1日 | 序文 |
最初の勅撰和歌集。古今集の序文で紀貫之の作とされる仮名文の仮名序、紀淑望の作とされる漢文の真名序もある。 |
和歌の本質と効用、和歌の歴史的変遷、種類、内容、歌人評も歌集の成立事情を述べている。 |
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2日 | 和歌の表現 |
心と言葉の関係を「種」と「葉」の比喩で説明している。「種」は発芽して葉になるが、そのままでは種でしかない。同様に心は、そのまま言葉ではありえない。心と言葉は別次元のものという。 |
心が言葉になるためには、何らかの工夫が必要となる。「見るもの、聞くもの」、自然の物象に託して表現するのも、その工夫の一つだとしている。 |
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3日 |
やまとうたは |
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるるなり。 |
花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ男女の中をもやはらげ、たけき武士の心をも慰むるは歌なり。 |
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4日 |
真名序 |
夫和歌者、託其根於心地、発其花於詞林者也。人之在世不能無為思慮易遷哀楽相変。感生於志、詠形於言。是以逸者其声楽怨者其吟悲可以述懐、可以発憤動。天地感鬼神化人倫和夫婦莫宣於和歌。 |
一体、和歌というものは、その根を心という大地に下ろし、その花を詞―ことばーという林に咲かせるものである。人として世にある限り、何もしないでいることはできない。思考は次々に移り変わり、悲しみの情も互いに入れかわる、感動が心に生じると歌となって言葉にあらわれる。それゆえ、安らかに心楽しんでいる人の声は楽しく、恨みを心に持っている人の歌は悲しい。であるから、歌によって自分の思いを述べ憤りを現すことができる。天地を動かし、精霊を感じ入らせ、人を徳化し、夫婦仲をなごやかにさせるのに和歌にまさるものはないのである。 |
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5日 | 俊頼髄脳 道信中将の歌論書 |
道信の中将の、山吹の花をもちて、上の御局といへる所を、過ぎけるに、女房たち、あまたいこぼれて、「さるめでたき物を持ちて、ただに過ぐるやうやある」と、言ひかけたりければ、 |
道信の中将が山吹の花を持って、上の御局と呼んでいる所を通り過ぎた折に、女房たちが、そこにすわりきれないくらいに沢山集まっていて、「そのような素晴らしい物を持って、そのまま黙って通り過ぎることがありまょうか」と、言葉をかけた処、 |
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6日 |
もとよりや、まうけたりけむ、口なしにちしほやちしほそめてけり、と言ひて、さし入れりければ、若き人々、え取らざりければ、奥に、伊勢大輔がさぶらひけるを、「あれ取れ」と宮の仰せられければ、受けたまひて、「一間がほどを、いざり出でけるに、道信の中将は初めから用意していたのであろう。 |
口なしに=実が熟しても口が開かない梔子―くちなしーのように「口無く(黙って)いるから、そのしるしとして梔子色で何回も染めた山吹の花を持っているのであるよ。と言い、その花を差し入れると若い女房たちは、下の句を付けられそうもなく、取ることが出来なかったので、奥に伊勢大輔が伺候していたのを「あれを取りなさい」と中宮がお命じなさった処、大輔はお引き受けになり、一間ほどを膝行して出た折に、 |
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7日 |
思ひよりて、こはえも言はぬ花の色かな、とこそ、付けたりけれ。これを、上聞こし召して、「大輔なからましかば、恥がましかりけることかな」とぞ仰せられける。 |
思いついて、これは何とも言えず美しい花の色であるよ。と付けたのであった。これを帝がお聞きあそばして「もし大輔がいなかったならば、恥をさらしたことであるなあ」と仰られた。 |
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8日 |
これらを思へば、心疾きも、かしこきことなり。心疾く歌を詠める人は、なかなかに、久しく思へば、あしう詠まるるなり。 |
これらのことを思うと、心の働きが機敏であるということも、素晴らしいことである。機敏に歌を詠んでいる人は、かえって長く考えると、和歌を悪く詠むことになるのである。 |
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9日 |
心おそく詠み出だす人は、すみやかに詠まむとするもかなはず。ただ、もとの心ばへにしたがひて、詠み出だすべきなり。 |
ゆっくりと案を練って歌を詠出する人は、早く詠もうとしても思い通りにならない。だから、和歌というものは、ただその人の資質に従って詠出するべきなのである。 |
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10日 |
歌論書、永久3年、1115年頃成立。作者は源俊頼、作歌する上の様々な心得を詳述、特に和歌の故実、説話が多いとされた。 |
