松江城ー島根県松江市殿町
いつも思うのだが、松江藩は石高16万8千石、鳥取藩は32万石。出雲は天皇家と並ぶ出雲大社があり史跡は日本史そのもので比較にならぬ歴史的名勝・遺跡があるが、それにしても鳥取と格段に違いを見せる。それはお城だけでなく、県内各市町村の産物のレベルの高さの全国ブランドである。松江藩主、松平不昧侯の治世と鳥取藩主池田氏--最後の将軍徳川慶喜の兄弟という名門城主の在京治世の違いが21世紀の今日まで影響を及ぼしていると思えて仕方が無い。平成15年10月30日

別  称:千鳥城 築城年:慶長12年(1607) 築城者:堀尾吉晴 
形  式:平山城 遺  構:天守、石垣、堀、郭跡、井戸跡 復元櫓・城門
 

堀尾吉晴は慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の軍功により、毛利氏一族の吉川広家に替わって遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城。しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便であったため、堀尾吉晴は宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画し、慶長12年(1607)に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)にほぼ完成した。
城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、周囲に幅20〜30mの内堀をめぐらしていた。本丸には天守と荒神櫓など6つの櫓を配し、二ノ丸・北ノ丸・二ノ丸下ノ段のほか本丸周辺には腰曲輪・中曲輪・外曲輪・後曲輪を設けるなど戦国の乱世を生き抜いた堀尾吉晴らしい要害堅固な城郭であった。
その堀尾氏も寛永11年(1634)三代忠晴が嗣子なく没してお家断絶。替わって若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊川などの治水に努めたが、寛永15年(1638)嗣子なく病死したため京極氏は1代で終わった。同年、越前福井城主結城秀康の三男で徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入封。以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎える。松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在もなお松江の人々に不昧公の名で親しまれている。松江城は明治になって城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で売却されるところだったが、有志の保存運動で救われ、山陰地方で唯一の天守が今に残ることになった。