神様の衣装箱   
       
            日本海新聞潮流に寄稿 平成14年5月23日

旅についての見聞は神様の衣装から始めよう。神様の衣装のような風景は東北から語りたい。秋の十和田湖上とか発荷峠から見る周囲の絢爛豪華の錦秋は神様の衣装と言うしか表現を知らない。八甲田のブナの紅葉樹林の中で死ねたら私は本望である。ここは神様のしとねではなかろうか。紅葉は滅びの美という人もいるが、私にはこの世の極楽に思える。そう、奥入瀬の樹林でもいい。幾たびも歩いたが、感動と共に日本に生まれた喜びを感じる。中禅寺湖周辺の全山紅葉も見事というしかない。ここも神様の別の衣装に違いない。春の新緑は言うを待たない。新緑は命の蘇生と循環を思わせ、生命賛歌を叫びたくなる。十和田湖畔の林にて、早春のある日、妻のつぶやきを漏れ聞いた。
          みちのくの春はゆたかにひろがりて

キクザキイチゲひそと咲きおり

薄紫の控えめな可憐さがいとおしい。甲府は韮崎付近から見える、春の鳳凰三山の景色は神様の春の召し物のようだ。頭には雪烏帽子、身丈は赤い桃花模様、そして裾は萌黄の淡い緑色。日本ってこんなに美しい、と言って世界中に回覧板を回したい。黒部渓谷の衣装も神様模様だ。あれは普段着かも知れない、荒々しい仕事で擦り切れているようだ。京都は常寂光寺の黄一色の紅葉、これは神様が都会に遊びに出られたお洒落着なのであろう。京都と言えば洛北にある後水尾上皇の修学院離宮の豪華さも忘れられない。離宮正門近く、モミジの真紅の衣装は神様の何の衣装であろうか。日本の神様は衣装持ちのようである。神様の正装は文句なしに伊豆半島から見た富士山の麗姿であろう。ここは日本の神様が裃-カミシモ-の正装をしてお迎え下さる正面玄関である。そして奥座敷の箱根に案内して下さる。渡り廊下の十国峠から相模湾とか駿河湾を見渡して古代から多く歌われている。 

  あめつちの 分れし時ゆ かむさびて 高く貴き駿河なる 
  ふじの高嶺を あまのはら ふりさけみればわたる日の 
  影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行はばかり
  時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 
  ふじの高嶺は


反歌 
  たごの浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ 不尽の

高嶺に 雪は降りける

源実朝も政治家でなく歌人のほうが幸せであった人だ。

   箱根路を越えさりゆかば伊豆の海や沖の小島に波の立つ見ゆ  

私も愚作をつくる。

  片瀬なる岩場の海に黒潮が青く砕けて白く散るかも

伊豆半島付近の駿河湾も相模灘も海が実に明るいコバルトブルーで魅惑的であり一時期没頭した。将軍や殿様クラスの衣装は全国どこにでもあろう。

春はどこでも

長い冬を忍んで待ちに待った早春の3月、新緑を待ち兼ねて、山々に出かけるももどかしいような木々、散々に歩き回すも新緑はまだまだと疲れて帰宅する。一風呂浴びて庭の樹木をよくよく見れば、新芽や蕾は満を持して膨らんでいるではないか。春は枝頭にあって既に充分、これが早春の風景だ。それからつかの間だ。遠くに眺める森の梢に先ず、ぼやけたような薄茶色が霞む。それが次第に萌黄色となり、薄緑となり新芽がふいてくる。この頃の期待感は命の蘇りを待つ思いで私の最も好きな季節である。その前に桜前線が日本国中をあっと言う間に北上する。染井吉野桜もいいが、私には楚々とした風情に見える山桜が針葉樹林の中に控えめに咲いている姿を好む。群生しないのもいい。印象的には京都の保津峡であろうか、両岸のそそり立つ山々の斜面に垣間見える。桜と言えば伊豆の河津桜は2月に咲いて温泉情緒を高めてくれる。箱根桜の花の小ぶりもいじらしい。岐阜と富山県境に近い御母衣ダムの樹齢400年の荘川桜の物語は感動的である。岐阜の薄墨桜はなんとも言えない不思議な桜樹だ。東北は角館の土手桜、弘前城の爛漫たる桜花には圧倒される。お城や武家屋敷の歴史美が格調を高めている。京都は丸山公園の枝垂桜は夜が豪華で華やかだ。その昔、用瀬の我が家の大裏にあった老枝垂桜は、離れの新建で祖父や両親が楽しんだが間違いなく庶民の衣装だ。倉吉は打吹公園で妖艶な美人桜の花吹雪を浴びた。

   たおやかに 袖ひるがえす しだ桜  

忘れていた、奥琵琶湖は海津大崎の桜は一見に如かず。湖の船上からは更にいい。(続く)