日本人の「心の古典」11 方丈記

平成17年9月

 1日 方丈記

随筆、建暦2年、1212年、作者は鴨長明。京都下加茂神社神官の家に生。50才で突然出家し大原に籠もる。

前半は、壮年までに体験した様々な天変地異を生々しい迫力で描写し世の無常を詠嘆。後半はも自己の生涯や家系を回顧しつつ草庵の生活を描く。主情は無常的で不安な時代に生きた人間の普遍的心境を語る。流麗かつ簡潔な和漢混交文。
 2日

鴨長明の草庵は、広さ四畳半程度、解体・移動は自在。安住し自足している自信が伺われるという。

心境は「心一つ」、世界のありようを決めるのは「心の持ち方」一つであるとの表白あり、独自の世界観による幸福論と言える。
 3日

閑居の気味
―きび

おほかた、この所に住みはじめし時はあからさまと思ひしかども今すでに五年―いつとせーを経たり。仮の庵―いほりーもややふるさととなりて、軒に朽葉深く、土居―つちいーに苔むせり。

そもそも、この土地に住みはじめた時は、ほんのちょっとの間と思ったのだが、今までにすでに五年たった。仮住まいのはずのこの庵もしだいに住みなれた所となり、軒には枯れ葉が積もり、土台に苔が生えた。

 4日

おのづから事のたよりに都を聞けば、この山に籠もりいて後、やむごとなき人のかくれたまへるもあまた聞こゆ。ましてその数ならぬたぐひ、尽してこれを知るべからず。たびたびの炎上に滅びたる家またいくそばくぞ。

たまたま事のついでに都の様子を聞くと、私がこの山に隠れ住んで以来、高貴なお方がお亡くなりになったという噂も数多く伝わってくる。ましてそれほどでもない身分の者にいたっては、知り尽くせないほど多いに違いない。再三の火災で焼けてしまった家も、これまたどれほど多いことか。

 5日 ただ仮の庵のみのどけくして、恐れなし。ほど狭しといへども、夜臥す床あり、昼いる座あり、一身を宿すに不足なし。寄居−かむなーは小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。

ただ仮の庵だけが、のどかで安全なのである。広さは狭いとはいへ、夜寝る床があり、昼座る場所もある。この身ひとりを住まわせるには不足ない。寄居−やどかりーは小さい貝を好む。

 6日 

みさごは荒磯にいる。すなはち人を恐るるがゆえなり。われもまたかくのごとし。事を知り、世界を知れれば、世を知れれば、願はず、わしらず、ただ静かなるを望み、憂へなきを楽しみとす。

これは、変事が起きる時の危険を知るからである。みさごは荒磯に住む。それは、人を恐れるからである。私もまた、彼らと同様である。変事の恐ろしさを知り、この世の無常を知るので、何も願わず、あくせくせず、ただ静かさを望み、不安がないことを楽しみとするのである。
 7日

すべて世の人の住みかを作るならひ、必ずしも事のためにせず。或いは妻子眷属のために作り、或いは親昵朋友―しんぢつほうゆうーのために作る。或いは主君師匠および財宝牛馬のためにさへこれを作る。

総じて、世間の人が住いを作る動機は、必ずしも変事に備えてのためではない。ある場合は妻子や一族のために作り、ある時は親しい人や友人にために作る。ある時は主君や師匠のため、および財宝や牛馬のためにまで作る。

 8日

われ今身のためにむすべり。人のために作らず、ゆえいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、伴うべき人もなく、頼むべく奴―やっこーもなし。たとひ広く作れりとも、誰を宿し、誰をか据えん。

私は今、自分自身のために草庵をむすんだ。他人のためではない。その理由はどうしてかと言うと、今日の世の状態、わが身の境遇では、ともに生活するにふさわしい人もなく、頼りにできる従僕もいない。たとえ広く作ったとしても、誰を泊らせ、誰を住まわせようか。そんな人は誰もいないのである。

 9日

それ三界はただ心一つなり。心もしやすからずは象馬―ざうめー七珍もよしなく、宮殿楼閣も望みなし。今、さびしき住まひ、一間の庵、みずからこれを愛す。おのづから都に出でて身の乞がいーこつがいーとなれる事を恥ずといへども、帰りてここにをる時は他の俗塵に馳する事をあはれむ。

いったい、この世界というものは、ただ心の持ち方一つである。心がもし安らかでなければ象や馬や七珍も無意味であり、宮殿や楼閣も意に満たない。私は今さびしい住い、一間の庵にいて、私自身これを気に入っている。たまたま都に出て、わが身が乞食のようになつてしまったことを恥じることもあるけれど、帰ってここにいる時は、世間の人々があくせくするのを気の毒に思うのだ。

