鷹ヶ峰・常照寺ー京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町1
吉野太夫のお墓のあるお寺である。閑静な冬の木立の中に、紅葉の落ち葉が積み重なるように、絨毯のように一面に広がって、時雨に濡れていた。
平成15年12月9日

吉野太夫
洛北にある吉野太夫ゆかりの寺。吉野太夫は1606(慶長11)年、東山の方広寺近くの生まれ。父は西国の武士だったが、幼少時に死別し、六条三筋の遊廓に預けられた。14歳で太夫の地位につき、才色兼備の吉野は「天下随一希代の太夫」と謳われ、その名声は中国にまで届いたとか。寺には太夫寄進の山門と、太夫の墓が残る。授与品には、吉野太夫が描かれたオリジナルの脂とり紙もある。境内にある帯塚では、毎年5月に帯供養が行なわれる。

大変利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はむろん、管弦では琴、琵琶、笙をよくし、書、茶湯、立花、貝合わせ、囲碁、双六に至るまで諸芸はすべて達人の境にあり、その名声は遠く明国まで聞こえたそうです。
寛永四年には、どうやって知ったのか、明国呉興からラブレターが届きました。
さらにその美貌を証する逸話があります。ある時、六条廓全太夫の集まりがあり、一同今日を晴れと綾羅錦繍の贅を尽して参例しましたが、吉野の姿が見えません。昨夜上客につきあって暁天まで起きていたので、まだ寝ていたのです。もういいだろうと起こしにやると、吉野は少しも騒がず、寝乱れ髪に黒い小袖をひっかけ、おっとりとあらわれて、すまして上座に着きました。その寝ぼけ顔の美しさ、太夫らは、しばし言葉も忘れて見とれたといいます。
加えて、情の厚さ、心の深さを伝える説話も多くあります。七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が吉野を見染め、せっせと小金を溜めたものの太夫を揚げることができない身にほどを嘆いていると、それを聞き知った吉野は不憫に思い、ひそかに呼び入れて会ってやりました。ところがこの情が仇となったらしく、寛永八年、吉野は訴論によって年季満たずに廓を退くはめになり、それを期に上京の豪商灰屋紹益に身請けされました。時に紹益二十二歳、吉野二十六歳。しかし、この幸せは永く続きませんでした。吉野は紹益と添うて僅かに十二年。寛永二十年八月二十五日、三十八歳の短い生涯をとじました。紹益は愛着のあまり、妻の骨灰を飲みほし、佳き妻をうしなった悲しみを「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」と詠みました。吉野の墓は日ごろ帰依していた鷹ヶ峰・常照寺にあり、毎年四月に吉野を偲んで花供養が行われます。