美しい日本の歌 万葉集E 地域別 4

近江国、淡海(あふみ)の海の琵琶湖が滋賀県の六分の一を占める。湖畔の大津に天智天皇の大津宮、壬申の乱も近江国を主舞台とした。大阪府に次ぐ万葉の故地である。聖武天皇の紫香楽(しがらき)宮、淳仁・称徳天皇の保良宮があった。

 1日 逢坂山 相坂(あふさか)を うち出でて見れば 淡海(あふみ)() 白木(しらゆ)綿花(うはな)に 波立ち渡る 作者未詳 巻13-3238
逢坂越えは山科の東方、
325米。南には音羽山が対峙している。峠を越えて大津に下る時パッと琵琶湖が開ける、白木綿花のように波立っている。
 2日 淡海の海 淡海(おふみ)の海 夕浪千鳥()が鳴けば (こころ)もしのに (いにしへ)思ほゆ 柿本人麻呂 巻3-266
近江は「
(ちか)淡海(あふみ)」、「(とほ)淡海(あふみ)」は浜名湖の遠州である。懐古の慕情は千鳥に呼びかけて「千鳥よお前がそんなに鳴くと心もしおれるほどに昔のことが思われてくるよ」
 3日 大津京城址1. 玉襷(たまたすき) 畝火(うねひ)の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ ()れましし 神のことごと (つが)の木の いやつぎつぎに (あめ)の下 知らしめししを (そら)にみつ 大和をおきて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほせしめか 天離(あまさか)る (ひな)にはあれど (いは)(ばし)る 淡海の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に (あめ)の下 知らめしけむ 天皇(すめろぎ)の 神の(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の (しげ)く生ひたる 霞立ち 春日の()れる ももしきの 大宮処(おおみやところ) 見れば悲しも 近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌 巻1-29
 4日 大津京城址2. 661年、斉明天皇崩御により中大兄皇子の称制となる。667年、319日、飛鳥から近江大津宮に遷都、翌6671月皇子は即位して天智天皇となる。近江遷都の理由は飛鳥の旧勢力から離れる為、新羅・唐に敗れて以後その外冦に備える為。 又、東北経略の要地もその理由。近江では智謀の人藤原鎌足を背後にして着々と新政は強化され、近江令の制定、戸籍の整理(庚午年籍)も行われ、また大陸文化を模して近江宮廷を巡る文化の華も開いた。
 5日 大津京城址3. 反近江派の空気も年を追い宮廷の内外に拡大しつつあり、鎌足没669年後は、天皇と皇太子の大海人皇子との対立も深まり、6711月遂に天智天皇皇子の大友皇子を太政大臣に立てるに及んで表面化し、遂に1017人、大海人皇子は病床の兄天皇の譲位の話を拒否して19日吉野入りする。時人は「虎に翼を著けて放てり」と言ったという。 1123日大友皇子・左右大臣らの天皇の前での盟約があると翌24日には大蔵省第三倉から火が出て宮殿は焼亡し、29日には再び盟約という混乱の中で天皇は亡くなった。翌6726月大海人皇子の吉野進発に始まる壬申の乱により7月近江朝は潰滅に帰す。やがて都は飛鳥に移り天武天皇(大海人)の時代となる。大津京は僅か54ヶ月、興亡に浮沈した悲運の都であった。
 6日 大津京城址4. 大津京城址は大津滋賀里町説・錦織町説とあるが、発堀調査で南滋賀町付近。湖岸から次第に傾斜になる南滋賀町の正興寺境内にある礎石は宮址か、昭和15年その南方に近江神宮が造られた。この付近の高みから、霞む湖畔の青草の間、哀史も悲歌も朦朧と再現してくる。人麻呂は現実をいつも歴史的現実としてつかもうとする。この歌も遠い神武天皇の昔から説き起こして特に大和を後に大津に都した天智天皇に及び、その荒廃した宮址に立って幻影を追い求めその幻滅を哀傷する呼吸で枕詞や対句を多用し流動してやまない壮大な音楽美を構成している。 この歌より数十年後の杜甫の「国破山河在 城春草木深」の「春望」をまたずして、春光のもと、湖畔の悲歌を完成している。「いかさまに思ほしめせか」(どのようにお思いなさったのだろうか)は万葉では挽歌の用語で、生きの身の者には到底その真意の測りがたいことを表わしており、全体も湖畔の悲都への挽歌の趣である。この歌を持統朝初期の作とすれば、乱後20年足らずの頃である。どういう事情に際しての作か不明だが、個人の独詠歌でなく、なんらかの公式の歌であろうと犬養孝先生の見解である。近年持統女帝の志賀行幸を想定し、それを機縁とした応詔呈歌とみる説があるという。
 7日 弘文天皇陵1. ・・(ととの)ふる (つづみ)の音は (いかづち)の (おと)と聞くまで 吹き()せる 小角(くだ)の音も (あた)見たる 虎か()ゆると 諸人(もろひと)の おびゆるまでに 捧げたる (はた)の靡きは 冬こもり

