日本の心の古典 Q 近代の黎明その二

平成18年3月  

 1日 井原西鶴

本名、平山藤五、1642年―1693年。浮世草子作者、大阪の町人、俳諧を学び談林派で鬼才を発揮。自由奔放な俳風は「阿蘭陀流」と言われ、速吟を得意とした。

一昼夜4千句を詠んだ大矢数、多量の速吟は後に散文を支えるものとなる。41才で「好色一代男」で話題を呼ぶ。新興町人階級の逞しい生命力を描いた。
 2日 人には棒振り虫同然に思はれ(西鶴)荒筋 かって遊蕩に明け暮れた大尽、月夜の利左衛門が、今はすつかり零落して、棒振り虫を採ってはかろうじて 生計をつないでいた。吉州という女郎を、破産と引き換えに手に入れて結婚したからである。
 3日

その妻と、幼い息子と、三人が身を寄せ合って生きている。然し、利左衛門は、そのどん底生活からなんとしてでも這い出そうなどと

は考えない。偶然出会った昔の遊び仲間たちが不憫に思い金を出し合うが、彼はその同情を頑なに拒んで姿をくらましてしまう。
 4日

「女郎買いひに行く末、かくなれる慣らひなれば、さのみ恥ずかしきことにもあらず」などとあり、現在の赤貧の生活を人生の必然、或いは運命として受けとめている。とは言え、無気力、無感動の人生ではない。

妻が子をもうけたことを、「傾城も誠のある時あらはれて」と感動し、またその妻の客人への対処にも「誠なる」ものと心動かされる。そして彼自身、その客人たちに、昔の心意気をもつて応対する。零落の人生にもあるがままに生きている理左衛門を、作者はいとおしみながら描いている。
 5日

上野の桜返り咲きして、をりふしの寂しさに、これは春の心して、見に行く人袖の寒風をいとはず、何ぞといへば人の山、静かなるお江戸の時めきける。 上野の桜が冬の初めに返り咲きして、折からさびしい季節なのに春の心地になり、見に行く人々は袖の寒風もいとわず何かといえば物見だかい人々が群れ集まり、静かに治まるお江戸も時ならぬにぎわったのだつた。
 6日

黒門より池の端を歩むに、しんちゅう屋の市右衛門とて、隠れもなき金魚・銀魚を売る者あり。庭には生け舟七、八十も並べて、ため水清く,浮き藻をくれないくぐりて、三つ尾働きながめなり。

黒門から、池の端へ向かって行くと、しんちゅう屋の市右衛門という有名な金魚や銀魚を売る店がある。庭に生簀を七、八十も並べ、溜め水もきれいで、浮藻の間を赤い金魚が三つ俣の尾を動かしながらくぐる様子は楽しい眺めである。

 7日

中にも尺に余りて鱗の照りたるを、金子五両・七両に買ひ求めてゆくを見て、「また遠国にないことなり。これなん大名の若子様の御慰びになるぞかし。何事も見たことなくては、話にもなりがたし。

中にも一尺余りあって、鱗が照り映えている金魚を、五両、七両と出して買って行く者がある。それを見て「遠い田舎にはないことだ。これこそ大名のお子様のお慰みになるのだろうよ。何事でもこの目で見なければ話にならない。
 8日

とかく人の心も武蔵野なれば広し」と沙汰するところへ、田夫なる男の小さき手玉のすくひ網に小桶を持ち添へ、この宿に来たりぬ。

何にせよ、人の心も武蔵野であるから広いことだ」と言っているところへ、身なりの卑しい男か小さな手持ちのすくい網に小桶を持ち添えてこの金魚屋にやつてきた。
 9日

「何ぞ」と見れば棒振り虫、これ金魚の餌ばみなるが、一日仕事に取り集めて、やうやう銭二十五文に売りて「また、明日持って参るべし」と、下男どもに軽薄言ひて帰る。

「何か」と思って見ていると、棒振り虫、これは金魚の餌なのだが、一日仕事で取り集めたのを僅か銭二十五文で売って「また明日持って参りますからよろしく」と、その男は下男どもにお世辞を言って帰って行く。
10日

またこれを見れば、ここもかなしく世を送れる人ありと、ものあはれげにその者を見れば、これはこれは伊勢町の月夜の理左衛門といへる大尽、我が家を立ちのき、いづくに暮らせしも知らざりしに、さりとては醜い姿にはなりぬ。

またこの様子を見ると、ここにも悲しく世を送っている人がいるのだと、三人が気の毒に思ってその男をよくよく見ると、思いがけなくも伊勢町の月夜の利左衛門といわれた大尽であった。わが家をたちのいて、どこで暮らしているのかも知らなかったが、それにしてもみすぼらしい姿になつたものだ。
11日

「いづれも昔語りし友達仲間に汝を慕ふこと、おほかたならず。知らぬこととて、それよりの年月、かくあさましく暮らさせしことは是非もなし。こののちは我々受け取り、貧楽に世を渡らすべし」

