日本の心の古典 R  近世
平成18年4月

 1日 恋川春町 1744年から1789年、武士の出身、駿河小島藩士の養子、家督を継ぐ。黄表紙・洒落本・狂歌の作者として、また浮世絵師として活躍。恋川春町の名は、小島藩の上屋敷のある江戸小石川春日町にちなんだもの。 「一すいの夢」作品の序に「文に曰く、浮世は夢の如し、歓びをなす事いくばくぞや。誠にしかり、金々先生の一生の栄花も邯鄲の枕の夢も、ともに粟粒一すいの如し」とある。金々先生は、滑稽さの中にも人生の深奥さに触れているからである。
 2日 一すいの夢

今は昔、片田舎に金村屋金兵衛といふ者ありけり。生まれつき心優にして、うき世の楽しみを尽くさんと思へども、いたって貧しくして、心にまかせず。

今では、もう昔のことだ゛が、片田舎に金村屋金兵衛という者がいた。生まれつき心やさしく風流を好み、人生を楽しんで生きようと思うけど、いたって貧しく思うにまかせないでいた。
 3日

よってつくづく思ひつき、繁華の都へ出て奉公をかせぎ、世に出て思ふままにうき世の楽しみをきはめんと思ひ立ち、まづ江戸の方へと志しける

が、つくづく思案したあげく、華やかな都に出て奉公口にありつき、金を儲けて出世し思う存分に人生の楽しみを極めたいと、先ずは江戸方面へと意を決してやつてきた処、
 4日

名に高き目黒不動尊は運の神なれば、これへ参詣して運のほどを祈らんと詣でけるが、はや日も夕方になり、いと空腹になりければ、名代の粟餅を食はんと立ち寄りける。

評判の高い目黒不動尊は開運の神であるから、ここに参詣して開運を祈願しようと詣でたのだが、早やその日は夕方になり、まことに空腹でもあり名物で名高い粟餅を食べようと立ち寄った。
 5日

粟餅を注文した金兵衛は、ふと居眠りしてしまう。夢の中で彼は、神田八丁堀の和泉屋という大商人の養子に迎えられ、莫大な財産を相続した。

彼は贅沢な生活を送り、吉原や深川の遊里に入りびたる。手代の源四郎は悪い男で、ご機嫌をとっては金を使わせる。いつしか金々先生の財力も失せかけていた。
 6日

金々先生所々にて大きくはめられ、今はもはや光も失せはて、日ごろ這ひかがみし者も、知らぬふりにて寄りつかず。無念至極に思ひけれども、せんかたなく、今は四つ手にて押させる力もなく、やうやくぱっち尻はしよをりに、桐の柾下駄と出かけ、心細くもただひとり、夜な夜な品川へ通ひける。

金々先生は所々で酷く騙され、今ではもう金々の威光も消えうせはて、これまで這いつくばうように諂っていた者も、知らぬ顔の態度で、まるで寄り付かない。先生はいたく年に思ったけれど、もはやとどうにもならず、今では四つ手駕籠で遊里にどっとくりこむ力もなくなり、ぱっちをはいて着物の裾を折りあげ、桐の柾下駄ばきといういでたちで、心細くもただひとり、夜な夜な品川の宿場女郎のもとに通うのであった。
 7日

金々先生「昨日までは金々先生ともてはやされ、ちよきや四つ手に乗りし身が、今はぱっちにひより下駄、変れば変る世の中ぢやな。アアいまいましい」

金々先生「昨日までは金々先生ともてはやされて、猪牙舟や四つ手駕籠で色里にのりこんだものを、その身が今はぱつちにひより下駄とは、変われば変る世の中じゃなあ、ああ、いまいましい」
 8日

通行人「駕籠の主、こひかけて早めませうぞ」、侍「ぎやうにお江戸はにぎやかだ」

通行人「駕籠かきまお方、威勢よくかけ声かけて、早めましょうよ」

侍「えらく、お江戸はにぎやかだ」

 9日

金々先生日々におごり長じ、今は身代もかうよと見えければ、父文ずい大きに怒り、手代源四郎が勧めにまかせ、金々先生が衣類をはぎ、昔のままにて追い出しにける。

金々先生はもその浪費がますます嵩じて、もう身代もこれきりと危うく思われたのて、義父の文ずいは大いに怒り、手代の源四郎の意見のままに、金々先生の衣服を脱がせて、昔はじめてやって来た時と同じ姿のままにさせ、追い出してしまったのだった。
10日

手代、源四郎、はじめは金々先生をそそのかし、多くの金銀を使わせ、そのあまりはみなわが手へくすねける。よって、物を盗むことを源四郎と申すなり。源四郎「アア、よいざまだ」

手代の源四郎は、はじめは金々先生をおだてそそのかし、たくさんの金銀を使わせて、その余りはみな自分がかすめ取ったのだった。これにより、物を盗むことを源四郎と申すのである。
源四郎「ああ、いいざまだ」