源俊頼は「金葉集」の選者。自由で清新な歌風は新古今時代の歌人に多大な影響を与えた。 |
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11日 |
閑話休題 |
今までに古代を突っ走ったが、ここで総論的な纏めをしてみたい。万葉の歌から始まり、古事記、日本書紀、三輪 |
山伝説、日本霊異記、祝詞等を引用してきた。その他には、肥前風土記、丹後風土記、近江風土記があるが省略した。 | |||||||||
12日 | 古代後期 | 引用したもの以外に、王朝文学には、竹取物語、伊勢物語、大和物語、堤中納言物語、狭衣物語、今昔物語集、往生 |
要集、本朝文粋、栄花物語、大鏡、土佐日記、蜻蛉日記、和泉式部日記、更級日記、成尋阿闍梨母集、讃岐典待日記などの文学が多数生れている。 |
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13日 |
日記文学 |
男子官人は備忘録として日記を記すことが多い。政務の円滑化のための覚え書きである。 |
土佐日記を最初とするものは、それらと異なり、日々の心のあり方を仮名の散文により記した作品で、虚構と思われる記述もある。 |
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14日 |
批評の発生 |
土佐日記、また源氏物語でも、評言が多いと言われる。 |
批評文学の発生と言われる。 | |||||||||
15日 |
中世ー和漢混交文 |
柔軟な調子の和文の要素と、硬質な調子の漢文訓読の要素を組み合わせた文章のことである。 |
今昔物語は和漢混交文で今まで無かった武士や庶民を具体的に取り上げ彼らの逞しい生活意欲を力強く語っている。 |
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16日 | 中世の言葉と文学 |
軍記は、より漢文調、逆に和文調の強い文章などと語り分ける工夫も加わり文体を確立したとされる。 |
仏教的な思想も強く影を落としている、漢語を通して仏教を感じるものがあった。 |
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17日 |
室町時代の言葉 |
文化史上の一大転換期であり、言葉の歴史上でも近代の言葉と直接繋がるものである。 |
当時の宣教師により記されたキリシタン文学で、当時の口語の在り様が分かるといわれる。 |
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18日 |
.新古今集 |
八番目の勅撰和歌集、幽玄と言われる象徴性の強い歌風を樹立したとされる。気分情調を重んじた余剰の深い歌である。 |
後鳥羽上皇の命により、源通具、藤原有家、藤原定家、藤原雅経、寂蓮が選歌した。 |
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19日 |
勅撰和歌集1. |
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20日 |
勅撰和歌集2. |
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21日 | 勅撰和歌集3. |
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22日 |
勅撰和歌集4. |
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紫式部日記―秋のけはひ |
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23日 |
秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさの、いはむかたなくをかし。池のわたりのこずえども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空もえんなるに、もてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。 |
秋の気配が深まるにつれて、土御門邸の有様は言いようもないほどに趣がある。池のまわりの木々の梢や遣水のかたわらの草むらは、とりどりに一面色づいて、空いったいもゆうは゛夕映えが美しく風情あるのに引きたてられて、不断の御読経の合唱の声が、いちだんと心を打つのだった。次第にひんやりとしてきた風のたたずまいにも、いつもの絶え間なく聞こえていた遣水の音が読経の声と入り交って、夜通し区別がつかぬように聞かれる。 |
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24日 |
御前にも、近うさぶらふ人々、はかなき物語りするを、聞こしめしつつ、なやましうおはしますべからめるを、さりげなくもてかくさせたまへる御ありさまなどの、いとさらなる |
ことなれど、うき世の慰めには、かかる御前をこそたづねまいるべかりけれと、うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。 | ||||||||||
25日 |
中宮様も、お側近く仕える女房たちがとりとめない話をするのをお聞きになりながら、ご懐妊中とて、苦しいご気分でいらっしゃるに違いないのに、それをなんでもないふうにとりつくろっていらっしゃるご様子などは、まことに言うまでもないこと |
