万葉集地域別D
平成18年3月

 1日 みなべ、鹿島 三名部(みなべ)の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣する海人(あま)を 見て帰り来む 作者未詳 巻9-1669
南部
(みなべ)
の浜、梅林の町、潮よ、満ちないで、釣する海人を見て帰るから。露出岩が隆起した浜。
 2日 紀の湯 山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(いまき)のうちは 忘らゆましじ 斉明天皇 斉明紀より
紀温泉、白浜の南も湯崎の先端、崎の湯のこと。愛孫への慕情歌。
 3日 玉の浦 荒磯(ありそ)ゆも まして思へや 玉の浦の 離れ小島の 夢にし見ゆる 作者未詳 巻7-1202
那智勝浦町の粉白の玉の浦の説、岩礁のかなたは熊野灘、紺青の海が広がっていた。岬の荒磯の好風もいいが、離れ小島が夢にまで現れる。
 4日 浜木綿(はまゆう) み熊野の 浦の浜木綿 百重(ももえ)なす 心は()へど (ただ)に逢はぬかも 柿本人麻呂 巻4-496
百重なすは、群落する浜木綿の葉、心はそのようにかくも深く思っていても直に逢えない苦悩。
 5日 佐野三輪崎・新宮 苦しくも 降り来る雨か (みわ)の崎 狭野(さの)の渡りに 家もあらなくに 長奥(ながのおき)麻呂(まろ) 巻3-265
佐野の松原のあった所、雨の多いところである。苦しくも降り来る雨、見渡す限り宿るべく家一つない茫漠たる景観に旅情と苦難を託した。
 6日 名張(なばり)の山・三重県 わが背子は いづく行くらむ (おき)つもの (なばり)の山を 今日か越ゆらむ 当麻(たぎまの)麻呂妻(まろのめ) 巻1-43
伊勢に行く道、隠口の初瀬―宇陀の榛原―高原の名張盆地を経て青山峠が主要道。古語で隠れこもることを
(なばる)るとした。奥つものは、奥の物の枕詞。夫の身の上を思い、今頃どこを歩いているのか、今日あたりは・・。
 7日 いざみの山 吾妹子(わぎもこ)を いざみの山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも 石上(いそのかみ)麻呂(まろ) 巻1-44
三重県と奈良県吉野県境の高見山が「いざみの山」で富士山に似たきれいな山。伊勢の方から国境方面の山を遠望して、わが妻をいざ見ようと、その名の、いざみ、の山が高いから大和が見えない・。
 8日 河口の野 河口の 野辺に (いほ)りて 夜の経れば 妹がたもとし 思ほゆるかも

大伴家持 巻6-1029
聖武天皇が天平
12年、伊勢の河口の行宮。関の宮のこと。重大な時局の最中だが、家持はいとしい人の手枕を思いしのんでいる。

 9日 波多の横山

河の()の ゆつ磐群(いはむら)に 草()さず 常にもがもな (とこ)処女(をとめ)にて

十市(とをちの)皇女(ひめみこ)、伊勢の神宮に参赴(まい)りし時、波多の横山の厳を見て(ふふきの)刀自(とじ)の作る歌
十市皇女は大海人皇子
(天武天皇)と額田王の子、卒然と亡くなられた悲しい境遇の方、永遠でないものを皇女に感じられ、永遠の乙女として河のほとりの神聖な岩の上の群に草が生えないような永遠であって欲しいとの願い。
10日 円方―まとかた

ますらをの 得物(さつ)矢手(やた)ばさみ 立ち向ひ 射る円方は 見るにさやけし

舎人(とねりの)娘子(をとめ) 巻1-61
伊勢の円方の浦、立派な男性が的に向かって矢をはなとうとする時の凛とした颯爽たるる気分をそのまま景にうつして、円方の浦はなんと清くすかずすがしいことか、目がさめるような鮮明な海景を称えた。
11日 伊勢神宮

大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)の御歌に二首 
わが背子を 大和に()ると さ夜更けて 暁露(あかときつゆ)に わが立ち濡れし

