日本人の「心の古典」8 十訓抄・平家物語
            説話集、建長4年、1252年。作者不明。年少者のための教訓集。

 1日

能は歌詠み

花園の大臣の御もとにはじめて参りたる侍―さぶらひーの名簿―みやうぶーのはし書きに、能は歌詠みと書きたりけり。

花園の大臣の御もとに初めて参上した侍の名簿のはし書きに、「特技は和歌を詠むこと」と書いてあった。

 2日 殿の、秋のはじめに南殿―なでんーの出でて、はたおりの鳴くを愛しておはしましけるに、暮れければ、「格子下ろしに人参れ」と仰せられけるに、蔵人五位違−たがーひて人も候はぬと申して、この侍の参りたるを「汝は歌詠みとな」とありければ、

大臣が、秋の初めに南殿に出て、きりぎりすの鳴くのを愛でていらっしゃったところ、日が暮れたので、「格子を下ろしに誰か参れ」とおっしゃると、蔵人の五位の者が居合わせず、他に人もおりませんと申して、この侍が参上したが、「すぐおまえが下ろせ」と仰せがあったので、格子を下ろしてさしあげたところ、「おまえは歌詠みであったな」とお言葉があった。

 3日

かしこまりて格子下ろしさして候ふに「このはたおりをば聞くや。一首つかまつれ」と仰せられければ「青柳の」と五文字を出だしたるを、候ひける女房たち、折にあはずと思ひたりげにて、笑ひ出だしけるを

おそれ慎んで格子を下ろしかけていたところ「このきりぎりすの声を聞いているか。一首歌を詠んでみよ」とおっしゃったので「青柳の」と初めの五文字を詠み始めたのを「伺候していた女房たちが、秋のきりぎりすの題詠に春のものである青柳を歌に詠み込んでいるので、季節に合わないと思っている様子で笑いだしたものだから、

 4日

「ものを聞きはてず、笑ふやうやある」と仰せられて「とくつかまつれ」と仰せられければ、

青柳の緑の糸をくりかへと夏経て秋ぞはたおりは鳴く

と詠みたりければ萩織りたる直垂をおし出して賜はせてけり。

「ものを終わりまで聞かず、笑うというほうがあるか」とおっしゃって「早く詠んでみよ」と仰せられたところ、「青柳の青く芽吹いた枝の緑の糸を繰り返したぐって返しては機を織って、夏を経て秋となった今、きりぎりすは鳴くことだ」と詠んだので、萩の模様を織りこんだ直垂を取り出してお与えになったのだった。

 5日

寛平歌合に、初雁を

春霞かすみて去にし雁がねの今ぞ鳴くなる秋霧の上に
ー友則詠める。

寛平の歌合わせの折に「初雁」という題を。紀友則が
春霞の立つころ遠く霞んで飛び去っていった雁が今鳴いているようだ。この秋霧が立ちこめた空の上でと詠んだ。

 6日 左方にてありけるに、五文字を詠じたりける時、右方の人ことごとく笑ひけり。

友則は左方であったが、初めの五文字を詠んだ時、秋のものである「初雁」を詠むのに「春霞」と詠みだしたので、右方の人々は残らず笑った。

 7日

さて、次の句に、「かすみて去にし」と言ひけるにこそ、音もせずなりにけれ。

そうして、次ぎの句で、「かすみて去にし」と言った時には、声一つなくなってしまったのだった。

 8日 ものを聞きもはてず、ひた騒ぎに笑ふことあるまじきことなり。また、さやうに思ひがけぬことも詠むまじきにや。

終わりまでものを聞かずに、無闇に騒いで笑うことはあってはならないことである。

 9日 また、人ありて、まことに誤りをしたたりとも、わがために苦しみのなからんに、あながちに難じそしりても何かせむ。 また、そのように思いがけないことも詠むべきではないのではなかろうか。また、ある人が、本当の誤りをしたとしても、それが自分にとって苦痛になることがないような時に、いい気になって非難しも悪口を言っても何になろうか。
10日

平家物語

中世軍記の代表作、承久頃、1219-21年成立。琵琶法師に語られ平曲として広まった。新時代の武士が躍動的に描かれ王朝世界から武士時代へま時代相が鮮やかに描かれ人口に膾炙した物語。

諸行無常、盛者必衰、因果応報の仏教思想が基調をなしている。
作者は未詳。

11日

巻第一

祇園精舎

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のこどし。

祇園精舎の鐘の音には「諸行無常―すべてのものは刻々変化する」と教える響きがこもっている。白色に変じた沙羅双樹の花の色は「盛者必衰―勢いの盛んな者も必ず衰える」の道理を表わしている。驕りたかぶっている人も長続きしない。それは全く、はかない春の夜の夢と同じである。

