日本人の、心の古典13. 法語
平成17年11月

 1日 1.  正法眼蔵

道元が天福元年、1233年以来20年間に書き記したもの。修行の心得、公案の分析、禅の本質・法統・規範を論述。87巻ある。

道元は1200年―1253年、鎌倉時代の僧、曹洞宗の開祖、道玄、希玄とも言う。久我通親の子、比叡山で学び、栄西に師事、宋に渡り、如浄から法を受け貴国。越前に永平寺を開く。承陽大師と申す。
 2日 1.  眼横(がんおう)鼻直(びちょく)

只管(しかん)打坐(たざ)(余念を交えずひたすら坐禅する事)を説いた道元は、宋の如浄の下で修行、大悟徹底(迷いを去り真理を悟る)して、日本人でありながら、師の法を受け継いだ。

帰国した道元は、かの国でのことを聞かれ「眼横鼻直」と答えたという。人の眼は横に、鼻は縦に、なにも特異なことはない、この言葉で、彼は何を言おうとしたのであろうか。
 3日 正法眼蔵
現成(げんじょう)公按(こうあん)から

魚、水を行くに
魚、水を行くに、行けども水の際なく、鳥、空を飛ぶといへども空の際なし。しかあれども、魚鳥、いまだ昔より水空を離れず。

魚が、水中を泳ぐ場合、いくら泳いでも水の限界はなく、鳥が空中を飛ぶ場合、いくら飛んでも空の限界はない。然し、魚も鳥も、昔からまだ、水や空を離れたことはない。
 4日

ただ用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭々に辺際を尽くさずといふことなく、処々に踏翻せずといふことなしといへども鳥もし空を出づればたちまちに死す、魚もし水を出づればたちまちに死す。

ただ、魚や鳥の動き方が大きい時は、水や空の使う範囲は大きい。必要性が小さい時は、使う範囲は小さい。このようにして、魚や鳥が夫々自分の限りを尽くして行動しないということはなく、様々の場所で自由に動き回らないということはないが、鳥がもしも空から出たら忽ちに死ぬ、魚がもしも水から出たら忽ちに死ぬ。
 5日

以水為命知りぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

そこで、魚にとって水が命であると知ることができよう。鳥にとって空が命であると知ることができよう。鳥として命があり、魚として命がある。命が鳥となつていよう。命が魚となつていよう。

 6日

このほかさらに進歩あるべし、修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

このほか、更に進んだ考え方や見方があるはずだ。修行のうちに悟りがあり、人さまざまの寿命があるというのは、このようである。
 7日 歎異抄

親鸞
1173年-1262年、鎌倉時代初期の僧、真宗の開祖。初め慈円、のち法然上人の弟子。念仏禁止事件に連座して越後に流された。赦免後は常陸中心に念仏の布教。

生きる為に殺生をする猟師・漁夫、知らずに「罪」を犯す愚者でも救われるか。親鸞はよくそう質問された。善人が救われ、賢人が幸せになるという常識に、凡夫が不安を抱くのは当然、親鸞は「悪人」こそ救われるべき要因を備えていると悪人正機を唱え、専修念仏を教え、彼らに光明を与えた。
 8日 善人なをもって(歎異抄)

「善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや、しかるを、世の人、常にいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや、善人をや」

善人でさえ浄土に生れるのだから、まして悪人が浄土に生れないわけはない。ところが、世間の人は、常に「悪人でさえ浄土に生れる。まして善人が浄土に生れないわけはない」と言っている。
 9日

この条、いったん、そのいはこれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。その故は、自力作善の人は、ひとへに、他力を頼む心欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。

この考え方は、一応、道理に適っているように見えるけれども、阿弥陀仏の本願を頼む他力の趣旨に背いている。何故ならば、自分の力を頼りに善行を積む人は、ひたすら阿弥陀仏のお力にすがる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にそわないからである。
10日

しかれども、自力の心を翻して、他力を頼み奉れば、真実報土の往生を遂げるなり。

けれども自力を頼む心を改めて阿弥陀仏の本願におすがり申せば、真実の浄土に生れることができるのである。
11日

煩悩具足の我らは、いづれの行にても、生死を離るることあるべからざるを憐れみたまひて、願を起こしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼み奉る悪人、もっとも、往生の正因なり。

煩悩にまみれた我々が、どんな修行をしたところで、生死の迷いを離れることができないのを憐れにお思いになつて、それを救う本願を立てられた阿弥陀仏のご本意は、悪人を救って往生させて仏とするためであるから、阿弥陀仏のご本願にすべてをおまかせしきっている悪人こそ、浄土に生れるにもっともふさわしい人なのである。
12日

よって、善人だにこそ往生すれ、まして、悪人は」と仰せ候ひき。

だからこそ、善人でさえ浄土に生れるのだから、まして悪人が浄土に生れるのは当然である。」と親鸞聖人は仰った。
13日 御文(おふみ)

