大神神社ー奈良県桜井市三輪
これを、おおみわ神社、と呼ぶのであるから、この神社がいかなる神社かが自ずから分かろうというものである。1日の月次祭の参拝の群集を見て、ああやはり日本人だ、日本はまだ大丈夫だなと思った次第である。
遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、
自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの
ぬしのかみ)【詳しくは
(やまとのおおものぬしくしみか たまのみこと)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまり。
それ故に、本殿 は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられて
おり、我が国最古の神社。
大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様
として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最
高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれる。
祭神大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)
当神社に祀る神、三輪の神、大物主神について、文献で最初に記述されるのは、
我が国最古の歴史書、『古事記』の上巻にある。
それによれば、大国主神が、自分と協力して、ともに国造りに励んできた少彦名神がなくなられ、
独りしてどうしてこの国を造ればよいか思い悩んでいた時、「海を光(てら)して依り来る神」が
あった。その神が、「我がみ前をよく治めれば協力しよう」と申し出た。これに対し、大国主神は、
「お祭り申し上げる方法はどうしたら良いのでしょうか」と問うたところ、その神は、
「自分を倭(やまと)の青垣、東の山の上に斎きまつれ」と希望した。その後に、
「こは御諸(みもろ)の山の上に坐す神なり」と記されている。
つまり大和の国の周囲を垣のように取り巻いている青山のその東方の山上、三輪山にお祭りした神が、
三輪の神であり、これが大神神社ということであります。続いて、同じ『古事記』中巻の
神武天皇段に至って、三輪の神は「大物主神(おおものぬしのかみ)」であることが記されます。
また『日本書紀』には、同じ内容が書かれ、大国主神の別名である大己貴神(おおなむちのかみ)
が、協力者の少彦名神(すくなひこなのかみ)がなくなられたので、嘆き悲しんでいるところへ、
海を照らしてやって来た神があり、この神は、大己貴神の「幸魂(さきみたま)・奇魂
(くしみたま)」であると言い、「日本国(やまと)の三諸山(みもろやま)に住みたい」と答える。
そして「この神が大三輪の神である」と記している。
続いて『日本書紀』の崇神天皇8年に、大田田根子(おおたたねこ)が三輪君族の始祖であり、
三輪の神が大物主神であることが示されている。