日本人の「心の古典」9 中世の物語
平成17年7月

 1日 平家物語 中世軍記の代表作、12巻、承久―1219年から1221年頃に原平家物語が成立、琵琶法師が語り平曲として広まった。新時代の担い手の武士を躍動的に描き王朝世界から武士世界への時代相を鮮やかに捉えている。 諸行無常、盛者必衰、因果応報の仏教思想が基調。作者は未詳。「徒然草」は信濃前司行長が作り、盲目の法師、生仏に語らせた、と言う説を伝えている。
 2日 三段論の展開、先ず、仏教の無常観始る、「驕れる者」「たけき者」も必ず滅ぶと概括する。 そして、「遠く異朝をとぶらへば」と中国の例を引用、次に「近く本朝をうかがうに」と日本の例をあげ、平清盛に焦点を合わせる。祇園精舎の章は、平家一門の盛衰を綴るこの物語の華麗な総序である。
 3日 語りの韻律、「祇園精舎の/鐘の声/諸行無常の/響きあり/」この七・五音の印象的な繰り返しは今様の韻律である。

対句的で立体感が生じ、人々の耳になじんだ韻律に乗った語り出しは、戦乱の世を辛うじて生きた人々に、それこそ諸行無常の鐘の響きとして心に沁みたであろう。

 4日

漢語を多用した力強い韻律的な和漢混交文が中心で、武士の躍動と行動を的確に表現している。

一方で、祗王・小督の局・横笛などの哀切な挿話は和文体であり情操豊かに語られ効果的な作品となった。
 5日 琵琶法師と平曲

十世紀には琵琶の演奏を聞かせる芸能者があり京都を中心に、遠くは北九州まで渡り歩いていたという。十一世紀になると寺社の縁起や霊験譚、合戦譚などを語り物としていた。

後には聴衆の求めに応じて、専ら平氏興亡の物語を語るようになった。これが平曲である。聴衆の反応を見ながら説得力に富む語り口が工夫された。平曲は、謡う部分、朗読に近い部分、その中間の三つからなる。
 6日 平家物語の構成と内容 三人の英雄、清盛・義仲・義経を中心人物とする、三部からなる。

第一部は巻15
清盛を頂点に平家一門は繁栄する。鹿谷での平家転覆の謀議が露見し、源三位頼政の挙兵も失敗。頼朝は富士川で大勝、平家に暗い影が忍び寄る。

 7日 第二部は
68
第二部は巻68
清盛の病死を境に平家は衰運に向かう。木曾義仲の軍勢が平家を倶利伽羅谷で圧倒して京に上り、平家を西国に追い払う。

歌を後世の残そうと藤原俊成を訪ねる忠度の話もある。

 8日 第三部は
912
乱暴な振舞いの義仲は義経に討たれる。源氏の内紛に間に、やや勢いを回復した平家軍も義経の一の谷・屋島で敗れ、壇ノ浦で壊滅。安徳帝も入水して果てられる。嫡流の六代御前も斬られ「それよりしてこそ平家の子孫は長く絶えけれ」の一文で物語りは終わる。

灌頂の巻

後日譚、壇ノ浦で入水して助けられた建礼門院が出家して大原に隠れ住むさまが描かれている。

 9日 平家物語の成立

複雑な成立過程を経ていて、異本が極めて多い。元々は三巻だったが、六巻となり、さらに増補されて現在の十二巻となった。そして最後に灌頂の巻が加えられた。これは琵琶法師による語り物であることが関連している。

元々編年体の構成であったものが、特定の人物・場面を中心に取り上げられ、史実を再構成して起伏に富んだ物語になつたと言われる。
10日

太平記

50年にわたる南北朝の騒乱を描いた軍記。40巻、応安1368-1375に成立。

小島法師作というが未詳。作者は複数と見られている。三部に内容は分かれている。
11日

第一部。
112.後醍醐天皇による倒幕計画から北条氏の滅亡、建武中興まで。

第二部。巻1321
武士団の不満から公家方と武家方とが対立する動向を描き、足利尊氏と新田義貞との確執から、南朝、北朝の分裂、後醍醐天皇崩御と足利幕府の成立まで。
12日