12日 たけき者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱い、唐の録山、これらは皆旧主先皇の政にも従わず、楽しみをきはめ、いさめをも思ひいれず、天下の乱れむことをさとらずして、亡じにし者どもなり。 武勇にはやる者も、結局は滅びてしまう。ただ風の前の塵と同じである。遠く外国に例を尋ねてみると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱い、唐の安録山、これらはみな、自分の仕えていた元の君主や皇帝の政治にも服従せず、栄華享楽の限りを尽くし、人の諫言をも心にかけず、天下が乱れることも悟らないで、民衆の憂い苦しんでいるのにも気づかなかったので、その栄華も長続きせず滅びてしまった者どもである。
13日 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣、平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心もことばも及ばれぬ。 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣、平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心もことばも及ばれぬ。−近く日本の例を考えてみると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親、平治の藤原信頼、これらの人物は、驕りたかぶる心も、武勇にはやることも、みな各人それぞれであったが、最近では、六波羅の入道前太政大臣、平朝臣清盛公と申した人の栄華のありさまは、伝え聞いてみると、想像も及ばず、言葉でも言い表せないほどである。
14日

敦盛の最後

巻第九
平清盛は政権を掌握し、一門は栄華を極める。人徳ある長男の重盛死後、清盛は関白等の官職を奪い、後白河法皇を幽閉し、高倉天皇を退け自分の三歳の孫を即位させた。

専横に源三位頼政の挙兵は失敗はしたが、頼朝・義仲・義経らも立ち上がる。清盛が死に西国に追われた平家は、須磨一の谷まで戻り陣を構えた。寿永3年、1184年源氏勢が迫り、義経がひよどり越から急襲し平家は敗走した。