10日

もし人この言えることを疑はば、魚―いをーと鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず、魚にあらざればその心を知らず。鳥は林をねがふ、鳥にあらざればその心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして誰か悟らむ。

もし人が私の言う事を疑うのならば、魚と鳥のあり方を見るがよい。魚は林に住みたがるが、鳥でなければその気持はわからないものだ。私の閑居の味わいもまたそれらと同じことである。住まずに誰がわかろうか、わかりはしない。
11日 閑話休題

中世の仏教

奈良時代、国家統一の意図で広められた仏教は、平安時代になると密教化して貴族階級に根ざした。時代が更に進むと、浄土教が隆盛となる。

現世利益より極楽往生に救いを求める動きは「栄花物語」の語る、加持祈祷を断って往生のための念仏を唱える道長の最後の姿に象徴的に示されているといわれる。
12日

中世の仏教2.

時代に相応しい宗教が求められ、生み出さずにはおかない。鎌倉時代に相次いで現れた親鸞・道元・日蓮の三人は、まさにその時代に要請を受けた人々であった。

動乱期の人心の不安を、貴族化した旧仏教は救いきれなかったのである。
13日 中世の仏教3

親鸞・道元・日蓮の三人に蓮如や時宗の一遍を加えれば、中世の新仏教の大きな流れが掴める。

彼らの説く教えは、国家権力や既成集団の干渉や妨害と衝突を繰り返しながら、確実に民衆の間に浸透して行く。とりわけ平易な言葉で語りかける仮名法語の役割は大きい。
14日 中世の仏教4

親鸞は他力信仰による来世の救いを、道元は座禅による自力の修行を説いた。日蓮はその中間とも言える位置で修行に努めた。

大乗仏教は、修行による向上(上求菩提―じょうぐぼだい)と他人の教化(下化衆生―げげしゅじょう)を使命とする。教化の方法には、悪法を力でくじく折伏―しゃくぶくーと慈悲の心で導く摂受−しょうじゅーがある。念仏が基本の親鸞は摂受によったが、日蓮も折伏だけで布教したわけではない。 

15日 無名草子
―むみやうそうし

物語の評論。建久9年、1198年、建仁2年、1202年頃成立。作者は藤原俊成の娘。老尼が女房たちの語るところを記した体裁。

物語論や歌集論、女性論もある。評論としては最古のものである。
16日

−ふみーについて

この世のいかでかかることありけむと、めでたくおぼゆることは、文にこそはべるなれ。「枕草子」に返す返す申してはべるめれば、事新しく申すに及ばねど、なほいとめでたきものなり。

この世にどういうわけでこのようなことがあったのだろうと、素晴らしく思われることは、手紙なのです。「枕草子」に繰り返し申しているようなので、殊更に申しまでもないことだけれども、やはり誠に素晴らしいものである。
17日

遥かなる世界にかき離れて、幾年逢ひ見ぬ人なれど、文といふものだに見つれば、ただ今さし向かひたる心地して。

遠く隔たった所に離れて何年も会わない人であるけれど、手紙というものさえ見たならば、今まさに向かい合っているような気がして。
18日

なかなか、うち向かひては思ふほども続けやらぬ心の色もあらはし、言はまほしきことをもこまごまと書きつくしたるを見る心は、めづらしくうれしく、あひ向かひたるに劣りてやはある。

かえって、向かいあっては思うほども言い表しきれない心の様子も表現し、言いたいこともこまごまと書きつくしているのを見る心持は、珍しく嬉しく、じかに向かい合っているのに劣ってはいようか、いや決して劣ってはいない。
19日

つれづれなる折、昔の人の文見出でたるは、ただその折の心地して、いみじくうれしくあはれに、年月の多く積もりたるも、ただ今筆うち濡らして書きたるやうなるこそ、返す返すめでたけれ。たださし向かひたるほどの情けばかりにてこそはべれ、これは、昔ながらつゆ変はることなきも、めでたきことなり。

手持ち無沙汰で退屈なとき昔の人の手紙を見つけ出したのは、ただもうそれをもらつた折の気持がして、大変嬉しく思われる。まして亡くなった人などの書いたものなどを見るのは、たいへんにしみじみとして、年月が多くたっていても、たった今、筆に墨をつけて書いたように思われることこそ本当に素晴らしい。ただ向かい合っている間だけの心の交わりですけれども、この手紙というものは、昔のまま少しも変ることがないのもすばらしいことである。

20日

いみじかりける延喜・天暦の御時のふる事も、唐土・天竺の知らぬ世の事も、この文字といふものなからましかば、今の世のわれらが片はしもいかでか書き伝えまし、など思ふにも、名ほかばかりめでたきことはよもはべらじ。

