世界遺産  熊野古道 4. 補陀洛山寺から那智大滝まで

我々は、中辺路を滝尻から大社まで果たしてから熊野古道に更に興味と関心を深めることとなる。親友の研究を下記した。大いに参考となった。
平成17年2月11日

鳥取 am7:17発 新大am9:41 珍しく指定席は満員、自由席も満席であった。 天気は快晴で申し分ない4日間が見込まれた。
新大阪 am10:03 紀伊勝浦pm13:54 直ちにタクシーで那智駅へ向かう。 くろしお号も指定席満員。
振分石 pm14:03 ここからスタート。 補陀落山寺と熊野三社神社の前にある。 県道沿いにある。
浜の宮王子 pm14:05 熊野三社神社 この日、お祭りの準備で弓で的を射る練習中。幟多数。
補陀落山寺 pm14:06 お堂が開いていた。 本尊仏を拝む。 川関集落を抜けて進むがややこしいので注意。
市野々王子神社 pm15:18 古風な建物。 祭神は御食津神・伊邪那岐命、伊邪那美命である。 古い神社。
夫婦杉 pm15:50 門前茶屋あり。 樹齢800年の大木、重厚な風格ある大門坂。 中辺路道の屈指の貫禄道。
多富気王子跡 pm15:55 見落とし易い。 大門坂入りて直ぐ右側に石碑がある。
那智大滝 pm16:30 飛滝神社参拝。 冬で水量が少し減っていた。 近くの宿に泊まる。

熊野古道に関する研究成果。(友人記)

紀伊路の中
1.中辺路・・・田辺から本宮に向う中世のメインルート
中世において難路である紀伊路(中辺路)がメインルートとされ、伊勢路がすたれたのは、先達をつとめた山伏が、道中での苦行を要求したから山が多い紀伊路が選ばれたのであろう。(大辺路と小辺路が参詣道となるのは、近世以降である。もとよりどちらも地域の生活道路として古くから存在していたことは間違いないが、中世には熊野への参詣に利用された事例を現在のところ見出すことはできない。)
◎中世のメインルート
中世における紀伊路−中辺路ルートは以下のごとくである。
京都を出発、船で淀川を下り、摂津の窪津で上陸し、天王寺・住吉を経て和泉国を南下し、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、更に南下して藤白峠・蕪坂・鹿ケ瀬峠などを経て田辺に至る。滝尻から山中に分け入り本宮に向う。本宮から熊野川を下って新宮、ついで那智と順拝し、同じルートを逆にとって本宮に戻るが普通であるが、時には那智から雲取越えで本宮に直行することもあった。淀川と熊野川の往復を除き、全て徒歩で行くのが原則であるが熊野詣の初期の段階には海路を船で行くが田辺付近までと推定される。
    ・紀伊路・中辺路は京都から本宮まで約300キロメートル、
    ・本宮・新宮・那智と巡って本宮に戻る三山順拝が約120キロメートル
    ・京都からの往復は720キルメートル。約20日から30日を費やしている。
    ・往路は王子社奉弊、水辺での垢離、路次の祓いが多く、また徒歩を原則としたから日数の3分の2位
     費やしたが帰路は何の儀式もなく、またしばしば伝馬を利用したため日数が短い。
王子の出現
    紀伊路・中辺路では沿道を中心に数多くの王子社が出現した。
それでどうして派生ルートが生まれたのか。中世後期になぜこのような派生ルートが生まれたのかと言えば南北朝時代は往来がかなり盛んになっていたのであるらしい。
だから田辺から滝尻までの間には2本のルートがある。
1、本来は富田川の浅瀬を行ったけど増水時など危険が多くて多数溺死者が出たそうだ。
2、より安全な距離も短いし、その当時中辺路ルートを支配していた園城寺・聖護院系山伏の力が衰えたため潮見峠ルートが拓かれたらしいよ。当時は併存していたけど近世以降は潮見峠ルートに一本化。
●本宮から新宮・那智と順拝した後、再び同じ道を引き返し本宮に帰るのが中世における通常の参詣ルートであった。ところが、建仁元年(1201)の後鳥羽上皇の参詣では、那智山から山越えで、直接本宮に戻っている。
これも派生ルートであって雲取越えと呼ばれる難路で那智から大雲取・小雲取越えで本宮ちかくの請川に至る。
・後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家はこのとき40歳。終日、輿に乗せられ、強風でずぶぬれになって、この険阻を越えた時「心中夢の如し。未だかくの如きことに遇はず。雲トリ・紫金(志古)峰、手を立つる如し」との感慨を記している。病弱の定家にはことのほかこたえたようで、「前後不覚」になって本宮に着き、直ちに就寝している。(建仁元年「後鳥羽院熊野御幸記」)
・歌人の斎藤茂吉も44歳の大正14年昭和9年の2回夏に雲取越えを苦行の歌を読んでいる。
  「紀伊のくに 大雲取の峰ごえに 一足ごとに わが汗はおつ」  「やま越えむ ねがひをもちて とめどなく 汗はしたたる 我が額より」
なお近世になると雲取越えは那智から本宮に向う西国三十三所観音礼の通常ルートとなっており、大雲取の越前峠(中辺路の最高峰で871m)から小口への急な下り坂(胴切坂)には石畳がところどころ敷設されている。逆は大変だそうだ。
本宮から西に大日山の中腹を越えるのが大日越えである。全長2キロメートル足らず、約1時間で湯峯温泉に行く事がでいる。湯峯温泉は、しばしば熊野詣の湯垢離場と説明されるが本宮に奉幣する前に湯峯に行っていることがわかるのは、応永三十四年(1427)の「北野殿熊野詣日記」であって、これは南北朝時代以降の新しい風潮であろう。
平安末〜鎌倉時代においては、三山を順拝し、再び本宮に戻ってきた後、湯峯温泉で疲れを癒している。たとえば、「中右記」天仁2年(1109)11月1日条によると、筆者の藤原宗忠は三山順拝を終え、昼ごろに船で本宮に戻り、しばらく休息した後、湯峯温泉に向かい、次のように記している。
未刻、湯峯に行き向ふ。坂の行程十余町なり。湯屋に於て欲ぶ。谷底に温水・寒水竝び出づ。誠に希有の事なり。神験にあらざれば、豈に此の如き事あらんや。此の湯を浴びる人、万病を消除すてへり。酉時ばかり本房に帰る。現在も壷湯と呼ばれる小屋掛けの入湯所があって同じようで記述とそっくだそうだ。
壷湯も国史跡に指定されてるらしい。
このほかの記事は
・「長秋記」では鳥羽上皇と熊野詣をした侍賢門院が湯峯に登ろうとしたが、上皇が新宮から環御する日と重なったので中止したとある。
・「頼資卿記」には湯峯を拝し沐浴す。驪山の温泉に異ならず」とあり
このように湯峯は三山順拝の後に訪れる温泉であった。