第三部、巻2340.
南朝の衰え、足利幕府の内紛を経て三代将軍義満の時代に争いが下火となり太平の世を迎えたとして喜ぶ。

文章は和漢混交で語りの文体。後世、幸若・謡曲・仮名草子。浄瑠璃・読本などに強い影響。
13日

落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜―ひとよーを明かすほどだにも、旅寝となればもの憂きに、恩愛の契り浅からぬ、

吹雪のように散り乱れる桜に踏み迷うばかりの交野の野の桜狩り、錦のように美しい紅葉を着るようにして帰る嵐山の秋の夕暮れ、そんな風情や趣のある所の一夜でさえも、旅先の宿りとなるといやなものなのに、
14日

わが故里の妻子をば、行くへも知らず思ひおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思はぬ旅に出でたまふ、心の中ぞあはれなる。

今、情愛の絆も深い故郷の妻子を、行く末もわからぬままに残して、長年住みなれた花の都を、これが最後とふり返りながら、予想もしなかった旅に出発される日野俊基殿の心の内は哀れである。
15日

憂きをばとめ逢坂の、関の清水に袖濡れて、末は山路を打出の浜、沖をはるかに見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行く、心のつらさを止めることができないまま逢坂の関を過ぎ、

その関の清水に袖を濡らす。山路を越え打出の浜に出ても沖を遥かに眺めやると、琵琶湖の波間に舟が見えたり隠れたりしながら漕ぎ進んでいく、
16日

身を浮舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打ち渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかとあはれなり。

その舟のように、我が身は人生の浮沈に遭い、こうして馬のひづめも高く踏みならす勢多の長橋を渡り、往き来する旅人に会いながら近江路を下っていくと、うね野にかかり、このうね野に鳴く鶴の声も子を思って鳴いているように聞こえて哀れである。
17日

時雨もいたく守山の、木の下露に袖濡れて、風に露散る篠原や、篠分くる道を過ぎ行けば、鏡の山はありとても、涙にくもりて見えわかず。

守山では、ひどく降る時雨に樹から漏れ落ちる露に袖を濡らして、吹く風に露が散る篠原の野を分け入る道を過ぎて行くと、鏡山のあたりとなるが、その山も涙に曇って見分けられない。
18日

ものを思へば夜の間にも、老蘇の森の下草に、駒をとどめて顧みる、古郷を雲や隔つらん。

もの思いにふけると一晩のうちに老いるという、その老蘇の森の下草に駒を止めて、ふり返って見る故郷を、なぜ雲が隠し、遠のけてしまうのだろうか。
19日

番場、醒井、柏原、不破の関屋は荒れはてて、なほ漏るものは秋の雨の、いつかわが身の尾張なる、熱田の八剣伏し拝み、塩干に今や鳴海潟、傾−かたぶーく月に道見えて、

番場、醒井、柏原と宿駅を過ぎ、着いた不破の関屋は荒れ果てて、いまも守っているのは、関屋に漏れ落ちる秋の雨だけで、わが身は、いつ生涯を終わるのかと思いながら、尾張の国にある熱田神宮の八剣の宮を伏し拝み、今しも潮がひいている鳴海潟では、傾く月に道が照らされていて、
20日

明けぬ暮れぬと行く道の、末はいづくと遠江−とおとうみー、浜名の橋の夕塩に、引く人もなき捨て小船―をぶねー、沈みはてぬる身にしあれば、誰かあはれと夕暮れの、入相−いりあひー鳴れば今はとて、池田の宿−しゅくーに着きたまふ。

夜が明けた日が暮れたと行く道の行く先はどこかと問うと、遠江の国に入っており、浜名の橋の夕波の中に、引く人もいない捨てられた小船が浮んでいるが、その小船のように沈んでしまうわが身であるので、誰が哀れであると言ってくれようかと、夕暮れの鐘が鳴るころに池田の宿にお着きなさる。
21日