たいへんすばらしかった延喜・天暦の御代の昔の事も、また中国・インドの知らない世界の事も、もしこの文字というものが無かったとしたら、今の世の私たちが、その一端でもどうして書き伝えられるだろうか、などと思うにつけても、やはりこれほど素晴らしいことは決してありますまい。
21日

中世の歌論

毎月抄
歌論書、承久元年、1219年、藤原定家の著。ある貴人に毎月施した歌の添削をまとめた書簡集。

幽玄体・有心体などの歌風の説明、特に有心体を尊重かる立場。詞と心の関係や表現の技法について詳述している。

22日 毎月抄
「心と詞」

また、歌の大事は、詞の用捨にてはべるべし。詞につきて強弱大小候ふべし。

また、和歌において重要なことは、詞の取捨選択でございましょう。詞には強弱大小があります。
23日

それをよくよく見したためて、強き詞をば一向にこれを続け、弱き詞をばまた一向にこれをつらね、かくのごとく案じ返し案じ返し、太み細みもなく、なびらかに聞きにくからぬやうによみなすが、極めて重事―ちゃうじーにてはべるなり。

それを十分に見届けて力強い印象を与える詞にはひたすら力強い印象を与える詞を続け、弱い印象を与える詞にはまたひたすら弱い印象を与える詞を連ね、このように繰り返し工夫し、太みと細みの不調和もなく、しなやかに聞きにくくないように歌を詠むのが、この上なく大切なことなのです。

24日

申さば、すべて詞にあしきもなくよろしきもあるべからず。ただ続けがらにて歌詞の勝劣はべるべし。幽玄の詞に鬼拉―きらつーの詞などをつらねたらむは、いと見苦しからむにこそ。されば「心を本として詞を取捨せよ」と亡父卿も申し置きはべりし。

申してみれば、およそ詞自体に悪い詞もなくよい詞もあるばずがない。ただ続け方で歌詞の優劣の差が生じるのでしょう。幽玄のやさしい詞に鬼拉の力強い詞など連ねているようなのは、まことに見苦しいことでしょう。だから「心を基本として、その心に適合するように詞を取捨選択せえよ」と亡くなった父俊成卿も申しのことました。
25日

ある人、花実―くわじつーのことを歌にたて申してはべるにとりて、「いにしへの歌はみな実を存して花を忘れ、近代の歌は花のみ心にかけて実には目もかけぬから」と申しためり。

ある人が、花と実との関係を和歌にあてはめて説明しました時に「昔の歌はみな実はあって花を忘れ、近代の歌は花をばかり気にかけて実には目もくれないから」と申しているようだ。
26日

もつともさとおぼえはべるうえ、古今序にもその意はべるやらむ。さるにつきて、なほこの下の了簡−れうけんー、愚推をわづかにめぐらし見はべれば、心得―うーべきことはべるにや。

いかにもその通りだと思われます上に「古今集」の序文にもその趣旨のことが書いてあるようです。そのことについて、なお以下に述べる考えの中で、自分の推測を少し思いめぐらしてみますと、
27日

いはゆる実と申すは心、花と申すは詞なり。必ず、いにしへの詞強く聞こゆるを、実と申すとは定めがたかるべし。

花実の関係については心得ておかなければならないことがあるようです。いわゆる実と申すのは歌の心、花と申すのは歌の詞である。必ずしも古歌の詞が強く聞こえるのを実があると申すとは定めがたいにちがいない。
28日

古人の詠作にも、心なからむ歌をば実なき歌とぞ申すべき。今の人のよめらむにも、うるはしく正しからむをば実ある歌とぞ申しはべるべく候ふ。

古人の歌でも、内容のないような歌をば実のない歌と申すべきだ。今の人の詠んでいるような歌にも、きちんと整って端正な感じを与えるような歌を、実のある歌と申すことができるでしょう。
29日

さて、「心を先にせよ」と教ふれば、「詞を次ぎにせよ」と申すに似たり。「詞をこそ詮とすべけれ」と言はば、また「心はなくとも」と言ふにてはべり。所詮、心と詞とを兼ねたらむを、よき歌と申すべし。

さて、「心を第一にしなさい」と教えると「詞をあとまわしにしなさい」と申すに似ている。「詞こそを眼目にしなければならない」と言ったならば、また「心はなくてよい」と言っていることになります。結局、心と詞とを兼ねそえているような歌を、よい歌と申すべきである。
30日

心・詞の二つは、鳥の左右の翼のごとくなるべきにこそとぞ思うたまへはべりける。ただし、心・詞の二つを共に兼ねたらむは言ふに及ばず。心の欠けたらむよりは、詞のつたなきにこそはべらめ。

心と詞の二つは、鳥の左右の翼のようなものであるはずだと思ってきました。ただし、心と詞の二つをともに兼ねそなえているようなのは、言うまでもないが、心が欠けているような歌よりは、詞の拙い歌がよいでしょう。