虚空地に落つるが如く  徳永圀典

 

敗戦直後・高校時代、私は東京赤坂の日本キリスト教団・霊南坂教会の著名牧師・平山照治氏(東京山手教会創設者)により受洗し熱心に聖書を読み主の祈りを捧げ賛美歌を歌い、英語のバイブルも読んでいた青年であった。二十代、本店営業部外国為替課時代には先輩同僚と隣接のカトリック教会のミサに時折参列もしていた。

だか、右の頬を打たれれば左の頬を、色情を抱くは姦淫の罪を犯すの教え、遂に私は30代後半に撤退した。教養としての聖書、敬虔なる祈りの本質は学んだ。

 

壮年時代は観音信仰で推移、退職後の郷里では先祖代々の菩提寺檀徒総代を勤め、浄土宗五重奏伝の行と秘儀、また古稀には逆修(ぎゃくしゅ)(生前戒名の法要)を受けた仏教徒である。

因みに、私が考え、法要を行い正式なものにした戒名は「修徳院文誉永善圀典居士」である。(しゅとくいんもんよようぜんこくてんこじ)

天下の安岡正篤先生から頂いた色紙「修徳永善是圀典」を活用した。

家内のものも私の作である。(淑徳院真誉清香陽仙大姉)

私は、氏神神社総代も勤め神道を深く崇めている。

日本の神道こそ世界を救う神であるとさえ確信している。

かくの如く宗教に関与を深めて久しい。だが宗教は現世を生き抜く為の「生の哲学」であらねばとの宗教理を持つ。

私はかかる宗教的遍歴を持つが神に就いて思索を纏めた。

神とは

「瞬分の狂いも無く大自然を動かす大自然の法である。地球を創り、日月を創り、人間を初めとした地上の総てを創ったもの、その偉大な存在こそ神である」と。

この神の前には、いかなる人間も単なる被創造物、神たり得ない不完全なものと観る。

この大自然のあらゆる存在は絶対的存在である。

それら全ての地球の存在物には、正、悪、善、邪は元々無い。正・悪・善・邪は人間の思考から生み出した相対的な価値観に過ぎない。

宗教は多々あるが、一人の人間を絶対的、神的存在として信仰する宗教もある。

不完全な存在である人間を絶対化するのはマルクス・レーニン主義の如く危険極まりないのではなかろうか。極めて荒っぽい言い方であるがそれは不完全な人間を元祖とするイデオロギーと同様に思える。不完全な存在である人間の絶対視はイデオロギーと観てよく、間違いの因ではないか。

 

人間とは不完全な存在、間違いや思い込みをする存在である。ローマ法王が数年前に謝罪はしたが、歴史的にこの宗教は白人を選民と称し、異教徒を殺害しても良いとされていた時代もあった、これは絶対に間違いだ。

人間は間違うもの、不完全なもの、その人間の生み出したイデオロギーは時代進化と共に、時を経て必ず不適合となり失敗する、イデオロギーでは人間は幸せになれない。ソ連共産主義イデオロギーにより人間性は荒廃し、その壮大なる70年に亘る人間実験が失敗し共産主義の虚構を暴いた。

 

天地自然の理

大自然は絶対である。その産物である人間は、大自然の原理に素直な生き方が最適な筈だ。

日本民族の神はどうか。一言で申せば、「大自然崇拝」と見て間違いあるまい。日本人は大自然を畏れ謹み崇めて神としてきた。

これを別な表現で捉えれば、大自然、大宇宙、天地自然の法、宇宙運行の原理を神として畏れ謹み崇めることであり、元々大自然の産物である人間がその生みの親の原理に従って生きるということと同義である。

これは大自然の原理に従順に生きる姿勢であり洵に天地自然の理に適っている。

大自然の根幹である太陽の化身とされる天照大神を崇める神道は大自然の原理と同一であり、それへの帰依は絶対に間違いないこととなる。

日本が連綿たる国であり続けるのはこの大自然の原理に適っているからであると改めて私は確信する。

人間も万物と同様、枯葉のように朽ちて消え再びこの宇宙に散華する、それは大自然の原理である。

 

一神教や仏教でさえ信者に告げる天国、極楽、煉獄、地獄、それは人間が創った宗教のエゴではあるまいか。それらは神道には全く無い、自然のままだ。

地球の原理は全てそのまま絶対真理なのだ、受容しか有り得ないのが被創造者たる存在即我々である。

まさに、

無に生じ無となりて消ゆいのちかな 

      この世のことは空の空なり 

 

肉体は大自然に同化しても、人間の精神はこの世に残る、それが魂であり霊魂であろう。

 

吾、絶海和尚の気概で逝く、

 

虚空落地(こくうちにおち) 火星乱飛(かせいみたせれとぶ) 倒打筋斗(きんとをとうだして) 抹過鉄圍(てついをまっかす)

 

生を終えるにあたり、素晴らしき国・日本に生まれ育ったことを心から感謝する。

私も大地に還る時が近づいた。