熊野三山のひとつ。本宮から熊野川をずっと下った河口、千穂ヶ峰の北東麓に熊野速玉大社は鎮座。
もともとは、速玉大社から南へ1〜2km行った千穂ヶ峰の東南端の神倉山に祀られていたが、のちに現在地に遷され、そのため神倉山の古宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになった。
鮮やかな朱塗りの鳥居。鳥居をくぐり、参道を進むと、右手にやはり朱塗りの摂末社がある。
さらに進むと、右手に朱塗りの神宝館があり、左手には樹齢1000年ほどと推測される梛(なぎ)の大樹が枝を広げている。
神宝館では速玉大社所蔵の古神宝類を展示。 速玉大社は国宝・重文を含む計1204点もの古神宝類を所蔵している。
その神宝館正面、参道挟んで向いに立つのが、推定樹齢1000年の梛(なぎ)の大樹。
平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植え。梛としては日本最大。国の天然記念物に指定。
ナギは熊野権現の御神木、その葉は、笠などにかざすことで魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じら。
ナギはマキ科に属する針葉樹、広葉樹のような幅の広い葉をもつちょっと変わった樹木。
その葉がまた変わっていて、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その一風変わった構造のため、ナギの葉は、縦には簡単に裂くことがでるが、横には枯れ葉であってもなかなかちぎることができない。葉の丈夫さからナギにはコゾウナカセ、チカラシバなどの別名があり、その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があった。
また、ナギは、他の植物の生育を抑制する働きをもつナギラクトンという化学物質を分泌する。葉の丈夫さや他の植物の生育を抑制する力をもつことからナギの葉は魔除けのお守りにされるようになった。
参道を進むと、朱塗りの神門。
神門のなかに入ると、朱塗りの瑞垣。その向こうにやはり朱塗りの社殿が横に5棟並んでいる。真新しく見える社殿は昭和に再建されたもの。向かって左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿・第四殿・神倉宮の三社相殿(あいどの)、第五殿から第十二殿までの八社相殿と5棟、並んでいる。
向かって左に礼殿。礼殿の前には第一本社と第二本社。第一本社は「結宮(むすびのみや)」、熊野結大神(くまのむすびのおおかみ。那智の主神)を祀っている。
第二本社は「速玉宮(はやたまぐう)」といい、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)を祀っている。
新宮では熊野速玉大神・熊野結大神の2柱を主神。速玉大社というので、速玉大神が主神と思われますが、結、速玉の2神が主神だということ。この2神、速玉が男神で、結が女神ということで、夫婦神と考えられた、もともとは一社殿に祀られていた。
神門入って正面の社殿に「上三殿」といい、第三殿の「証誠殿(しょうじょうでん)」、第四殿の「若宮(わかみや)」、「神倉宮」の3社相殿で順に、「家都美御子命(けつみみこのみこと。本宮の主神)、国常立尊」「天照大神」「高倉下命(たかくらじのみこと)」を祀っている。神倉宮は新宮の旧宮の神倉山の祭神を祀ってある。
第二本社と上三殿の間には、小さな摂社の奥御前三神殿があります。天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の3柱を祀っている。
向かって右の社殿は、中四社・下四社の合わせて8社殿の相殿で八柱の神々を祀ってある。
新宮には下記のように熊野十二所権現+神倉山の祭神の13社が祀られている。
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社殿名 |
祭神名 |
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上四社 |
第一殿 |
速玉宮 |
熊野速玉大神・伊邪那岐大神 |
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第二殿 |
結宮 |
熊野夫須美大神・伊邪那美大神 |
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第三殿 |
証誠殿 |
家津美御子大神・国常立尊 |
上三殿 |
第四殿 |
若宮 |
天照皇大神 |
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神倉宮 |
高倉下命 |
中四社 |
第五殿 |
禅児宮 |
忍穂耳尊高倉下命 おしほみみのみこと |
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第六殿 |
聖宮 |
瓊々杵尊 ににぎのみこと |
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第七殿 |
児宮 |
彦穂々出見尊 ひこほほでみのみこと |
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第八殿 |
子守宮 |
うが草葺不合尊(う=慮+鳥、が=茲+鳥) |
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下四社 |
第九殿 |
一万宮 十万宮 |
国狭槌尊 くにさづちのみこと とよくむぬのみこと |
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第十殿 |
勧請宮 |
泥土煮尊 うひじにはにのみこと |
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第十一殿 |
飛行宮 |
大戸道尊 おおとのじのみこと |
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第十二殿 |
米持宮 |
面足尊 おもだるのみこと |
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この他、神門の内や外にもいくつかの摂末社があります。瑞垣内に先に挙げた奥御前三神殿。神門の内には新宮神社、熊野エビス神社。神門の外には八咫烏神社、かぎの宮
手力男神社、熊野稲荷神社がある。
もともと、結・速玉の2神を祀っていた速玉大社。それがのちに(平安の中期ごろでしょうか)、本宮・新宮・那智が熊野三山として連係を結ぶに及んで、家津美御子を勧請、熊野三所権現として三山共通に3柱の神を祀るようになり、熊野信仰の流布とともにのちのちさらに諸神を祀るようになった。
また、明治の神仏分離以前、熊野では神仏は習合していた。
6世紀に伝来された仏教、次第に神道と融和。平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が浸透していきた。
本地垂迹思想とは、神の本地(本体)は仏であるという考え方。仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方。もとの仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹という。また、その仮に現れた神のことを権現という。
平安末期、12世紀には、熊野三山それぞれの12の社殿に祀られた神々は熊野十二所権現と呼ばれ、すべて本体は仏や菩薩であると考えらた。
熊野速玉大神は薬師如来、熊野結大神は千手観音、家津美御子大神は阿弥陀如来を本地とするされた。
本地とされる仏・菩薩にはそれぞれ独自の御利益があり、薬師如来(熊野速玉大神)は過去世の救済、病の治癒を司り、千手観音(熊野結大神)が現世利益を授け、阿弥陀如来(家津美御子大神)が来世の加護を与えるというように考えられた。
過去世・現世・来世の三世にわたって人々を救う神仏の住まう熊野は、浄土の地として人々に認識されるようになっ。
熊野の聖なるイメージを人々に浸透させるのに尽力したのが、平安から鎌倉にかけては山岳仏教の山伏たちであり、南北朝から室町にかけては時衆の念仏聖や熊野比丘尼たち。山伏たちは皇族・貴族に熊野信仰を広め、上皇・女院の「熊野御幸」による熊野全盛期を生み、念仏聖や熊野比丘尼たちは庶民に広め、庶民の「蟻の熊野詣」による熊野全盛期を生んだ。
中世、日本最大の霊場であった熊野だが、やがてその熱狂振りも衰微していく。
江戸時代、熊野三山は紀州藩の宗教政策のもと、神道化。熊野山伏や念仏聖、熊野比丘尼たちの活動を抑圧した。その結果、熊野信仰は衰微していきた。
明治に入ってさらに決定的なまでに熊野信仰は衰微。その最たる原因は、明治元年(1868年
)の神仏分離令だと考えられます。本地垂迹思想により仏教と渾然一体となっていた熊野信仰にとって、国家の神道国教化政策は大きなダメージとなる。これにより熊野を詣でる人は激減した。
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