春さり来れば ()(ごと)につきてある火の 風の(むた) 靡くが如く 取りもてる 弓弭(ゆはず)(さわき)み雪降る 冬の林に 飄風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの(かしこ)く 引き放つ 矢の(しげ)けく 大雪の 乱れて(きた)れ 服従(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の ()なば消ぬべく行く鳥の あらそふ(はし)に 渡会(わたらひ)の (いつき)の宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑はし 天雲(あまくも)を日の目も見せず 常闇(とこやみ)に (おほ)ひ給ひて・・・

柿本人麻呂 巻2-199
壬申の乱の時、総指揮の高市皇子
(天武皇子)の亡くなったおりの挽歌の一部で乱の戦闘の場面。
全歌は
149句の万葉中の最長歌。壬申年、672年、624日、吉野を進発した大海人皇子一行は東国に向かい27日には近江を全滅させた。雷鳴のような太鼓の音、虎の吼えるような笛の音、まさに軍楽隊づきで赤旗を靡かせ、つむじ風の勢いで進軍、矢は大雪のように乱れ飛べば、近江軍も命がけで争う時、伊勢の神風が吹いたという。

日本書紀には「塵埃天に連り、鉦鼓の声数十里に聞こえ」とある。
723日、近江の弘文天皇(大友皇子)は進退きわまり遂に長等山の麓に自殺。

従う者は物部連麻呂のほか
12の舎人のみ。頭は不破の営前に持来された。陵墓は皇子山の西南、長等山麓の荒れ果てた新羅明神社の東脇に長等山陵としてある。喬木の生い茂る幽暗な森のかたわらに今も非業凄惨の気が漂うようだとある。
 8日 志賀山寺址 穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作りましし御歌

(おく)()て恋ひつつあらずば 追ひ()かむ 道の隈廻(くまみ)標結(しめゆ)へわが背

但馬皇女 巻2-115
志賀の山寺は崇福寺址のみ。但馬皇女の母は藤原鎌足の娘、氷上娘である。但馬皇女は高市皇子の妃の時、穂積皇子に堪えきれぬ思いを寄せて、

「秋の田の 穂向の寄れる 片寄りに 君に寄りなな 
言痛(こちた)かりとも」
(2-114)と、どんな噂が立つとも稲穂が一方に片寄るように貴方に添いたい、と一途の恋を訴えた。
穂積皇子との密会が露見した時、
「人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る」
(2-116)と、経験のない冷たい後朝の川を渡ると述べている。

9日 唐崎 楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎 (さき)くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
ささなみの 志賀の大わだ淀むとも 昔の人に またも逢はめやも
柿本人麻呂 巻1-30 巻1-31
湖上遥かに近江富士の三上山が見られる唐崎。
10日 比良山 楽浪の 比良山風の 海吹けば 釣する海人の 袖かへる見ゆ 槐本 巻9-1715
比良山の連嶺が屏風のような楽浪、この付近は比良の暮雪といわれるように、裏日本からの寒風は晩春まで雪を残し早春
3月頃には冷たい比良降ろし、比良八荒と言う湖上となる。
11日 勝野の原 何処にか われは宿らむ 高島の勝野の原に この日暮れなば