二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

2-105.106

大津皇子と大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)は姉弟、伊勢での深夜の会見、姉は伊勢の斎宮、大津皇子は謀反のかどで102424歳に処刑された、姉26才。たた゜ならぬ不安と再会を期しがたい弟への切実な慕情。さ夜更けて暁露の苦しい時間の経過も巨木の陰に見える思い。姉は、弟の処刑後、斎宮を辞し1116日大和に向かっている。
12日 伊勢の海 伊勢の海の 沖つ白波 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ 安貴王(あきのおおきみ) 巻3-306北伊勢の海、安貴王は志貴皇子の孫。穏やかに明るい海、沖の白波が花だつたらいい包んで妻への土産にしよう、素朴純真な心の躍動。安乗岬のあたりであろうか。
13日 鳴呼見の浦 鳴呼見乃浦(あ みのうら)に 船乗りすらむ をとめらが 珠裳(たまも)の裾に 潮満つらむか 柿本人麻呂 巻1-40
鳥羽の英虞湾近く、「あみの浦」、あみの浜らしい。そこの船に乗っているらしい女官を想像し愛を寄せている人の裳裾が今頃、満ち潮でぬれているかもしれないと。
14日 手節(たふし)の崎 (くしろ)()く 手節の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ 柿本人麻呂 巻1-41
伊勢志摩の答志島の黒崎か、釧は婦人の飾りにする手首の環、今日という今日は、きっと大宮人たちは海藻を刈っているだろう。
15日 山城 京都には山城国と丹波国があるが万葉集と直接関係あるのは山城国である。 奈良県に近い方から相楽・綴喜・久世の諸郡、宇治市から京都市南部まで、主として木津川・宇治川の流域の南山城一帯の地である。
16日

恭仁京(くにのみやこ)

今造る 久邇(くに)の都は 山河の (さや)けき見れば うべ知らすらし  大伴家持 巻6-1037
大養徳
(おおやまと)恭仁(くにの)大宮(おおみや)(あと)
は、木津川の恭仁大橋から西北一帯余りの河北の大字例幣(旧瓶原町・現加茂町)にある。遷都が次々とある政情不安な時代、宮殿造営も未完成が、今造る久邇の都である。山河のさやかな景観を見ると、ここに都をお造りになるのは尤もであると新都を称えている。
17日 恭仁京(くにのみやこ) その2 ・・・河近み 瀬の()ぞ清き 山近み 鳥が音響(ねとよ)秋されば 山もとどろに さ男鹿(をしか)は 妻呼び(とよ)め 春されば 岡辺も(しじ)に (いわほ)には 花咲きををり・・
山高く 川の瀬清し 百世(ももよ)まで (かむ)しみ行かむ 大宮所 
田辺福(たなべのさき)麻呂(まろ)の賛歌 
6-1050 

6-1052
18日 恭仁京(くにのみやこ) その3 三香(みか)の原 久邇の京は 荒れにけり 大宮人の 移ろひぬれば

咲く花の 色はかはらず ももしきの 大宮人ぞ 立ち(かは)りける

田辺福麻呂 巻6-10601061

恭仁京は三年で難波に遷都となる。大極殿址の石碑もある。咲く花の色もかわらず、人の世のうつろいを、遠い彼方から見通しているようだ。
19日 鹿背(かせ) 鹿背の山 樹立(こだち)を茂み 朝さらず 来鳴きとよもす 鶯の声 田辺福ま呂 巻6-1057

木津町と加茂町の間にある山が鹿背山。恭仁京の中心、海抜203米。木立ちが茂っているので朝ごとに来て鳴く鶯は今も昔も変わらない。新都を称えている。

20日 (こま) 狛山に 鳴くほととぎす 泉川 渡を遠み ここに通はず 田辺福麻呂 巻6-1058
鹿背山の北に木津川を挟んで対岸にある山が狛山。高麗からの帰化人もいて高麗村の名も、
甕原(みかのはら)離宮もあった。
21日 安積(あさか)皇子(みこ) わが(おほきみ) (あめ)知らさむと 思はねば (おほ)にぞ見ける 和束(わづか)杣山(そまやま) 

あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき わが王かも
大伴家持 巻3-476477
安積皇子の死を悼んだ挽歌。皇子は聖武天皇と夫人、犬養広刀自の子、皇太子になるべきお方。藤原氏の光明皇后の皇子、阿倍内親王の立太子を見た。悲しい運命の人。家持は親密であり、山を見て感慨を新たにしたのであろう。
22日 泉川 泉川 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮処 うつろひ行かめ 

2.宮材引く 泉の
(そま)に 立つ民の やすむ時無く 恋ひ渡るかも 
田辺福麻呂 巻6-1054
木津川は古くは
山背(やましろ)川と言われた。木津・加茂一帯は「水泉郷」で泉の里とも言われた。宮殿造営の木材運搬に利用、木津の名前も由来する。
2.作者未詳 巻
11-2645
23日 (たか)槻群(つきむら)

