ふたたび 「奥の細道」A
一昨年十月と十一月の二ヶ月に渡り奥の細道の中から俳句のみ、本ホームページに掲載した。私は、昨年は、一年の内、三ヶ月を登山している、「山の自然の風雅な旅」であろうか。それは心に於いて芭蕉の旅と似通っている。矢張り、私は芭蕉に惹かれるのである。今回は、全文を心行くまで楽しみたい。平成17年 6月 1日 徳永圀典

 1日 末の松山 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造て末松山しいふ。松のあひ々々皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと悲しさも増りて、 末の松山から近い沖の石
 2日

塩がまの浦に入相のかねを聞。五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に籬が島もほど近し。蜑の小舟こぎつれて肴わかつ声々に・・・

多賀城跡の南に宝国寺裏に末の松山
 3日 松島 日既−ひすでにー午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯につく。抑−そもそもーことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭−およそどうていー・西湖を恥−はぢーず。 東南より海を入て江の中三里、浙江の潮をたたふ。島々の数を尽して、そばだつものは天を指−ゆびさすー、ふすものは波に匍匐―ほうばうー
 4日

あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負−おへーるあり抱けるあり。児孫愛するがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たわめて、屈曲おのつがらためたるがごとし。その気色へん然として美人の顔を粧ふ。・・

松島や鶴に身をかれほととぎす           曾良
 5日

日記によると名取川を渡り仙台城下のあちこちを見物している。多賀城、塩釜、末の松山、沖の石などを廻っている。

末の松山では、古歌の、末の松山浪も越えなむ、などの契りも儚いと感傷にしたっている。
 6日 瑞巌寺 十一日も瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐帰朝後開山す。 その後に雲居禅師の徳化に依て、七堂甍改まりて、金壁荘厳光を輝し、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
 7日 石巻 十二日、平和泉と心ざし、あはねの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘−ちとすうぎょうーの往ふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて石の巻といふ湊に出。 芭蕉は瑞巌寺を気に入り雄島から八幡社、五大堂などまわり松島に泊した。
 8日 石巻

石巻をたった一行は北上川沿いの一関への道を北上し平泉に向かう。

高館山、判官屋敷ともいい、義経のいた館跡。その義経堂、中に義経像がある。
 9日

平泉

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。

衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。
10日 平泉

泰衡等が旧館は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐって此城にこもり、功名一時のくさむらーとなる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪を落としは侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良

11日 平泉(光堂)

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。

七宝散うせて珠の扉風にやふれ、金の柱霜雪に朽てち、すでに、頽廃空虚の叢と成るべきを、四面新たに囲みて甍を覆て風雨をしのぐ。暫時の祈念とはなれり。
五月雨の降りのこしや光堂

12日

二堂とは、光堂、即ち金色堂と経堂の意味。三将の像とは、間違いらしい、文殊菩薩、ウデ大王、善哉童子のことである。

光堂の三尊は、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩である。
13日

芭蕉の時代には、既に朽ち果てようとしていて堂の周囲を板で囲んでいたらしい。

よく今日まで保存されたものである。
14日

尿前の関−しとまえのせきー

南部道遙にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みずの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかかりて出羽の国に越んとす。

此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸−やうやうーとして関をこす。
15日

大山をのぼって日既暮ければ、封人の家を見かけて舎−やどりーを求む。三日風雨あれてよしなき山中に逗留す。

蚤虱馬の尿−ばりーする枕もと
16日

この関は調べがきびかったらしい。大雨にあい、宮城・山形県境の山形側堺田部落で宿した。

大雨の終わるまで逗留し、山刀伐峠を越えて尾花沢に下った
17日 山刀伐峠
―なたぎりとうげー

あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。

さらばとて人を頼侍れば、究竟―くっきょうーの若者反脇指−そりわきざしーをよこたへ、樫の杖を携て我々が先に立て行く。けふこそ必ずあやふきめにもあふべき日なれど、辛き思ひをなして後に・・・。
18日 尾花沢

尾花沢にて清風と云う者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比−ひごろーとどめて長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。

涼しさを我宿にしてねまる也

這ひ出でよかひやが下のひきの声
19日

幕府方の総大将は北条泰時、彼は次ぎの天皇を土御門上皇の皇子に決めたが、これが後嵯峨天皇である。

この時、皇位決定権は皇室から離れた、主権在民となり国体は変化したのである
20日 立石寺

山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるに依て、尾花沢よりとって返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。・・・

閑さや岩にしみ入蝉の声
21日 大石田

最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ芦角一声の心をやはらげ。

此道にさぐりあしして新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、・・
22日 最上川

最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをやいな船といふならし。

白糸の滝は青葉の隙々に落て、仙人堂岸に臨て立。水みなぎって舟あやふし。

五月雨をあつめて早し最上川
23日 羽黒

六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。

四日、本坊において俳諧興行。

有難や雪をかをらす南谷
24日 羽黒

五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。延喜式に羽州里山の神社と有。書写、黒の字を里山となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。

出羽といへるは、鳥の毛羽を此国の貢に献ると風土記に侍とやらん。
25日 羽黒

月山・湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、園頓融通の法の灯かかげそひて、僧房棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にしてめで度御山と謂つべし。

羽黒神社本殿の入母屋造りの大きな屋根が周囲を圧倒している。鬱蒼とした巨杉林の美しさが印象深い。
26日 湯殿山

月山の西南麓にある姥が岳の険しい崖にのぞむ谷の神社で、褐色の大きな岩から熱湯がでて、それがご神体になっている。

湯殿山は三山の奥の院のかたちになっている。
27日 月山

八日、月山にのぼる。木綿−ゆふーしめ身に引きかけ、宝冠に頭を包、強力とも云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、身絶身こごえて頂上に到れば日没て月顕る。

笹を舗−しーき、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。
28日 月山

谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰てここに潔斎して剣を打、終−つひにー月山と銘を切て世に賞せらる。彼−かのー竜泉に剣を淬−にらぐーとかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に勘能の執あさからぬ事をしられたり。

涼しさやほの三日月の羽黒山

雲の峰幾つ崩て月の山

29日 湯殿山

岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積む雪の下に埋て春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。

炎天の梅花爰にかをるがごとし。行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。・・・
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良

30日 酒田

羽黒を立て鶴が岡の城下、長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、俳諧一巻有。左吉も共に送りぬ。

川舟に乗て酒田の湊に下る。淵庵不玉と云医師の許を宿とす。
31日 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すずみ 暑き日を海にいれたり最上川