色は匂へど散りぬるを 徳永圀典
現世の救い
仏教に関心を持って久しい。智者の振る舞いをせずただ南無阿弥陀仏を唱うればお浄土にいけると説く浄土宗。鎌倉・戦国時代の民衆は飢餓と戦乱でこの世はまさに地獄、お念仏を唱え来世に託すほか救いはなかった時代と異なり現代人にそれのみで現世の救いとなり得るのか。鎌倉時代の如く民と共に生き、苦しみ、生きる道の見本を示す祖師の如き僧侶もいない現代、現代の衆生を救うにはそれなりの理が必要と思える。その理の先、人間最晩年には間違いなく南無阿弥陀仏のみの境地があるとは確信するが青壮年期の生の戦いの最中に南無の帰依のみで生きる支えとはなり得まい。
かかる意味で理のある救いをと私は多年にわたり求め続けてきた。第一、阿弥陀仏は西方浄土の盟主、あの世に行く時にお願いはするがこの世では現世の仏様に導いて頂きたく思って少しも不思議はない。本来人間は現世を誠実に生き抜くことで自ずからお浄土に繋がって少しもおかしくない。現世の生きる道の範を示す事こそ宗教者の真の目的であらねばならぬがこれらの答えが現代宗教者には無い。
是生滅法
仏教の基本原理は三法印、四聖諦、十二縁起、空と言われる。空海が作った「いろは歌」は涅槃経の諸行無常を、いろはで表現した日本の傑作。「色は匂へど散りぬるを」桜花爛漫も栄華も人間も文明さえも必ず滅びる。「わがよたれぞつねならむ」我が世誰ぞ常ならむ、これは是生滅法、この世には常なるものは無い、宇宙の本質は変化。「うゐのおくやまけふこえて」有為の奥山今日越えて、あるゆる存在、因縁により作られたものを越えるとは因縁の道理に目覚めること、この世の存在を不変と見ずに因縁により生起したと見る、これは生滅滅己。「あさきゆめみじゑひもせず」人生、今日は今日のみの一期一会、寂滅為楽である。
実体我
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静が仏法の真理・三法印。すべてのものは無常、無我であると悟り執着を断てば平安な境地を得る。諸行は因縁により造られた一切のもの。これらが連続して流れ、一瞬にして滅する。無常なるものはみな苦であり第四法印は一切皆苦。諸法の法は行と同じ、心身を構成する五蘊(物質、感覚、知覚、意志、認識)を空と見る。我は存在せず、我が生命は常に躍動してやまず、生命は一息、一呼吸の中にこそある。常在、不変化の実体我は存在しない、これが諸法無我。この原理の上に宗教的実践を行うのが涅槃寂静。現実的には我に執着するが、これを制し、律して無我となり自立自由になった時こそ、涅槃寂静。涅槃は本質的には煩悩の火を消すこと、解脱を意味する。この涅槃の状態を寂静、自分を縛っているものからの解放が即ち心の浄土である。
無常の法
無常の法は、思考や論理から出発したものではなく、在るがままの現実から把握したものでなくてはなるまい。滅びさったものに感傷を抱くことに仏教は無縁、地上にあるものが無常の劫火に焼かれて滅ぶ相を在るがままに見ているにすぎない。
在るがままの現実
苦とは生老病死、再び戻らぬから死を悲しむのは無益、「もう私の力の及ばぬもの」と悟り悲観から去らねばならぬ。霊魂は実在するのか、死後の世界が在るかどおかを推論するのが分別で、この分別を超えた世界を仏陀のみが観たのであろう。
仏は創造神ではない、現に存在しているものに着目、目前の現象が縁に因っていることを見極めるものではないか。仏法にとって真理とは、在るがままの現実は無常であり、在るがままの現実を無常法と観ることを出発点とするのだ。宗教は証明や論証がなされるものではなく稀有な資質を持つ人のみが、厳しい長い苦行の後に体得するものなのであろう。人生は苦であるのは無明に基づく。無明がある限り、老死があり、苦がある。般若心経に「無明もなく、無明も尽きることもなく、老死もなく、老死も尽きることもなし」とある。
無明
仏陀の目指した人間苦の除去の為には無明、無苦を明らめねばならぬ。それには迷いの元である12縁起の連鎖を断ち切らねばならぬ。12項目を否定すれば悟りの生き方になる。生も死もすべて無常で、無我で、縁起したものにすぎないと観ることだ。すべてが無常で、無我であると体得した時、人は仏-覚者になる。人生は苦と説いたのが苦聖諦、苦の原因は欲望や愛着の心にあるという真理を明らめたのが集聖諦。滅聖諦は苦悩の原因である煩悩が無くなった状態、仏教の目指す浄土は涅槃にあると言う真理。道聖諦は、涅槃に到達するための実践方法を説き八正道を指す。仏陀や聖者はこのことを知識でなく体得した。(続)