元暦元年のころかとよ、重衡中将の、東夷のために囚れて、この宿に着きたまひしに、
「東路の丹生の小屋のいぶせきに古郷いかに恋しかるらん」と長者の娘が詠みたりし、そのいにしへのあはれまでも、思ひ残さぬ涙なり。

元暦元年の頃とかに、重衡中将が鎌倉方に捕えられて、この宿にお着きなさった時に、「東路の=東国へ行く道の途中、粗末な民家に宿る、そのむさくるしさに、故郷がどんなにか恋しいでしょう」と宿場の長の娘が歌を詠んだというが、その昔の話の悲しさまでもが思い起こされて涙がつきない。
22日

旅館の灯がかすかにして、鶏鳴暁を催せば、匹馬―ひっぱー風に嘶―いばーえて、天竜河をうち渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋み来て、そことも知らぬ夕暮れに、

旅館の灯火も消えかかって、鶏が朝を告げると、一頭の馬が風にいなないて出発し、天竜川を渡り、あの小夜の中山の峠にさしかかると、白雲が道を埋め、どこかもわからない夕暮れとなり
23日

家郷の空を望みても、昔西行法師が「命なりけり」と詠じつつ、二たび越えし跡までも、うらやましくぞ思はれける。

そこで故郷の方の空を眺めると、昔、西行法師が「命なりけり」と歌に詠み、二度この中山と峠を越えた跡までもうらやましく思われたのである。
24日

ひま行く駒の足速み、日すでに亭午−ていごーに昇れば、餉−かれひーまいらすほどとて、輿を庭前にかきとどむ。轅―ながえーをたたいて警固の武士を近づけ、宿の名を問ひたまふに、「菊川と申すなり」と答えければ、

時が過ぎゆくのははやくすでに正午になると、乾飯をさしあげる時刻だといって輿をある家の庭前におろす。輿の轅をたたいて警固の武士を呼び、宿の名をたずねなさると、「菊川と申すようです」と答えたので、
25日

承久の活戦の時、院宣書きたりし咎に依って、光親卿関東へ召し下されしが、この宿にて誅せられし時、

承久むの合戦の時、院宣を書いた罪によって、光親卿が鎌倉に召喚されたが、卿がこの菊川の宿で殺された時、
26日

昔南陽県の菊水 下流を汲んで齢を延ぶ今は東海道の菊河 西岸に宿って命を終ふ

昔南陽県の菊水=昔、中国の南陽県の菊水では、その下流で水を汲んで長生きしたが、今、日本の東海道の菊水では、その西の岸に宿って命を終えるとこである。
27日

と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今はわが身の上になり、あはれやいとどまさりけん、一首の歌を詠じて、宿の柱にぞ書かれける。

と書いた、その遠い昔のことが、今は自分の身の上のことになり、悲しみがまことにまさってきたのであろうか、俊基殿は、一首の歌を詠んで宿の柱にお書きになったのだった。
28日

いにしへもかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん (巻第二)

いにしへも=昔もこのようなことがあったと聞くが、その菊川で私も同じような流れに身を沈め、光親卿のように殺されるのだろうか。
29日 俊基の護送の旅 古来の貴種流離の話を想起させる悲しい物語として語られている。

都の妻子を思慕する心情も、流離の話型の一環で、道行文という表現方法により、哀しく美しく描きあげられている。

30日 道行文

通りすぎる道中のさまを、その地名を連ね、和歌的な技法を駆使して書き進める文章である。

王朝の和歌は、吉野から雪か桜、飛鳥川から世の無常、と特定の連想作用を持つ地名、即ち歌枕を発達させた。
31日 道行文

道行文の基本にあるのはこの歌枕。

中世には、紀行や軍記で発達し、謡曲にも盛んに取り入れられた。近世では浄瑠璃歌舞伎にも用いられた。