熊野本宮大社 和歌山県 本宮町

@
この神社は、梁塵秘抄の後白河法皇の時代から信仰の深く篤く敬われた神社で私は多年にわたり興味深々の神社である。本宮のお社は四つある。棟は三つで左が大きくご祭神は二神、次が主祭神、右端が天照大神である。伊勢生まれの人々は驚いたものだ。天照が端っこにあるからである。真中の主祭神は、言うまでもなく、「スサノオの命」、日本の神社の6-7割を占める祭神がスサノオであり、日本の隠れた、本当の天照だという伝承研究者は言う。出雲にある熊野大社が本山だという人もいる。私の興味津々の神社なのである。世界遺産となり「熊野古道」は注目を浴びている。私は、滝尻皇子から近露まで歩行したままだ、親友は1月に滝尻から本宮まで歩行しようと言う。決定した、平成17年1月には熊野古道に挑戦する。
平成16年12月21日 火曜日 快晴


A
熊野三所権現の信仰の地として、宇多法皇の御世から上皇や女院などの参拝が百数十回にもおよび、その様子は"蟻の熊野詣"にたとえられるほど熊野へ参拝する人はあとをたたなかったと言われ.る。熊野本宮大社は、平成7年には社殿が国の重要文化財に指定されました。本殿へと続く石段の両脇には幟がなびき、生い茂る杉木立が幽玄の世界へと誘われる。 一歩一歩石段をのぼり詰め、総門をくぐると、檜皮葺の立派な社殿が姿をあらわす。明治22年の洪水で流出を免れた社を大斎原(おおゆのはら)から遷したもので、古風なたたずまいは荘厳そのもの。国生みの神とされる伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、人々に救いの手を差し伸べる家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)などが鎮座。交通安全、大漁満足、家庭円満、夫婦和合、長寿の神。参道に沿うように熊野古道が続き、苔むした険しい石段を眺めるだけで、その道中が決して楽ではなかったことを物語っている。拝殿横の古道を一歩踏み出したところには、旅のほこりを祓ったとされる祓戸王子がひっそりとたたずんでいた。

発心門王子ー近く 旧社地・大斎原ooyuno.jpg (3652 バイト)

B
古くは「熊野坐(くまのにます)神社」という名で呼ばれていた。熊野三山の中心で、全国に3000社以上ある熊野神社の総本宮。34回と最多の熊野御幸を行った後白河上皇(1127〜1189)は、『源平盛衰記』によると、本宮へは34回訪れていますが、新宮と那智は15回。本宮が熊野三山の中心。 鳥居の前に立つと、まず、大きな八咫烏(やたがらす)の幟が目を引く。八咫烏は熊野権現の使い。三本足の烏です。日本サッカーのシンボルマーク。鳥居をくぐり、杉木立のなかの石段へ。石段の両脇には「熊野大権現」と書かれた奉納幟が立ちならんでいる。129段の石段を登りきると、正面に神門があり、向かって左手のほうには真新しい礼殿。
神門をくぐると、檜皮葺きの古色蒼然とした社殿が向かって左から第一殿・第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿と3棟並んでいる。
神門の先、中央にあるのが第三殿。この第三殿が本社。「証誠殿(しょうじょうでん)」といい、主神の家都美御子大神(けつみみこのおおかみ。家都御子大神(けつみこのおおかみ)ともいいます)を祀っている。
家都美御子大神という名はのちに付けられたもので、平安初期には熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていました。「熊野にいらっしゃる神」。

 向かって左に、第一殿・第二殿の相殿。相殿のため、第三殿や第四殿よりひと回り大きく、また、この相殿の正面に礼殿があるため、相殿が本社のように見えるかもしれませんが、中央の第三殿が主神を祀っています。
 第一殿を「西御前(にしのごぜん)」といい、熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)と事解之男神(ことさかのおのかみ)を祀っている。
 第二殿を「中御前(なかのごぜん)」といい、御子速玉之神(みこはやたまのかみ)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」を祀っている。
 家都美御子神・牟須美神・速玉之神の3神を本宮・新宮・那智の熊野三山は共通に祀ってあるが、それぞれの主神は異なっている。熊野牟須美神は那智の主神で、御子速玉之神は速玉の主神です。
向かって右の第四殿は「若宮(わかみや)」といい、天照大神を祀っている。
 以上の四社を上四社(かみよんしゃ)と総称。
 第五殿から第八殿までを中四社(なかよんしゃ)、第九殿から第十二殿までを下四社(しもよんしゃ)といいますが、中四社と下四社は明治22年の水害で流され、いまは無い。
 明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある大斉原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあった。
 大斎原には12の社殿やいくつかの境内摂末社、神楽殿や能舞台などがあり、現在の本宮大社の8倍の規模を誇っていた。