11日

金々先生追い出され、今は立ち寄るべき方もなく、いかがはせんとあきれはて、途方にくれて嘆きいるが、粟餅の杵におどろき、起き上がって見れば一すいの夢にして、あつらへの粟餅いまだできあがらず。

金々先生は追い出され、もうどこにも立ち寄れるところもなく、どうしたものかと呆然と立ちつくし途方にくれてため息をついたところ、粟餅を作る杵の音で目が覚め、起き上がって周囲を見渡すと、これは一眠りの、一炊きまはかない時の間の夢であって、注文の餅はまだできあがらない。
12日

よって金兵衛横手うち、「われ夢に文ずいの子となりて、栄花をきはめしもすでに三十年、さすれば人間一生の楽しみも、わづかに粟餅一臼の内のごとし」とはじめて悟り、これよりすぐに在所に引き込みけり。女「もしもし、餅ができました。
(
金々先生栄花夢)

そこで金兵衛は横手をうって「自分は夢で文ずいの養子となつて、栄花を極めること30年間、となれば、人間一生の間の楽しみも、わずかに粟餅一臼を作るときの間のようなもの」と初めて悟り、それからはすぐに故郷に引き返したのだった。

女「もしもし、餅ができました」

13日 草双紙 本文一枚ごとに絵を入れた薄い読み物を草表紙と総称する。表紙の色から赤本・黒本・青本などの区別がある。 いずれも、絵の空白部分に文章が書かれ、画中の人物のそばにそのせりふが書きこまれる。今日の劇画に近い構成である。
14日 近世後期の小説1 一枚一枚に絵を入れた草双紙のうち、小説といえるのき黄表紙と合巻。黄表紙には他に、山東京伝の、うぬぼれの強い醜い男が女との浮き名を立 てようと狂態をつくす筋の「江戸生艶気蒲焼」が名高い。合巻は、黄表紙の内容が複雑に長大化し、小冊を幾つも重ねとじた体裁。
15日 近世後期の小説2. 読本は、草表紙に対して文章を読むことを強調した小説。 洒落本は、この時代特有の「通」と「洒落」の精神により、遊里の種々相を描く。遊女と客の対話を中心に展開し細密な描写で人情の機微を穿つ。
16日 近世後期の小説3. 滑稽本は笑いを強調した小説。 人情本は、遊里でなく江戸町人の恋愛が対象。
17日 上田秋成 1734年―1809年。浮世草子・読本の作者。国学者、歌人。4才で大坂商人上田家の養子。青年時代から俳諧を好み、 また本居宣長の門弟加藤宇万技に国学を学ぶ。33才で自ら浮世草子に手を染め雨月物語を発表。殆ど失明状態で春雨物語を発刊。
18日 雨月物語 読本、上田秋成作、自序によると明和51768年完成。安永51776年、剪資枝畸人の名前で刊行。五巻、五冊。 剪灯新話など怪異奇談の短編。独自の和漢混交文と明快な主題、近世小説の高い水準を示す。
19日 浅茅が宿雨月物語巻之二 下総の農夫、勝四郎は家再興のため妻の宮木を残し京に上る。 戦乱や病気などで他郷に七年の歳月を過ごしやっと帰郷の途につく。
20日

この時日ははや西に沈みて、雨雲は落ちかかるばかりに闇けれど、(ひさ)しく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野分けに行くに、

この時、日は既に西に入り、雨雲は落ちて来そうなほど低く暗かったが、長い間住み慣れた故郷であるから迷う筈もないと、夏草の生い茂った野を踏み分けて行く、
21日

いにしへの継橋も川瀬に落ちたれば、げに駒の足音(あおと)もせぬに、田畑は荒れたきままにすさみて(もと)の道もわからず、ありつる家居もなし。

昔から知られた真間の継橋も、川の中に落ちてしまつており、成る程、古歌の通り駒の足音もせず、その上田畑は荒れに荒れて、昔の道も分からず、昔あった家もない。
22日

たまたまここかしこに残る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つつもあらね。いづれか我が住みし家ぞと立ち惑ふに、ここ二十歩は゛かりを去りて、雷にくだかれし松の聳えて立てるが、雲間の星の光に見えたるを、げに我が軒のしるしこそ見えつると、まづうれしき心地して歩むに、家は旧に変らであり。

たまたまあちこちに残っている家には、人が住んでいるようにも見える家もあるけど、昔とは似ても似つかない。どれが自分の住んでいた家かと途方に暮れて立ち尽くすと、そこから二十歩ばかり先に、雷に引き裂かれた松が聳え立っているのが、雲間を漏れる星の光で見えたのを、あれこそわが家の目印が見えたと、とにかく嬉しい気持ちで歩いて行くと、家はもとのまま変わらずに残っている。
23日

人も住むと見えて、古戸の隙より燈火の影もれてきらきらとするに、他人や住む。もしその人やいますかと心さわがしく、門に立ちよりてしはぶきすれば,内にもはやく聞きとりて、「誰ぞ」ととがむ。妻であった。泣きくどく彼女を慰めて、二人は夫婦の床についた。