「いずれも昔話った友達仲間がお前をとても懐かしがっている。知らなかったものだから、あの時以来こんな酷い暮らし方させたのししかたない。これからは我々が引き受けて、貧しいながらも気楽に暮らせるようにしてやろう」
12日

と言けるに、まだこの身になりても、過ぎにしぜいやまずして、「女郎買ひの行く末、かくなれる慣らひなれば、さのみ恥づかしきことにあらず。

と、一人が言ったところ、まだこんなにひどい身の上になつても、利左衛門は以前のおごつた気持が失せず、「女郎買いの行く末がこうなるのは当たり前で、たいして恥ずかしいことじゃない。
13日

いかないかなもおのおのの御合力は受けまじ。利左ほどの者なれども、その時に従ひて、悪所の友のよしみに今日を送ると言われしも口惜し。

折角だが、皆さんのお世話にはならないつもりだ。利左ほどの男が、おちぶれると心まで卑しくなつて、遊び仲間のお情けで生きていると言われるのは残念だ。
14日

面々の心ざしは千杯なり。久しぶりに会うこと、また重ねて出会うこともあるまじ。一杯の茶碗酒、しばしの楽しみなるべし」

皆さんのご好意はほんとにあり難い。久しぶりに会ったが、また重ねて会うこともあるまい。一杯の茶碗酒でもさしあげよう。しばらく楽しもうじゃないか」
15日

と先立って出て、茶屋に腰かけて「これきり」と、かの二十五文を投げ出しぬ。しかもこの銭は、宿なる妻子の夕べを急ぎ、鍋洗うて待ちけるに、少しも引けぬ心根、皆々涙に袖口を侵し、と言って、みんなに先立

って金魚屋を出て行き、近くの茶屋に腰掛けて「これつきりだ」ち、棒振り虫の代金二十五文を投げ出した。しかもこの銭は、家にいる妻子が晩飯の支度を急ぎ、鍋を洗って待っている筈の金なのに少しも気後れしないその気持を察して、みんな涙に袖口を濡らして
16日

「時雨も知れぬ空なれば、いざそなたのわび住まひに行きて,よろづを語りながら酒を飲むならば、ひとしほ慰みにもなりぬべし。今の内儀はさだめて吉州とよい仲か」と言へば、

「いつ時雨れるかもわからない空模様だから、どうだろう、お前の家に行って昔話をしながら酒を飲んだら、いちだんと楽しいことだろう。今の内儀さんはきっと吉州だろうが、よい仲かい」と言うと、
17日

「この女郎ゆえにこそ、かくはなりぬ。傾城も誠ある時あらはれて、四年あとよりむすこをまうけ、とと様、かか様と言ふをたよりに、今日までは暮らしける」と、

「この女郎のために、こんなに落ちぶれてしまつたんだ。だが女郎にも誠のあることがわかって、四年前に男の子が生れ、(とと)様・(かか)様というのを生甲斐に今日まで暮らして来た」
18日

夢のごとく語るを現のやうに聞きて、谷中の入相ごろに、呉竹のざわつき、とまり雀の命もあしたを知らぬ、餌差町の東はずれに着きぬ。

と、利左衛門が夢のように話すのを、三人はぼんやりと聞きながら、谷中の寺の入相(いりあい)の鐘の鳴るころ、呉竹のざわつく餌差町の東のはずれに着いた。
19日

「この裏にかすかなる住まひ、三人ながらはひりたまはば、なかなか腰のかけ所もあるまじ。それもよしよし、何か包むべし」と案内して行くに、

「この裏に小さな住いがあるが、三人一緒にはいられたら、なかなか腰をかける所もあるまい。それもいいだろう。今さら、隠そう」と利左衛門が案内して行くと、
20日

葭垣に秋を過ぎたる朝顔の、末葉も枯れ枯れになりけるつるを捜し、七十余りの婆の、その実を一つ一つ取りて、また来年の眺めを慕ひける。されば人間は露の命とも言うに、この老人は、と顔が眺められて、

葭垣に秋を過ぎて枯れてしまった朝顔の蔓がからんでいる。その蔓の種を捜して七十歳余りの婆さんが、その実を一つ一つ取って、また来年のながめを楽しもうとしている。人間の命は露のようなものだというのに、この婆さんはと、つくづくとながめられて、
21日

「婆様、ここを通ります」と、ありていの礼儀を述べて、埋もれ井の端越ゆるもあぶなく、陰干しのたばこの、引きはへたる細縄の下行くほどに、窓より親のおもかげを見て、「とと様の、銭持って戻らしやつた」と、言ふ声もふびんなり。

「婆さま、ここを通ります」と、つくろわぬ挨拶をしてくずれた井戸の端を危なっかしく通り、陰干しにする煙草の葉をつるした縄の下をくぐつて行くと、子供が窓から親仁(おやじ)の姿を見つけて「父様が銭を持って戻られた」という声もかわいそうである。
22日

内儀は、昔の目かしこく、同道せし人々を見しより「お三人の中にも、伊豆屋吉郎兵衛様これへ入らせたまふまじ。残る御両人は苦しからず」と言ふ。

女房は以前女郎であった時のように目ざとく、亭主と一緒に来た連中を見るやいなや「お三人の中で伊豆屋吉兵衛様だけは、ここにおはいりくださいますな。ほかのお二人はさしつかえございません」と言う。
23日