 いつの時代から大斎原に社殿を構えるようになったのかは不明、明治22年まで社殿が水害で流されるなどということはおそらくなかったことと思われる。社殿が流されるほど大水害を引き起こした原因は、熊野川上流の十津川での明治に入ってからの急激な森林伐採に在る。
 紀伊半島南部を襲った大雨が十津川の森林伐採後の山々で山津波を引き起こし、その土砂が川をせき止め、天然のダムを作り、そのダムが水を貯えた後に絶えかねて決壊。下流域を押し流し、十津川の村々に壊滅的な打撃を与えながら、 濁流となった熊野川は本宮大斎原の社殿をも呑み込みました。社殿のほとんどが流出し、森林破壊に対するつけを払わされた。
 現在の大斎原の森は水害後に植えられた杉が多くを占めているが、人がそこを聖地として祭るようになった当初は、おそらくはこんもりとした照葉樹林の森であったと思われる。
長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家・学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と言うが、『長寛勘文』に記載された『熊野権現垂迹縁起』(熊野縁起最古のもの)によると、
熊野権現は唐の天台山から飛行し、九州の彦山
(ひこさん)に降臨した。それから、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽(ゆずるは)山と巡り、紀伊国牟婁郡の切部山、そして新宮神倉山を経て、新宮東の阿須賀社の北の石淵谷に遷り、初めて結速玉家津御子と申した。その後、本宮大湯原イチイの木に三枚の月となって現れ、これを、熊野部千代定という猟師が発見して祀った。これが熊野坐神社の三所権現である。 とあり、イチイガシという照葉樹林を代表する木に熊野三所権現が降臨したと語られている。 大斎原は、川に浮かぶ森、川面から突き出た森であり、地上のほとんどを原生林が覆っていた時代においても、その周囲を川に囲まれた特異な森の姿は人々に崇拝の念を抱かせたと思われる。
家都美御子大神は、古語で「食(衣食住の『食』)」のことを「ケ」ということから、「ケ=食」を司る神ではないかという説が一般的。
地上のほとんどが森に覆われていた縄文時代や弥生時代、森とは世界そのものであったと思う。
もともと熊野信仰は自然崇拝から生じたもの(那智は滝の崇拝、新宮はその元宮が神倉神社であるとすれば、岩への崇拝、本宮は川に浮かぶ森への崇拝)、自然があまりに破壊され過ぎたときに社殿も破壊された。自然破壊に対する警報のような役割を大斎原にあった本宮は果たした。
2年後の明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在ある高台に遷座。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地「大斎原」の2基の石祠に祀られている。右の石祠に中四社・下四社を祀り、左の石祠に元境内摂末社を祀っています。
12の社殿の祭神は下記の通り。

祭神名
上四社 第一殿 伊邪那美大神・熊野牟須美大神・事解之男神
第二殿 伊邪那岐大神・速玉之男神
第三殿 家津美御子大神(またの名を熊野加武呂乃命)
第四殿 天照皇大神
中四社 第五殿 忍穂耳命 おしほみみのみこと
第六殿 瓊々杵尊命 ににぎのみこと
第七殿 彦穂々出見尊 ひこほほでみのみこと
第八殿 うが草葺不合命(う=慮+鳥、が=茲+鳥)うかやふきあえずのみこと
下四社 第九殿 軻遇突智命 かぐつちのみこと
第十殿 埴山姫命 はにやまひめのみこと
第十一殿 彌都波能賣命 みづはのめのみこと
第十二殿 稚産霊命 わくむすびのみこと

 また、明治元年(1868年 )の神仏分離令以前、熊野では神仏は習合していた。6世紀に伝来された仏教は、次第に神道と融和。平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が浸透。
 本地垂迹思想とは、神の本地(本体)は仏であるという考え方。仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方。もとの仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹と言う。また、その仮に現れた神のことを権現と云う。
平安末期、12世紀には、熊野三山それぞれの12の社殿に祀られた神々は熊野十二所権現と呼ばれ、すべて本体は仏や菩薩であると考えた。
 本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、那智の牟須美神は千手観音、新宮の速玉神は薬師如来を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった。
阿弥陀如来を本地とした家都美御子大神を主神とする本宮は、阿弥陀の極楽浄土とみなされ、その社殿は「証誠殿(念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)」と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土往生が確実になるとされ、平安後期以降、浄土教の聖地として栄えました。
白河上皇9回。鳥羽上皇21回。後白河上皇34回。 鎌倉時代に入って、後鳥羽上皇が28回。 と、頻繁に行われた熊野御幸も、熊野を浄土の地と信仰してのこと。願うは極楽往生。
また、鎌倉時代に興り、日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教「時衆(じしゅう。のちに時宗)」の開祖・一遍上人(1239〜89)は「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と自ら述べている。 南北朝から室町時代にかけて、時衆の念仏聖たちは熊野の勧進権を独占し、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広め、熊野信仰をもりたてていきた。 時衆の念仏聖たちの活動により、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態が生み出された。

熊野十二所権現の本地は下記の通り。

社殿名 本地仏
上四社 第一殿 西御前 千手観音 三所権現 熊野十二所権現
第二殿 中御前 薬師如来
第三殿 證証殿 阿弥陀如来
第四殿 若宮 十一面観音 五所王子
中四社 第五殿 禅児宮 地蔵菩薩
第六殿 聖宮 龍樹菩薩
第七殿 児宮 如意輪観音
第八殿 子守宮 聖観音
下四社 第九殿 一万十万 文殊菩薩・普賢菩薩 四所明神
第十殿 米持金剛 毘沙門天
第十一殿 飛行夜叉 不動明王
第十二殿 勧請十五所 釈迦如来

 一万十万とは一万眷属・十万金剛童子のこと。これを一柱に数えている。また、熊野十二所権現のうち、三山それぞれの主神3柱を三所権現といい、若宮+中四社の5柱を五所王子、下四社を四所明神と呼ぶ。
 
珍しいのは、かつて熊野比丘尼(くまのびくに)が売り歩いた熊野牛王宝印くまのごおうほういん)。 牛王宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のこと。 また、牛王宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われてきました。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされていた。牛王宝印は、様々な寺社から発行されていたが、もっとも神聖視されていたのが、熊野の牛王宝印。
 カラス文字で描かれた熊野の牛王宝印は、三山それぞれデザインが異なっている。本宮の牛王宝印は本宮でしか手に入れられない。 
 なお、現在残る上四社の正式な参拝順は、院政期の熊野御幸の参拝順にちなみ、第三殿(本宮の主神を祀る)・第二殿(新宮の主神を祀る)・第一殿(那智の主神を祀る)・第四殿としている。