とく来ても 見てましものを 山背の 高の槻群 散りにけるかも

高市(たけちの)黒人(くろひと) 巻3-277
綴喜郡多河郷の槻群、天王山には式内高神社がある。槻とはケヤキの大木群、早く来て見ればよかった、亭々たる大木の魅力。
24日 宇治川 もののふの 八十(やそ)氏河(うじがわ)の ()代木(じろぎ)に いさよふ浪の 行く方知らずも  柿本人麻呂 巻3-264
余りにも有名な歌、「もののふの八十氏河」の感動的律動、流れ杭などに止まり、吸い込まれて行く水流、千古に変らぬ詩人、人麻呂の遠い
(まなこ)、深い心に触れた思い。
25日 宇治川2 宇治川を 船渡せをと 呼ばへども 聞えざるらし (かじ)()もせず

作者未詳 巻7-1138
僧、道登により架けられた宇治橋、大和・近江の交通の要衝の宇治の渡り。船影もなくただ大河の流れるばかりの心細さ、川霧の立ちこめているのであろう。

26日 石田の社 そらみつ 大和の国 あをによし 奈良山越えて 山代(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡 滝の屋の 阿後尼(あごね)の原を 千歳(ちとせ)に かくる事無く 万歳(よろづよ)に あり(がよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)(もり)の すめ神に 

幣帛(ぬさ)取り向けて われは越え行く 相坂山(あふさかやま)

作者未詳 巻13-3236

いつまでも変らずこの道を通い続けたい。京都市伏見区の石田の杜は、青田のただ中にある「
(あめのん)穂日(ほひの)(みこと)神社、俗称田中の森」と言われる。
27日 天智天皇陵(山科鏡山陵) やすみしし わが大君の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に (よる)はも ()のことごと 

昼はも 日のことごと ()のみを 泣きつつありてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は ()き別れなむ

額田王 巻2-155
舒明天皇と斉明天皇の皇子、中大兄皇子のこと。御陵の奉仕を終わり退出する時の額田王の歌、夜昼なく泣きに泣いた人々もちりぢりに別れねばならぬ時の悲しみの儀礼歌。天皇は多くの犠牲を踏み越えた果てに後顧の憂いの中の他界。
28日 浦島伝説地 春の日の 霞める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出でいて 釣船の とをらふ見れば (いにしえ)の 事ぞ思ほゆる」水江(みずのえ)の 浦島の子が (かつ)魚釣り(をつ) 鯛釣り(ほこ)り 七日まで 家にも()ずて 海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の 神の(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向かひ 相誂(あひあと)らひ こと成りしかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海若の 神の宮の 内の()の 妙なる殿に 携はり 二人入りいて 老いもせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを」
(続く)
高橋虫麻呂 巻9-1740

時に春、所は墨吉の海岸、釣船のゆれているのを見ているうちに昔のことが思われてくる、と現実から「夢」の世界への序曲。「水江の浦島さんは釣れるままに海上を行くうちに偶然に海の神女に逢ってともに手に手をとりあって、不老不死の海神の御殿に至った」を第一段。

29日

世の中の 愚人(おろかひと)の 吾妹子(わぎもこ)に ()りて語らく 須叟(しましく)は  家に帰りて 父母に 事も(かた)らひ 明日の(ごと) われはき()なむと 言ひければ 妹がいへらく 常世(とこよ)()に また帰りきて 今の如 逢はむとなれば この(くしげ) 開くな(ゆめ)と そこらくに 堅めし言を」

ついで、暫くの帰郷を訴える浦島の間と、それならこの櫛笥を決して開けるなと堅い約束の神女の答えが第二段。
30日

墨吉に 帰り来りて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歳(みとせ)(ほと)に 垣も無く 家()せめやと この箱を 開きて見てば もとの如 家はあらむと 玉篋(たまくしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて

常世辺に 棚引きぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反側(こいまろ)び 

さて、帰郷した浦島が家郷の余りの変化に、もしやとタブーを破った瞬間の狂乱を急迫した調子で描いた破局ま第三段。
31日

足ずりしつつ たちまちに (こころ)消失(けう)せぬ 若かりし はだも皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは (いき)さへ絶えて 後遂(のちつい)に 命死にける」水江の 浦島の子が 家地(いへどころ)見ゆ

とうとう死んでしまった浦島さんの家のあった処が、ほらあそこに見える、と再び夢から現実に浮びあがって終曲となる。