内儀は、昔の目かしこく、同道せし人々を見しより「お三人の中にも、伊豆屋吉郎兵衛様これへ入らせたまふまじ。残る御両人は苦しからず」と言ふ。

女房は以前女郎であった時のように目ざとく、亭主と一緒に来た連中を見るやいなや「お三人の中で伊豆屋吉兵衛様だけは、ここにおはいりくださいますな。ほかのお二人はさしつかえございません」と言う。
24日

あるじをはじめ、おのおの不思議を立て「いかにしてあればかりをとがめたまへるぞ」と言へば、「是非なきは勤めの身、あなたにはただ一度、仮なる枕物語せしこと、いまもって心にかかりぬ。あるじに隠すこともよしなし」と、玉なる涙をこぼしぬ。

亭主をはじめ、みんな不思議に思い「どういうわけで伊豆屋だけはお咎めなんです。」と一人が聞くと、「勤めの身はしかたないもので、あのお方とはたった一度ではございますが添い寝したことがあり、それが今でも気にかかっております。主人に隠すまでもありません」と言って、はらはらと涙をこぼした。
25日

「さて御秘蔵のむすこは」と言へば、十四,五色も継ぎ集めたる布団に巻きて、裸身の肩すくめて嵐をいとふ風情を見て、ことさらに哀れなり。

「ところて゛ご秘蔵の息子は」と言うと、十四・十五枚も継ぎ合わせて作った布団にくるまって、息子は素っ裸で肩をすくめて寒がっている様子は、ことさらに憐れである。

26日

「寒いに、これは」と言へば、内儀うち笑ひて、「着る物は捨てて、あのごとく、かかと無理なる口説」と言ひも果てぬに、「大溝へはまつたれば、裸になされて寒い。着る物が干上がったらば、着たい」と泣きける。

「寒いのに、どうしました」と言うと、女房は笑って「着物を脱いであのように、母と無理な言合いしているんです」と言いも終わらぬうちに「大溝へ落っこちて、裸にされて寒い。着物が乾いたら早く着たい」と言って泣き出した。
27日

あるじも女もずいぶん心強かりしが、今は前後を覚えず涙になりぬ。いづれも、しばしはものも言われず、さてはあの子が一つ着る物、替わりもなくてや、親の身として子をかなしまざるはなかりしに、よくよく不自由なればこそ、かかる憂き目を見するなれ。

亭主も女房も随分気丈者であったが、今は前後不覚になって泣きだしてしまう。客もしばらくは言葉につまり、さてはあの子にとってたった一枚の着物で、着替えもないのか、親の身として子をかわゆく思わない者はないのに、よくよく暮らしに困っているからこそ、こんなつらい目にあわせるのだろう。
28日

何語るべきも嘆き先立ち、おのおのの帰る時、三人ながらささやきて、持ち合わせたる少金を取り集めて、一歩三十八、細銀七十目ばかり、立ちまに天目に入れて、これとはことわりなし

に出だせしが、―悲しみが先に立って、何も言えずに引き上げる時、三人はささやいて、持ち合わせていた小金をかき集め、一歩金三十八、豆板銀七十目ほどを、出しなに天目茶碗に入れて、黙って出て行った。
29日

亭主も送り出でしが、「さらば、さらば」と夕暮れ深き道を急ぎしに、またあとよりかの金銀を持ちて追つかけ、「これはどうしたしかた。神ぞ神ぞ、筋なき金をもらふべき仔細なし」と、人のことわりも聞かず、投げ捨てて立ち帰りぬ。

送って出てきた亭主と別れの挨拶をして、三人がとっぷりと暮れた道を急いでいると、また後から亭主が置いてきた金銀を持って追いかけて来て、「これはどういうわけなんだ。神かけて、筋の通らない金をもらうわけにはいかない」と言って、みんなが言いわけするのも聞かずに、投げ捨てて帰って行った。
30日

是非なく取って戻り、それより二、三日過ぎて、色品か変へて、内儀の方へ持たせつかはしけるに、はやその人は在郷へ立ちのき、空き家となりぬ。いろいろ詮索すれど、その行く方知れず。

しかたなく、三人はその金を拾って戻り、それから二、三日たってから、様子をかえて女房へ届けさせたところが、既にその一家は田舎へたちのき、空家になつていた。その行く方はわからない。
31日

三人ともにこれを嘆き「思へば女郎狂ひも迷ひの種」と、言ひ合わせてやめける。世は定めなし。いなことが障りとなりて、そのころの薄雲・若山・一学、三人の女郎のだいぶん損、と言ひをはりぬ。

三人ともにこれを悲しみ、「思えば女郎買いも迷いの種だ」と、話しあって遊びをやめてしまつた。世の中はどうなるかわからないものだ。妙なことが障りとなって、そのころ全盛の大夫、薄雲・若山・一学、三人の女郎は大分損をしたという世間の評判であった。