書簡集、蓮如が門徒に与えた八十通の書簡、天文年間1532年-55年、真宗の要義が平易に述べられている。人の生死は時を定めない、蓮如の御文は磨きあげられた言葉で人々に他力信仰の救いを説く。東西本願寺教団で広く読まれ、御文章ともいう。

蓮如、1415-99年、室町時代の僧、真宗中興の祖、本願寺第八世、比叡山の襲撃で本願寺が破壊されると越前吉崎など各地に移動しつつ書簡による教化活動をした。慧灯大師。
14日

(あした)には紅顔ありて
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、幻のごとくなる一期なり。

そもそも、人間のはかない人生のさまをよくよく見てみると、およそはかないものと言えば、この世の初めから終わりまですべて幻のような一生が一番儚いものである。
15日

されば、いまだ万歳の人身を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎやすし。今にいたりて、誰か百年の形体を保つべきや。

だから、まだ万年の寿命の人間が生れたという話を聞いたことがない。一生はすぐ終わってしまいやすい。今になり誰が百年も生きられようか。
16日

われや先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、後れ先立つ人は、本の雫、末の露よりもしげしといへり。

自分が先に死ぬか、他の人が先に死ぬか分からないし、今日死ぬとも、明日死ぬとも予測できない。あとから死ぬ人、先に死ぬ人は、草木の根元に落ちる滴、草葉の先から落ちる露よりも絶え間ないと言われている。
17日

されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すだに無常の風来りぬれば、すなはち二つの眼たちまち閉ぢ、一つの息永く絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装ひを失ひぬる時は、六親眷属集まり手、嘆き悲しめどもさらにその効あるべからず。

だから、人間とは朝は紅顔の若々しい身であっても、夕方には死んで火葬に付されて白骨となる身なのである。早速に無常の風が吹いてきてしまうと、すぐに二つの目は忽ちのうちに閉じ、一人の人間の息が永遠に絶えてしまうと紅顔も空しく変り、桃や李の花のような美しい顔かたちが失われてしまつた時は、肉親・親族が集まって嘆き悲しんでも、全くその効もないだろう。
18日

さてしもあるべきことならねばとて野外に送りて、夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あふれと言うも、なかなかおろかなり。

そう悲しんでばかりもいられないことだからとて、野外に送り火葬にし、夜半の煙としてしまへば、あとにはただ白骨だけが残るのである。そのあわれなことは、あわれなどと言ってすまされる程度のものではない。
19日

されば、人間のはかなきことは、老少不定の境なれば、誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼みまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

だから、人間ははかないのは老人若者の区別無く同じであるから、来世の極楽往生こそ大切であることを心がけ、阿弥陀仏を心からお頼み申し上げて、念仏を申すべきものである。あなかしこ。
20日 土籠御書(つちのろうごしょ)

日蓮の書簡、文永八年、1271年、10月9日、日朗に宛てた書状。竜の口の難を免れた日蓮が、佐渡配流の前日、入牢中の弟子を励ますために書いたもの。

日蓮、1222年-82年。鎌倉時代の僧、日蓮宗の開祖、辻説法で他宗を攻撃し「立正安国論」の筆禍で伊豆に流罪。のち身延山に入る。
21日 日蓮は佐渡へまかる 日蓮は、明日佐渡の国へまかる。今夜の寒きにつけても、牢の内のありさま、思ひやられていたはしくこそ候へ。殿は、「法華経」ほ一部色心二法ともにあそばしたる御身なれば、父母六親一切衆生を助けたまふべく御身なり。 日蓮は、明日、佐渡の国へ参ります。今夜の寒さにつけても、牢の内の有様が思いやられて、いたわしいことであります。あなたは、「法華経」全体を、身にも心にも両面からお読みになった方ですから、父母・六親をはじめ、一切の生きとし生けるものを、お助けなさるべきお方であります。
22日

「法華経」を余人の読み候ふは、口ばかり言葉ばかりは読めども心は読まず。心は読めども身に読まず。色心二法ともにあそばされたるこそ貴く候へ。

「法華経」を他の人が読むのは口ばかり言葉ばかりは読んでも、心には読まない。心に読んでも身には読まない。それをあなたが身にも心にも読まれたのこそ、まことに貴く思われます。
23日

(てん)(しょ)童子 以為給使(いいきふじ) 刀杖(たうぢやう)不可(ふか) (どく)不能害(ふのうがい)」と説かれて候へば、別のことはあるべからず。

「法華経」には、「天のもろもろの童子が「法華経」を弘める人の召使いとなり、用を足し守護するだろう。だから、妨害する者が刀や杖で危害を加えることはないし、毒で殺害することもできない」と説かれておりますから、あなたの身に変わったことがあるはずもない。
24日