人も住んでいるようで,古い戸の隙間から灯火の火影が漏れてちらちらとするのだが、他人が住んでいるのだろうか、それとももしかして我が妻がいるのだろうかと胸もおどって、門に立って咳払いをすると、中でもすぐに聞きつけて「誰ですか」と尋ねる。妻であった。泣きくどく彼女を慰めて、二人は夫婦の床についた
24日

窓の紙、松風をすすりて夜もすがら涼しきに、道の長手に疲れうまく(いね)たり。5更(こ゜かう)の空明け行くころ、(うつつ)なき心にもすずろに寒かりければ、衾かづかんとさぐる手に、何物にやさやさやと物のこぼるるを、雨や漏りぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば有明月のしらみて残りたるも見ゆ。家は戸もあるやなし。

窓の障子の破れから松風がさやさやと音を立てて吹き込んで一晩中涼しい上に、長旅の疲れでぐつすりと寝込んでいた。暁の空が明けていく頃も夢心地にも何となく寒かったので、夜着をかけようと手探りすると、何かさらさらと音がするので目覚めてしまつた。顔に冷たく何かがこぼれるので、雨が濡れているのかと目をあけて見ると、屋根は風に吹きまくられており、有明月の白く残っているのも見える。家は戸もほとんどない。
25日 簀垣(すかき)朽ち崩れたる(ひま)より、萩・(すすき)高く生ひ出でて、朝露うちこぼるるに、袖ひぢてしぼるばかりなり。壁には蔦・葛はひかかり、庭には(むぐら)に埋もれて、秋ならねども野らなる宿なりけり。 板敷き床の崩れ落ちた隙間から、萩や薄が高く生え伸びて、その朝露がこぼれ落ち、袖が濡れてしぼるほどである。壁には蔦や葛が生えかかって、庭には雑草が生い茂り、秋でもないのに草深い野原そのままに荒れ果てた家の様子であったのだった。
26日

さてしも臥したる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれどもと住みし家にたがはで、広く造りなせし奥わたりより、端の方、稲倉(いなぐら)まで好みたるままのさまなり。

それにしても、一緒に臥していた妻はどこへ行きたのか、姿は見えない。狐などが化かしたのかと思ったが、こんなに荒れ果ててはいるが、もとの自分の家に間違いなく、広く造った奥の方から、端の方、稲倉まで自分の好んだ造りそのままでの様子である。
27日

あきれて足の踏所さへ忘れためやうなりしが、つらつら思ふに、妻はすでにまかりて、今は狐狸の住み変りて、かく野らなる宿となりたれば、あやしき(もの)()してありし形を見せつるにてぞあるべき。

茫然として、自分が立っているところさえ分からないような気持ちであったが、よくよく考えて見ると、妻は既に死んでしまつて、今は狐や狸が住み変わり、こんな荒野の家となつてしまったので得体の知れない物の怪が化けて、生前の妻の姿を見せたに違いない。
28日

もしまた我を慕ふ(たま)のかへり来りて語りぬるものか。思ひしこのつゆたがはざりしよと、さらに涙さへ出でず。我が身一つはもとの身にしてと歩みめぐるに、昔臥所(ふしど)にてありし所の簀子(すのこ)を払ひ、土を積みて(つか)とし、雨露を防ぐまうけもあり。(よべ)の霊はここもとよりやと恐しくも、かつかなし。

それとも、自分を慕う妻の魂があの世から帰ってきて夫婦の語らいをしたのであろうか。自分が想像していたことと全く違わなかったなあと、余りのことにもはや涙さえ出ない。「自分一人はもとの身のままで」とあたりを歩いてみると、前に寝室であった所の板敷きを取り外して、土を積み墓をこしらえ、そこに雨露を防ぐ用意がしてある。昨夜の妻の霊はここから出てきたのかと、恐ろしくもありまた懐かしくもある。
29日

水向(みづむけ)の具ものせし中に、木の端を削りたるに、那須野紙のいたう古びて、文字もむら消えして所々見定めがたき、まさしく妻の跡なり。法名といふものも年月も記さで、三十一字にいまはの心をあはれにも述べたり。

さりともと思ふ心にはかられて世にも今日まで生ける命か

手向けの水を供える器もおかれている中に、木の端を削ったのに貼られた那須野紙が大層古びて文字も所々消えてはっきりしないが、まさしく妻の筆跡である。戒名も命日も記されず、一首の和歌に末期の心を哀れにも詠んでいる。

それにしてもいつかは帰ってくれることだろうと期待する心に欺かれて、よくもこの世に今日まで生き永らえてきたことだよ。

30日

ここにはじめて妻の死したるをさとりて、大いに叫び倒れ臥す。さりとて何の年月の月日に終りしさへ知らぬ浅ましさよ。人は知りもやせんと、涙をとどめて立ち出づれば、日高くさし昇りぬ。

ここではじめて妻の死んだことを知って大声をあげて泣き倒れる。それにしても、何年何月何日に死んだのかさえ知れない情けなさよ。人は知っているだろうかと涙を抑えて立ち上がると、日は高く上ってしまつていた。