15日 若く美しい美形の公達と、年輩の東国の荒武者との宿命的な出会いである。 戦陣で笛を吹く風雅な貴公子は、敵の同情を拒んで死ぬ潔い武士―もののふーであった。散る花を惜しむように叙述は身分高い若武者を描く。
16日 いくさ破れにければ、熊谷次郎直実「平家の公達―きんだちー、助け船に乗らんと、みぎはの方へぞ落ちたまふらん。あっぱれ、よからう大将軍に組まばや」とて磯の方へ歩まするところに、 平家は一の谷の戦いに敗れたので、熊谷次郎直実は「平家の公達が、助け船に乗ろうと波打ち際の方へ逃げて行かれるだろう。ああ、誰か身分の高い立派な大将軍と組討ちしたいものだ」と思って海岸の方へ馬を進めていると、
17日 練貫−ねりぬきーに鶴縫うたる直垂―ひたたれーに、萌黄匂−もえぎにほひーの鎧着て、鍬形打ったる甲の緒締め、こがね作りの太刀をはき、切斑―きりふーの矢負ひ、滋藤の弓持って、連銭葦毛なる馬に、金覆輪−きんぷくりんーの鞍置いて乗ったる武者一騎、沖なる船に目をかけて、海へざっとうち入れ五、六段ばかり泳がせたるを、 練貫に鶴の模様を縫い取りした直垂に、萌黄匂の鎧を着て、鍬形をつけた兜の緒を締め、黄金作りの太刀を腰に下げ、切斑の矢を背負い、滋藤の弓を持って、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖にいる船を目がけて、海へざっと馬を乗り入れ、五、六段ばかり泳がせているのを見つけて
18日 熊谷、む「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも、敵に後ろを見させたまふものかな。返させたまへ。」と扇を上げて招きければ、招かれて取って返す。 熊谷が「そこに行かれるのは大将軍とお見受けします。卑怯にも敵に背中をお見せなさるものよ。お戻りなさい。と、扇をあげて招いたところ、その武者は招かれて引き返す。
19日 汀にうち上がらんとするところに、押し並べて、むずと組んで、とどうと落ち、取って押さへて、首をかかんと、甲を押しあふのけて見ければ、年十六、七ばかりなるが、薄化粧してかね黒なり。 波打ち際に上がろうとするところへ、馬を並べて、むずと組んで、どっと馬から落ち、取り押さえて首を斬ろうと、兜を押しのけて見たところ、年は十六、七ほどで、薄化粧して、鉄漿黒をつけている。
20日 わが子の小次郎がよはひほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。「そもそも、いかなる人にてましまし候ふぞ。名のらせたまへ。助けまいらせん。」と申せば わが子の小次郎ほどの年齢で、容貌はまことに美しかったので、どこに刀を突き立ててよいかも分からない。「いったいどういう方でいらっしゃいますか。お名乗りください。お助け申しましよう」と申すと、
21日 「なんぢは誰ぞ」と問ひたまふ。「物その者で候はねども、武蔵国の住人、熊谷次郎直実。」と名のり申す。 「お前は誰だ」とおたずねになる。「ものの数にも入らぬつまらぬ者でございますが、武蔵国の住人、熊谷次郎直実」と名乗り申す。
22日 「さては、なんぢに会うては名のるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも、首を取って人に問へ。見知らうずるぞ。」とぞのたまひける。 「それでは、お前に対しては名のらずにおこう。お前にとってはよい敵だぞ。名乗らなくとも、首を取って人に問うがよい。きっと見知っていようぞ。」とおっしゃったのだった。
23日 熊谷、「あっぱれ、大将軍や。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。また、討ちたてまつらずとも、勝つべきいくさに負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆きたまはんずらん。あはれ、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥・梶原、五十騎ばかりで続いたり。 熊谷は「ああ、立派な大将軍だ。この人一人を討ち取り申したとしても、負けるはずの合戦に負けるということもまさかあるまい。小次郎が軽い傷を負ったのでさえ、直実は気がかりでならないのに、この殿の父君は、わが子が討たれたと聞いて、どれほどお嘆きになるだろう。ああ、助けてさしあげたい」と思って、後ろの味方の方をさっと振り返って見ると、土肥・梶原の軍勢が五十騎ほど続いて来ている。
24日 熊谷、涙を抑えて申しけるは、「助けまいらせんと存じ候へども、味方の軍兵−ぐんぴょうー雲霞のこどく候ふ。よものがれさせたまはじ。人手にかけまいらせんより、同じくは、直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそつかまつり候はめ。」と申し上げれば、 熊谷が涙を抑えて申したことは「助け申そうとは存じますが、味方の軍兵が雲霞のように大勢おります。他の者の手におかけするより、同じことなら、この直実の手でお討ち申して、後の御供養をしてさし上げましょう」と申したところ、
25日 「ただ疾く疾き首を取れ」とぞのたまひける。熊谷、あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ、心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。 「ただ、早く、早く首を取れ」とおっしゃったのだった。熊谷は、あまりに痛ましくて、どこに刀を突きたててよいかもわからず呆然としていたけれども、そうしているわけにもいかないので、泣く泣く首を落としたのだった。
26日 「あはれ、弓矢取る身ほど、口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずば、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなうも、討ちたてまつるものかな」とかきくどき、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣きいたる。 「ああ弓矢をとる身ほど情けないものはない。武芸の家に生れなかったならば、どうしてこんな悲しいめに会うことがあろう。情けなくもお討ち申したものよ」とくどくどと言い、袖に顔を押し当てて、さめざめと泣いている。
27日 やや久しうあって、さてもあるべきならねば、鎧直垂を取って、首包まんととけるに、錦の袋に入れたる笛をぞ腰に差されたる。 しばらくたって、そうしているわけにもいかないので、鎧直垂を切り取って首を包もうとすると、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられる。
28日 あな、いとほし。この暁、城―じょうーの内にて管弦したまひつるは、この人々にておはしけり。当時、味方に東国の勢何万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈はなほもやさしかりけり。」とて、九郎御曹司の見参に入れたりければ、これを見る人、涙を流さずといふことなし。 「ああ、いたわしいことだ。今朝方、城内で管弦をなさっていたのは、この人々でいらっしゃったのだ。現在、味方には東国の軍勢が何万騎かいるだろうが、戦陣に笛を持参する人はよもやあるまい。身分の高い人というものは、やはり風流なのであったよ。」と感じて、その笛を九郎御曹司、義経公にお目にかけたところ、これを見る人で涙を流さない者はない。
29日 後に聞けば、修理大夫経盛の子息に大夫−たいふー敦盛とて、生年十七に゛なられける。それよりしてこそ熊谷が発心の思ひは進みけれ。 のちに聞くと、修理大夫経盛の子息で、大夫敦盛といって、年は十七歳になちておられたのだった。この事件があってから、熊谷の出家の志はますます強くなったのだった。
30日 くだんの笛は、祖父(おほぢ)忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より賜られたりけるとぞ聞こえし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによって、持たれたりけるとかや。名をば小枝―さえだーとぞ申しける。狂言綺語―きぎょーの理といひながら、つひに讃仏乗の因となるこそあはれなり。 その笛は、祖父の忠盛が笛の名手で、鳥羽院から拝領なさったのだった。それを経盛が受け伝えておられたが、敦盛は才能がすぐれていたので、所持しておられたとかいうことである。この笛の名を小枝と申した。芸能は狂言綺語であるのが道理だが、それが結局、直実を仏道に導く原因となるとは、胸をうたれることである。  完