高市黒人 巻3-275
湖畔の広野、安曇川河口、荒涼とした原野であったのであろう。旅の不安な心細さが滲む。

12日 あどの湊 (あども)ひて 漕ぎ行く船は 高島の 阿渡(あど)水門(みなと)に ()てにけむかも 高市黒人 巻9-1718
安曇川河口の港、湖上でのこと、自分と反対の方向に何艘か連れ立って漕いで行った舟は、今頃安曇川の河口に泊まったことだろう。船に寄せる心情と湖上の寂寥感。
13日 塩津(しおつ)菅浦(すがうら)

高島の 阿渡の水門を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ

小弁(すなきおほともひ)9-1734琵琶湖の湖北の景観ほど素晴らしい所はない。海津、大浦そして塩津、自然のままの営みがある。湖北の静謐感、神秘な風景であったろう。
14日 伊香山(いかごやま) 伊香山 野辺に咲きたる 萩見れば 君が家なる 尾花し思ほゆ 笠金村 巻8-1533
伊香山は賎が岳の南嶺、山頂の眺望は古代万葉の湖北を一望に感じさせる。北側は余呉の湖、足元に塩津、そして彼方に竹生島の近江の海である。旅に咲き乱れる萩に奈良の家の尾花に旅愁を感じたのであろう。
15日 塩津山 塩津山 うち越え行けば わが乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも

笠金村 巻3-365
近江から越前に越える、湖北塩津から沓掛峠を経て新道野越えで疋田に出るのが「塩津街道」。古道は沓掛の北西から追分・疋田に出る深坂越えが歌の道。冬季には雪が深い、馬がつまづいて家郷でも自分を恋うているのだろうかと山中望郷である。

16日 蒲生野 (あかね)さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
額田大王





紫の にほへる(いも)を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも
大海人
(おおあまの)皇子(おうじ)
 

額田大王(ぬかだのおおきみ) 巻1-20

大海人(おおあまの)皇子(おうじ) 巻1-21

有名な贈答歌、天智7668年、55日、近江「蒲生野」での薬猟の時の歌。薬猟は男は鹿の袋角(新たに生えた角)をとり、女は薬草を取る。宮廷あげての遊楽。額田大王は大海人皇子との間に早く十市皇女を産み、今は天智天皇の後宮の人、複雑な事情に加え代表的な名歌である。蒲生野は大津京址から40キロの湖東、蒲生郡、現在は近江八幡市。

17日 東海地区の歌 尾張・三河・遠江・駿河・伊豆である。東国は古くは不破の関(美濃)・鈴鹿の国(伊勢)以東。万葉集の東歌や防人歌では遠江・信濃以東である。 北国の雪国と違い黒潮に面して気候も温暖で明るい風土である。
18日

