花の吉野山ー奈良県吉野町
3月のホームページに西行さんの和歌を毎日連載した。西行は実に吉野を愛している。そこで、親友と吉野を久し振りに逍遥することとした。若い新緑と桜花爛漫の桜全山を堪能した。ここには悲惨な歴史が数々あるが華やかさで覆われて義経も、南朝も、後醍醐天皇も、楠木正成、正行親子、そして西行も歴史の彼方に消えうせていた。

金峰神社から義経隠れ塔を尋ねた、西行庵には立ち寄らなかった如意輪寺の、あの楠正行、23才の辞世の歌に感動した。「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる

蔵王堂遥か

吉野
大峰山系の北端、南北8キロほどの尾根筋がいわゆる吉野山。北麓の吉野神宮あたりから、ぐんぐん標高をあげ南の青根ケ峰(あおねがみね・標高858m)が最高峰になる。万葉集にも詠まれた個性的な姿の峰である。ここから奥が大峰山の領域とされ、かつては「女人結界(にょにんけっかい)」の標石がおかれていた。      
吉野山は日本一の桜の名所として全国に知られているが、役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖とする修験道(しゅげんどう)の聖地であり、数々の人間ドラマが刻みこまれた歴史の山でもある。尾根道沿いには金峯山寺(きんぷせんじ)をはじめとする修験道の寺院、後醍醐天皇や源義経にゆかりの深い吉水神社、静御前の伝説がまつわる勝手神社、水の神様を祀る吉野水分神社、吉野の地主神を祀る金峯神社などが、山の奥に誘うように配され四季おりおりの美しさを見せている。上千本にある花矢倉、高城山など胸のすくような絶景ポイントもある。吉野山が桜の名所になったのは、役行者が桜の木に蔵王権現像を刻んだことが、そも起こりという。以来「一枝を切る者は一指を切る」といわれたほど大切にされ保護されていると言う。

蔵王堂

吉野山にある修験道の中心寺院(本堂蔵王堂)。平安時代の藤原道長や白河上皇の参詣は有名で、現世後生の祈願を行った。後醍醐天皇時代には南朝の拠点となり、1348年には蔵王堂などが戦火で消失している。現在の蔵王堂は、1591年に豊臣秀吉・秀頼により再興されたものである。
蔵王堂は、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物として知られている。毎年7月7日にはユーモラスな「蛙飛び」の行事が行われる。蔵王権現をあなどった一行者が突然大鷲にさらわれ、金峯山奥地に置き去りにされたところ、金峯山寺の高僧が男を蛙の姿にして救出し、修験の呪術で元の人間の姿に還らせたとの縁起による行事である。

如意輪寺ー後醍醐天皇の吉野朝の勅願所延喜年間(901〜922)の草創で後、後醍醐天皇の勅願寺となった。尾根道から谷をへだてた山腹に本堂(如意輪堂)、御霊殿、多宝塔、宝物殿などが配されている。楠木正行(まさつら)が足利軍との戦を前に訪れ、扉に辞世の歌を刻んだエピソードで名高い。宝物殿にはこの正行辞世之扉をはじめ、南朝ゆかりの古文書のほか蔵王権現像(重文)などがある。権現像は桜の一木造りで極彩色をほどこした精巧な造りの仏さま。また天井に「寝おがみの観音」と呼ぶ大きな如意輪観音が描かれ、あおむけに寝て拝めるよう台が置かれている。境内には正行が髻(もとどり)を埋めた髻塚、正行の恋人弁内侍(べんのないし)の黒髪を埋めた至情塚(しじょうづか)など南朝のドラマをしのばせるものは数多い。境内からは中千本の桜がひと目で、桜吹雪が谷から舞い上がる風情は格別だ。寺の裏山に後醍醐天皇塔尾(とおのお)陵がある。円墳で北方(京都)に向かって築かれている。南朝の夢かなわず崩御した天皇は、死後もなお京の都を凝視しているわけ。裏山門を出て、展望のいい山道を登ると喜佐谷への入り口、稚児松(ちごまつ)地蔵堂に出る