ふたたび 「奥の細道」B

平成17年8月

 1日 象潟
きさかた

江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責む。酒田の湊より東北の方、山を越磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影ややかたぶく比−ころー、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。

昔の象潟は松島のようであったらしい。文化元年1804年の地震で隆起して陸になつた。
 2日 象潟

闇中に莫作−もさくーして、雨も又奇也とせば、雨後の晴色―せいしょくー又頼母敷―たのもしきーと、あまの苫屋―とまやーに膝をいれて雨の晴を待。

酒田から50キロ離れた場所、鳥海山を挟んで酒田の反対側、鳥海山の北の山麓にある。
 3日 象潟

其朝、天能霽―てんよくはれーて朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島―まずのういんしまーに舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上こぐとよまれし桜の老木―おいきー、西行法師の記念―かたみーをのこす。

西行法師はどこに行きても桜と出会う。
 4日 象潟

江上に御陵あり、神宮后宮の御墓と云。寺を干満珠寺―かんまんじゅしーと云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。

神宮皇后は朝鮮征伐の時、暴風でここに漂着したという伝説がある。皇后袖掛の松、皇后仮の宮や古墳がある。

 5日 象潟

此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海天をささへ、其陰うつりて江にあり、西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築て秋田のかよふ道遥に、海北にかまへて浪打入る所を汐ごしと云。

海と言っても八郎潟のような潟であったから日本海のような激しい波浪はない。それでも日本海独特の暗さがあったのであろう。
 6日 象潟

―江の縦横一里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて,地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し

期待していた象潟は松嶋に似ていたが松嶋は笑うが如く、象潟はうらむが如しと悲しく寂しい眺めであったのだろうか。
 7日 越後路

酒田の余波日―なごりーを重−かさねーて、北陸道の雲に望−のぞむー。遥々のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞、鼠の関をこゆれば越後の地に歩行―あゆみーを改て、越中の国一ぶりの関に到る。

芭蕉は酒田が名残りおしそうである。漸く出発しても蒸し暑く、雨も降り続き持病に悩まされている。
 8日 越後路

此間九日、暑湿の労に神―しんーをなやまし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず

荒海や佐渡によこたふ天河

日記も句も書き記す気にならなかったのである。
 9日 市振―いちぶりー

今日は親知らず・子知らず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越てつかれ侍れば、枕引きよせて寝たるに、一間隔て面のほうに、若き女の声二人斗―ばかりーときこゆ。

親知らずは大変な難所であった。目も眩む断崖の下は日本海、上は垂直の絶壁である。市振は寒村、関所跡あり。
10日

年老たるをのこの声も交て物語するをきけば越後の国新潟と云所の遊女成−なりーし。伊勢参宮するとて、此関までをのこ送りてあすは故郷にかへす文したためて、はかなき言伝―ことづてーなどしやる也。

芭蕉の碑が長円寺にある。遊女の話は実に印象深い挿話である。
11日

白浪のよする汀に身をはふらし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん、衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁―けちえんーせさせ給へ」と泪を落す。

鄙びた旅籠の隣りの部屋の遊女の寝物語を聞けば眠れないであろう。
12日

白浪のよする汀に身をはふらし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因いかにつたなしと、物云をきくきく寝入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行方しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん、衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁―けちえんーせさせ給へ」と泪を落す。

しんしんと夜が更けて因業な話を聞けばとても眠れないであろう。
13日 加賀の国

黒部四十八か瀬とかや。数しらぬ川をわたりて那古と云浦に出。擔籠―たごーと藤浪は春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと人に尋れば、「是より五里いそ伝ひしてむかふの山陰にいり、蜑―あまーの苫ぶきかすかなれば蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、かがの国に入。
わせの香や分入右は有磯海

黒部48瀬と瀬の多い川、那古の浦は富山湾の海岸。

有磯海は、奈呉浦の西に続く海岸。大らかな風景であったろう。
14日 金沢

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処―かしょーと云者有。それが旅宿―りょしゅくーをともにす。