牢をばし出でさせたまひ候はば、とくとく来りたまへ。見たてまつり、見えたてまつらむ。恐恐謹言。日蓮 御判   筑後殿 

牢をお出になりましたら、早速においで下さい。あなたのお姿を拝見し、また私の姿を見て頂きましょう。恐恐謹言。日蓮(花押) 筑後殿
25日 説経・刈萱(かるかや)

刈萱、説経浄瑠璃の一つ。高野山に刈萱堂がある。石童丸、父道心は厭離(えんり)穢土(えど)の理想を求め、その超人的な努力により人間の愛憐の絆を断ち切ろうとする人物。妻は、夫に捨てられ、幼な児同然の旅で遂に生涯を閉じた。

幼い石童丸は、まだ見ぬ父に実はめぐり合っていながらも、それと分からぬまま、やがて母にも姉にも死別してしまう薄幸の少年。宗教的な課題を前提に人夫々の苦しみが語られている。
26日 石童丸粗筋

刈萱の荘の領主加藤重氏は、散る花に無常を覚え、懐妊中の妻と幼い娘を残して出家し、刈萱道心を名乗る。

13年後、妻は、石童丸を連れて夫を探す。夢のお告げで知った道心は、女人禁制の高野山に籠もる。石童丸ひとり山に登りも見知らぬ僧に事情を問われた。
27日

フシ、石童丸は聞こしめし「さてもうれしのことや。さて国を申せば、大筑紫筑前の国、荘は刈萱の荘、加藤左衛門、氏は重氏様と申すなり。重氏様は二十一、母上様は十九なり。姉千代鶴姫の三つの年、さてかう申すそれがしは、母上様の胎内に、七月半のその時に、嵐に花の散るを御覧じて、青道心を起いてに、都の方に聞こえたる、新黒谷に

て髪を剃り、名は刈萱の道心と、風のたよりに聞くからに、母上様とそれがしと、はるばる尋ねて参りたり、母上様とそれがしと、はるばる尋ねて参りたり。母上様と自らと、尋ねて参ると夢を見て、会ふまい見まい語るまいと、今ははや女人のえ上らぬ、高野の山へ御上りありてござあるが、御存じあってござあらば、教えてたまはれ、お(ひじり)様」
28日 父道心は聞こしめし、さては今までは今までは、いかなる者ぞと思ひしに、尋ぬるわっぱはわが子なり。わが子のためには父なれば、問ふまいものを、くやしやの、問うて心の乱るるに。見ればわが子のむざんさに、忍ぶ涙はせきあへず。
フシ、石童丸は御覧じて、「それがしお山へ上り、けふ七日にて、いかほどのお聖様に会い申せども、御身のようなる、心優しき、涙もろきお聖様には、今が初めてでござあるの。父の在り所を、御存ばあったる風情と見えてあり。教えてたまはれお聖様」。父道心はきこしめし、さても賢きあの子にて、父よと悟られては大事と思しめし、まづ偽りを御申しある。
29日

フシ、「あふ、そのことよそのことよ。御身の父の道心は、さてかう申す聖とは、この山にて師匠が一つで相弟子で、仲のよかりし折節に、去年のころころ夏のころ、不思議の病を受け取りて、むなしくならせたまうたる。ことに今日はその命日に当たりてに、御墓参りを申すとて、御身に会うたと思ひにて、それに涙がこぼるるぞ」。

石童丸は聞こしめし「これは夢かや現かや。これはまことか悲しや」と、流涕焦がれ、たださめざめと御泣くある。こぼるる涙のひまよりも「なう、いかに相弟子様。父に会うたる心地して、御墓参りを申すべし。御墓はいづくぞ、教えてたまはれ相弟子様」。
30日

父道心は聞こしめし、わが建てたる塚とてあらばこそ。こぞこのころ夏のころ、旅人の逆修のために御立てある、卒塔婆のもとへ連れてゆき、「これが御身の父道心の卒塔婆にてござるぞ、拝ませたまへ」とて、ともに拝ませたまひけり。

石童丸は聞こしめし、あにいたはしや、塚のほとりに倒れ伏し、「さて今までは、この世にだにもましまさば、見参せんとおもうひしに、今は卒塔婆に会うこと」と、流涕焦がれ、塚のほとりを枕とし、消え入るやうにぞお泣きある。
後日譚

父の刈萱道心に会いながら、知らずに分かれた石童丸は、麓に残した母の急死を知る。葬送を頼まれた道心は妻の遺骸に泣き崩れる。石童丸が遺髪を持って帰郷すると、姉も死んでいた。

彼は高野山に戻り、父道心の手で出家する。二人の睦まじさが人々の噂となる。道心は父子と悟られないよう、ひとり信濃の善光寺に去る。五十年後、父子は時を同じくして大往生を遂げ、後の人は、彼らを父子地蔵として祭った。