに思い続けると、和歌の道は、ただ真実が少なく無用な慰みばかりと思う人もあるかもしれない。
22日

日の本の国に天の岩戸開けし時より、四方の神たちの神楽の言葉をはじめて、世ををさめ、者を八原ぐるなかだちとなりにけるとぞ、この道の聖たちは記し置かれたる。

しかし、日本の国で天の岩戸が開いた時以来、この和歌は、四方の神々の神楽の言葉をはじめとして世を治め、ものをやわらげるなかだちになつたのだと、歌の道の大家たちは書き記し置かれている。
23日

さてまた、集を撰ぶ人は例―ためしー多かれど、二たび勅を受けて、世世に聞こえあげたる家は、たくびなほありがたくやありけむ。

それにしてもまた、勅撰集を選ぶ人は先例が多いけど、一人で二度も勅命を受けて代々に選集している家は、例がやはりほとんどなかったであろうよ。
24日

その跡にしもたづさはりて、三人―みたりーの男子―をのこごーども、百千―ももちーの歌の古反―ふるはぐーどもを、いかなる縁―えにしーかありけむ、うづかり持たることあれど、

そのあとに従いかかわって、三人の子息たちが、多くの歌に関する古い書き物の類を、どのような因縁であったのだろうか、あずかり持っているのだけれど、

25日

「道を助けよ。子をはぐくめ。後の世を問へ」とて、深き契りを結び置かれし細川の流れも、ゆえなく堰とどめられしかば、跡問う法―のりーの灯も、道を守り家を助けむ親子の命も、もろともに消えをうらそふ年月を経て、あやうく心細きながら、何としてつれなく今日までは長らふらむ。

今は亡き夫が「歌の道を守りたてよ。子供を養育せよ。私の後世をとむらえ」と言って深い約束を結び置き遺産とされた細川の荘も、理由無く横取りされてしまったので、亡き夫の後世をとむらうたための灯明も、歌道を守り家を盛りたてていこうとする親子の命も、同じくどちらが先に消えるかということを競っているような年月を過ごして、気がかりで不安なまま、どうして表面何事もなく今日まで生きながらえているのであろう。

26日 惜しからぬ身一つはやすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇はなほしのびがたく、道をかへりみる恨みはやらむかたなく、さてもなほ東の亀の鏡にうつさば、くもらぬ影もやあらはるると、めて思ひあまりて、よろづのはばかりを忘れ、身をやうなきものになしはてて、ゆくりもなく、いざよふ月にさそはれ出でなむとぞ思ひなりぬる。

惜しくも無いわが身ひとつはたやすくあきらめるけども、子を思う親心の闇はやはりこらえることができないで、歌道をおもんばかる嘆きは晴らしようがなく、それにしてもやはり鎌倉幕府の正しい裁判にかけたならば、明確な判断もなされるかと、真剣に悩んで思案にあまり、すべての遠慮を忘れ、わが身を無用のものであると思ってしまって、思いもかけず、いざよう月にさそわれて旅に出ようという気になってしまった。

27日

さりとて、文屋康秀−ふんやのやすひでーがさそふにもあらず、住むべき国求むるにもあらず。

だからと言って、文屋康秀が小野小町を誘ったように誰かが誘うわけでもなく、また在原業平のように東国に住むべき国を探しに行くのでもない。
28日

ころは三冬たつはじめの空なれば、降りみ降らずみ時雨も絶えず。嵐にきほふ木の葉さへ、涙とともに乱れ散りつつ、ことにふれて心細く悲しけれど、人やりならぬ道なれば、行きうしとてもとどまるべきなもあらで、何となく急ぎ立ちぬ。

時節は冬のなり始めの空なので、降ったり降らなかったりの時雨も絶えない。嵐に先を争って散る木の葉までが涙とともに乱れ散り乱れ散りして、万事につけて不安で悲しいけれど、我が心から行く旅路なので、行くことがつらいといってもとどまることもできず、何ということもなく旅支度にかかった。
29日 二条家・京極家・冷泉家

藤原定家の子、為家の次ぎの代となると、その三子、為氏・為教・為相が、夫々二条・京極・冷泉の三家を立てて分かれた。

各家は、皇室の対立勢力である大覚寺統・持明院統とも結びつき、歌壇の覇を争うこととなる。
30日

保守的・伝統的な歌風の二条家、京極家は進取的であった。

京極家の撰になる、「玉葉集」「風雅集」の斬新な歌詞は、中世の勅撰集の歴史上、目立つものといわれる。
31日

二条家は近世に至るまで長く歌壇の主流をなしたが、京極家は早くに絶えた。

為相を祖とする冷泉家は、自由な詠みっぷりで、京極家に近く、京極家が絶えた後、二条家と対立するようになる。