光悦寺京都市北区鷹峯光悦寺町


何年ぶりであろうか、初冬で紅葉はなかったが人も多く、北山時雨も乙なものであつた。鷹峰三山を見渡せる景勝の地で静かに雰囲気を楽しんだ。噂に違わず光悦垣のセンスの良さを再確認したが紅葉の季節とか新緑の頃はさてこそと思われる。平成15年12月9日

元和元年(1615)本阿弥光悦は、徳川家康から拝領した鷹ヶ峰の地に一族縁者や工芸職人とともに移り住み、光悦を中心とするいわば芸術村を営んだ。その芸術村の足跡を象徴するのが光悦寺。
楓が天を薄くおおう境内には光悦の意気が感じられる太虚庵、光悦の像を安置する三巴亭、了寂軒・本阿弥庵など七つの茶室が散在している。また太虚案前にめぐらされている垣根は、「光悦垣」と呼ばれ、ゆるやかに孤を描いて背が低くなり、牛の寝た姿に似ているところから臥牛(がぎゅう)垣ともいわれている。緑の多いひっそりとしたお寺。

鷹峰三山(鷹ヶ峰,鷲ヶ峰,天ヶ峰)を見渡す光悦寺は,元和元年(1615),徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地である。光悦はそこに一族縁者をはじめ,刀,蒔絵,絵画,陶芸などの工芸職人を住まわせ,工芸集落を営んだ。光悦は刀剣の鑑定・研摩を業とする本阿弥家の分家に生れた。家業のほかに書道(青蓮院流)は寛永三筆の一人といわれ,蒔絵,楽焼に秀でていた。また,古田織部や織田有楽斎に茶道の教えも受け,千宗旦とも深く交わって茶道の奥義を極めた。境内には大虚庵をはじめとする7つの茶席や東屋があり,毎年11月10日から13日の4日間は光悦忌茶会が行われている。

◇本阿弥光悦◇
江戸初期随一の文化人。家業の刀剣の鑑定、研磨のほか絵画、陶芸、書道、作庭などあらゆる分野に優れていて独創的な才能を発揮した人。