すさの入江

あぢの住む 渚沙(すさ)の入江の 荒磯松(ありそまつ) ()を待つ児らは ただ一人のみ 作者未詳 巻11-2751
知多半島の先端須佐湾の豊浜である。アジガモの住む渚沙の入江の荒磯の一本松のように自分を待ってくれているのはただあの
(ひと)一人だけだ。
19日 小竹島 夢のみに 継ぎて見えつつ 小竹島の 磯越す波の しくしく思ほゆ 作者未詳 巻7-1236
知多半島と渥美半島の中間、三河湾の口にある小島。屈曲の多い島で島の逍遥の小道は、磯越す波はどこでも見られる。あの人がいつも夢にばかり続いて見えて磯越す波みたいにしきりに思われる。いい歌ではないか。
20日 伊良湖岬 うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良(いら)()の島の 玉藻刈り() 麻続王(をみのおおきみ) 巻1-24
渥美半島の先端、恋路が浜、椰子の実を運ぶ黒潮に面しても荒涼の感もある。麻続王は天武
4675年流刑に処せられた。配流者の身の苦しさとして、荒涼たる浜辺に、浪にぬれ、玉藻を食む、生きの身の命惜しさと訴えてないではいられない。
21日 (ひく)馬野(まの) 引馬野に にほふ榛原(はりばら) 入り乱れ 衣にほはせ 旅のしるしに (ながの) 奥麻呂(おきまろ) 巻1-57
榛の木は「はんの木」、摺染にしたり樹皮や実の煎汁で侵染にしていた。はんの木の紅葉も美しい。色づいているはんの木の原に入り乱れ、着物に美しい色を映しなさい、旅の記念に。
22日 安礼の崎 何処(いづく)にか 船泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎 漕ぎ()み行きし 棚無し小舟(をぶね) 高市黒人 巻1-58
安礼の崎がある、そこを先ほど漕ぎめぐって行きた船棚のない小さい船、今頃はどこら船どまりしているのだろうか。現在の御津町御馬の南の出先、音羽川河口あたりと言われる。
23日 二見の道 妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつる 高市黒人 巻3-276
二見道は姫街道、浜名湖北岸を回り東海道に合流する。あなたも私も一つであるから、三河の二見の道から中々別れられない、と妻、旅先の妻か、に言う。妻もこれを受けて「三河の 二見の道ゆ 別れなば わが背もわれも ひとりかも行かむ」と応じている。
24日 乎那(をな)() ()らふ この(むかかい)()の 乎那(をな)()の (ひじ)につくまで 君が()もがも 東歌 巻14-3448
浜名湖北に本当に良さがある、猪鼻湖の狐湖、板築山山系が乎那の峯か。時が経ち低くなつて湖の州につかるようになるまで長く、あなたの寿命が続いて欲しい、愛する人への思い。
25日 引佐細江(いなさほそえ) 遠江(とほつあふみ) 引佐細江(いなさほそえ)の 澪標(みおつくし) (あれ)を頼めて あさましものを  東歌 巻14-3429
浜名湖の東北隅が引佐細江,静寂の地、その澪標のように私を頼みに思わせておいてさ、ほんとは浅い心であったのだ、女への怨み心ではないかという。澪標は細江町の標章。
26日 清見の崎

廬原(いほはら)の 清見の崎の 三保の浦ゆ (ゆた)けき見つつ 物思ひもなし

田口益人(たぐちますひと) 巻3-296
上野国守に任ぜられた田口益人は赴任の途上、駿河の清見でこの歌を詠む。
27日 田児の浦1. 天地(あめつち)の 分れし時ゆ (かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 布土(ふじ)の高嶺を (あま)の原 ふり()け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 不尽の高嶺は

反歌

田児の浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ 不尽の高嶺に 雪は降りける

山部赤人 巻3-317.3-318

万葉集の名歌中の名歌。ただ味わうのみ。
28日 田児の浦2. 富士の崇高・清浄・雄大な神性への賛嘆を歌いあげた絶唱、山部赤人が官命をおびて東国の旅の途上、大和周辺では見られない秀麗・最高峰の富士山との始めての出会いに感激したのであろう。
その出会いの場所の「田児の浦」は富士川河口西方、蒲原・由井・薩田山麓、興津東方にかけての弓状をなす海浜といわれる。
この歌、長歌については観念的・形式的・非写実的等の誹りもあるようだ。
しかし反歌と長歌で赤人は美の構造を作り上げたと言われる。
広重の五十三次「由井の絵」もここでの景色らしい。
29日 富士の柴山 天の原 富士の柴山 ()(くれ)の 時移りなば 逢はずかもあらむ 東歌 巻14-3355
富士と共に生活する人には、裾野の樹林帯は日々の生活の資を得るものだし、日の暮れに仰ぎ見れば大きな山容、雑木林、恋人と約束した大事な時が過ぎてしまうと、逢えなくなってしまうのではなかろうか。
30日 富士の裾野 富士の嶺の いや遠長き 山路をも 妹がりとへば けによばず来ぬ 東歌 巻14-3356
富士の嶺のいや遠長て山路、「けによばず」の「け」は接頭語そんな長い山路だつても、いとしいお前の所というので、いきもきらずにやつてきたのだよ。