一笑(俳人)と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人―しるひとーも侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け我泣声は秋の風

15日 金沢

ある草庵にいざなはれて
秋涼し手毎にむけや瓜茄子
途中吟

あかあかと日は難面―つれなくーもあきの風

小松と云所にて、
しほらしき名や小松吹萩すすき

16日 太田神社

此所太田の神社に詣−まうづ。実盛が甲・錦の切あり。往昔―そのかみー、源氏に属せし時義朝公より給はらせ給とかや。げにも平土―ひらさぶらひーのものにあらず。
小松の多太神社、句碑あり。

目庇―まびさしーより吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ちたり。実盛討死の後、木曾義仲願状―ぐあんじゃうーにそへて此社に込められ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす

17日 那谷

山中の温湯―いでゆーに行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷−なたーと名付給ふと也。

那谷寺、広い境内に岩山、林など自然を取り入れた庭が美しい。
18日 那谷

那智谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて殊勝の土地也。

石山の石より白し秋の風
19日 山中

温泉に浴す。其効有明に次ぐと云。
山中や菊はたをらぬ湯の匂

黒谷橋たもとに芭蕉堂がある。有明は有馬のこと。

あるじとする物は久米之助とていまだ小童也。かれが父俳諧を好み、洛の貞室若輩のむかし爰に帰て貞徳の門人となって世にしらる。功名の後、此一村判詞の料を請−うけーずと云。今更むかし語とはなりぬ。

芭蕉の泊った泉屋は古い家柄。

20日

曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、
行々―ゆきゆきーてたふれ伏とも萩の原 曾良と書置きたり。

曾良は長島温泉で病を癒した。

21日

行ものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧−せきふーのわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
今日よりや書付消さん笠の露

苔むした渓谷は幽谷の思いも深く巨岩、濃い緑が見られたのであろう。
22日 全昌寺

大聖寺の域外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地也。曾良も前の夜、此寺に泊て、
終宵―よもすがらー秋風聞やうらの山
と残す。

曾良は病気で先に帰ることとなった。
23日

一夜の隔千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのの空近う読経声すむままに、鐘板鳴て食堂―じきどうーに入。

一夜の云々は曾良のことである。
24日

けふは越前の国へと心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかかへ、階―きざはしーのもとまで追来る。―折節庭中の柳散れば・
庭掃て出−いでーばや寺に散柳

全昌寺のこの句の石碑がある
25日

汐越の松

越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。―終宵−よもすがらー嵐に波をはこばせて

月をたれたる汐越の松  西行
26日 天竜寺・永平寺

―丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又金沢の北枝―ほくしーといふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来たる。所々の風景過さず思ひつづけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に臨みて、
物書て扇引さく余波−なごりー

永平寺の末寺の松岡天竜寺である。丸岡は誤り。
27日

五十丁山に入て永平寺を礼する。道元禅師の御寺也。邦畿千里を避て、かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆえ有とかや。

松岡はも福井藩の支藩であった
28日 福井

福井は三里計―ばかりーなれば、夕餉したためて出るに、たそかれの路たどたどし。ここに等栽−とうさいーと云古き隠士有。いづれの年にか江戸に来りて予を尋。遥十とせ余り也。いかに老いさらぼひて有にや。将死にけるにやと人に尋侍れば、いまだ存命してそこそこと教ふ。

等栽を訪問する話は、中々小説的な記述。
29日

―市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕顔・へちまのはえかかりて、鶏頭はは木々に戸ほそをかくす。さては此うちにこそと門を叩ば侘しげなる女の出て、

このあたりの叙述はさすがである。
30日

「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものの方に行ぬ。もし用あらば尋給え」といふ。

白根が岳かくれて比那が岳あらはる。白山が見えなくなって、日野山が見え始める。
31日

かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかかる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等裁も共に送らんと、裾をかしうからげて路の枝折とうかれ立。

この福井の情緒ある筆捌きに陶酔しつつ読む。