神倉神社ー神倉山 神体山   新宮市神倉町

 祭神 高倉下命  配祀神 天照大神
538段の石段は実に険しい、荒々しい石段で源頼朝の寄進という。
熊野速玉大社の摂社、熊野権現のこの地方における最初の垂迹の地。九州の英彦山に八角の水晶の姿で降臨し、修験道ゆかりの山々を経由し、切部山から神倉山に天降り、さらに熊野川向こうの石淵の谷に遷って後、速玉社と家津御子社に祀られたと言う。熊野根本大権現と呼ばれた。
要は速玉大社より古い信仰の場であったことが認識される。速玉大社からはゴトビキ岩は見えない。天に向かった男根を祀っていると思わせる信仰か。
 御神体はゴトビキ岩である。ゴトビキはヒキガエルの方言。ゴトビキ岩を袈裟岩が支える構造。この袈裟岩の穴から袈裟襷文銅鐸の破片が出土している。弥生後期にはすでに祭祀の場であった。
 神武紀に「熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登り、荒坂の津で高倉下から神剣フツノミタマを献じられた」とある。この天磐盾に比定されている。
高倉下命が剣をささげたのか、後世の記紀の伝承から高倉下命がゴトビキの神となったのか。熊野国造は物部系であった。それが高倉下命であった。中央では物部氏大伴氏が勢いがあった、記紀の編纂も行われていた。そういう事から高倉下命が祭神とされたのか、その姿に打たれる磐座である。


2月 6日  御灯祭 修験行事の火祭り。
夜7時頃、速玉大社から大まさかりに先導された行列が神倉山に登り、本殿前で聖火を作り、二本の迎え松に移し、中腹の地蔵堂まで運ぶ。ここで白装束の数百人の男子がおのおの手にした松明に火をつけ、頂上の本殿まであがり、それから一斉に急さかを駆け下りる。その後神官たちが山を下り、阿須賀神社まで行き奉幣し、速玉大社へ帰る。勇壮な祭り。