であるが、つらい世の中の慰めとしては、このような宮様をこそ探し求めてでもお仕え申すべきであったのだったと、いつもの自分の心とはうって変わって、何もかもつらいことなど忘れてしのうのも、一方、考えてみると不可解な心持ちではある。 | ||||||||||
26日 | 更科日記―足柄山
足柄山といふは、四、五日かねて恐ろしげに暗がりわたれり。やうやう入り立つふもとのほどだに、空の気色、はかばかしくも見えず、えも言はず茂りわたりて、いと恐ろしげなり。ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇にまどふやうなるに、遊女三人―あそびめみたりー、いづくよりともなく出で来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵−いほーの前にからかさをささせて据えたり。 |
足柄山という所は、四、五日も前からいかにも恐ろしそうに、あたり一面木暗く茂った道が続いている。しだいに足を踏み入れて行く麓のあたりでさえ、木の茂みのために鬱蒼と生え茂っていて、いかにも不気味な様子である。山の麓に泊った時、月もなく暗い夜で闇に迷うほどの有様なのに、そこへ遊女が三人、どこからともなく現れた。五十才くらいのが一人、ほかに二十才ぐらいのと、十四、五才のとがいる。人々は仮屋の前にからかさをささせて、そこに遊女らを坐らせた。 |
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27日 |
男―をのこーども、火をともして見れば、昔、こはたとひけむが孫といふ、髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて「さてもありぬべき下仕へなどにてもありふべし」などと、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりて、めでたく歌を歌ふ。 |
下男たちが灯火をともして見ると、昔、こはたとか言った遊女の孫という女は、髪がまことに長く、額髪がほんとうに美しく垂れかかって、色が白くこぎれいな様子をしていて、「これならそれ相当の下仕えなどにしても、きっと見劣りしないだろう」などと人々が感心していると、その声たるやたとえようもなく美しく、空に澄みのぼるばかりに上手に歌うのである。 |
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28日 |
人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国―にしぐにーの遊女はえかからじ」など言ふを聞きて「難波わたりにくらぶれば」と、めでたくうたひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものもなくうたひて、さばかり恐ろしげなる山中に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かずおぼゆ。 |
人々は大層に感じ入り、側に呼び寄せて親しげにうち興じていると、西国の遊女はこれほど素晴らしくはあるまい」などと人々が言うのを聞いて「難波あたりの遊女に比べたら、物の数ではありません」と直ぐに応じて、見事に歌っている。見た目がいかにも大層垢抜けた上に、声までも比べようもなく上手に歌って、あんなに見るからに恐ろしそうな山の中に立ち去って行くのを、人々が名残り惜しく思って皆泣くのを見ていると、幼い私の心にはなおさらのこと、印象深いこの宿を明日は立つことまでが心残りに思われる。 |
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29日 |
まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること、いはむかたなし。雲は足の下に踏まる。山のなからばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを「世離れてかかる山中にしも生ひけむよ」と人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。 |
翌朝は、まだ夜の明けやらぬ暗いうちから足柄山を越える。麓でさえあれだけ不気味だったのだから、まして山の中の恐ろしそうなことはいいようもない。登っていくにつれて、雲は自然と足の下に踏むようになっていく。山の中腹あたりの木陰のちょっとした所に、葵がたった三本ほど生えているのを見て「人里離れてこんな寂しい山の中に、よくもまあ生えたものだよ」と人々はいし゜らしく思う。川は、その山に三ヶ所流れている。 |
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30日 |
からうじて越え出でて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。横走りの関の傍らに、岩壷といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中より出づる水の、清く冷たきことかぎりなし。 |
やっとのことで足柄山を越え抜けて、関山に泊った。ここからは駿河の国である。横走りの関の傍に、岩壷という所がある。なんとも言えぬほどの大きな石で四角なのがあって、その中の穴のあいている所から湧き出でている水の、きれいで冷たいことといったらこの上もない。 |