鳥取木鶏研究会 6月例会 レジメ     平成20年6月2

易と人生哲学 その第五

折中(せっちゅう)

易は限りなき造化、つまり生命というものを把握して、その中に含まれておる数、複雑微妙な因果関係を明らかにして、どこまでも進歩向上発展にもっていくということであります。

そこでこの(ちゅう)というのは、相対立するもののまん中を取るというような単純な意味ではなく、勿論それも一つの中には相違ありませんが、本当の中は、もつと動的な、所謂ダイナミックな意味をもっております。

折中という語があります。この折の字には、折るという意味と定めるという意味がありまして、折中の二字は矛盾、対立、闘争する双方を処理して、総合統一して限りなく進歩向上させる、これが本当の折中の意味であります。 

中論(ちゅうろん)

論理学でいう、正・反・合・正があって反があり、それを合わせ進めるので合と言います。テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼというのは、論理学の三段論法と言われ、みなこれ中論であります。 

仏教も理論的には中論、儒教は中庸でありますから、東洋の儒教、仏教、老荘、道教はみな中論であり、中道、中庸であるということができます。 

命、数の思想学問

だから、この中というのは、あらゆる思想学問の極めて根本的な思想であり概念であります。普通は極めて簡単に解釈しておりますが、中というものは、そういう非常に深い思想であり概念であるということを理解しませんと間違いを生じます。

 

そこで易は最も典型的な命、数の思想学問であると同時に、中説、中論、中の学問と言われる所以であります。

 

心中(しんぢゅう)

嘗て中国の学者が日本に来て、かわいい少年達が中学に行っておると聞いて「はあ、日本は大した国だ、あんな小さな子供に中の道を教え学ばせている」と云って感心したという話がありますが、小学校、中学校、大学校の中学校であることを知らぬものでありますから、外国の老学者らしく感心したという笑えぬ笑話であります。 

これも明治時代の笑話でありますが、ある中国の学者が男女の情死を心中と書いてあるのを見て非常に感激した。「日本人は、実にすぐれた儒教を体得しておる。この世で添われぬ恋仲の男女が、死んであの世で一緒になるし信じて共に死ぬことを「心中」と言う、良い言葉だ」と感心したという。

これは面白い話であります。情死などと消極的ですが、心中と書いてやれば、これは学問的にも非常に意義ある言葉になるので、もって瞑すべしであるというのもおもしろい。 

相生(そうせい)相剋(そうこく)

陰陽(いんよう)五行(ごぎょう)説に相生・相剋ということがあります。陰陽五行と言いますのは、前回も申しましたように、易の本質的なテクニカル・タームその専門用語でありますが、この思想は、(いん)の時代から始まっておりまして、最も発達したのは周時代、特に始皇帝(しこうてい)などの出ます(しん)の少し前、戦国時代に大体この陰陽五行思想が出来上がりました。 

これは皆さんご承知の通り、「(もく)()()(きん)(すい)」という五行、つまり五種の働き、作用、活動であります。天地、人間を通ずる創造、進化、造化の働きを五つの根本概念に分類したものであります。 

.(もく)()()(きん)(すい)

元来、中国人は抽象的理論にとどめることを好みませんで、常に具体化する象徴、シンボライズというものを愛する民族性があります。哲学的に言いますと、シンボリスト、象徴主義者であります。

それで造化(ぞうか)の働きについても五行(ごぎょう)と言いまして、(もく)()()(きん)(すい)という五つの象徴を用いるのであります。 

五行(ごぎょう)

(もく)()()(きん)(すい)と言いましても、何も木とか、火とか、土とか、金とか、水というもの、そのものを天地、人生を通ずる造化の実体としたというのではありません。 

それに象徴される「力、実体、造化の作用」を意味するもので、千変万化する天地、人間を通ずる創造、進化の営み、働きを木・火・土・金・水というシンボルを借りて把握し解説したものであります。 

だから、これに囚われてはなりません。従って間違えると非常に滑稽なことになります。 

俗の思想

「あの人は火性の人だから人を焼き滅ぼす」などというのは迷信でありまして、丙午(ひのえうま)と同様で「丙午の女をもらったら焼かれて殺される」と同じ考え方であります。 

兎角この世の中には俗の解釈、俗の思想がありまして、これには誤り多く時には危険を伴う。易という非常に優れた思想、学問が通俗化するとともに、おかしい程誤解、曲解されておることが数知れずあります。 

正しい易学へ

世俗に普及しておりますだけに、これを正しく解説して、そして世にいわゆる易者から正しい易学に進ませることが極めて大事なことであります。 

易の六十四卦、易経の中へ入りますと、殊に経文の解釈など世間の易者がやっておりますのは、本当の学問をした者から申しますと苦笑いするようなことが随分多くあります。 

大道易者

大分前のことでありますが、私がある夜所用をすませて上野を通りましたら、一人の易者が客がなくて淋しそうにしておりました。好い人相でありますので、一寸立ち寄って「見てもらおうか」と言いましたら、私の手相を見まして、易の本を出し「あなたの手にはこれがある」と云って解説してくれました。

 

処が学問上からすると、とんでもない間違ったことを言っておる。そこで「それはこうではないのか」と反問しますと、吃驚して「お客さんは易を知ってますね」と言う。

「いささか学んでおる」というと「勘弁して下さい」と苦笑するので人も立ち止まるし、それ以上話さずに別れましたが、随分多くの人々が大道易などで自分の運命を判断したり、色々な問題を思案に余って解釈するのに利用したりするのは危ないことであります。然し稀には大道易者の中にも中々優れた人もおります。 

相生(そうせい)関係

話が少し横道にそれましたが、相生(そうせい)相剋(そうこく)について、例えば「木」というもの、人間が恐らく原始人、創世記の頃、木や草が生い茂って一番認識の対象になったものに相違ありません。 

それから火をつくること、火を用いることを覚えました。だから古代からの人間生活をたどってきますと分かるのですが、木の次に最も創造的、根元的なものは「火」であります。 

その木、火を存立させるものが「土」であり、その土の中に色んな鉱物を発見しました。 

これが「金」であります。また、土や山から出てくるものが「水」であり、これが木を養う。

そこで木から火を出し、「(もく)()()(きん)(すい)」を五行というわけであります。

つまり生命活動、自然力活動の五つの根源的シンボルであります。これを「相生関係」と言います。そしてその相生関係を、「木生(もくせい)()」、「火生土(かせいど)」、「土生(どせい)(きん)」、「(きん)生水(せいすい)」、「(すい)生木(せいもく)」とします。 

相剋(そうこく)関係

相剋関係に対してまして、木は土から養分を吸って育ちますから、これを(こく)すると言います。木は土を剋す―「木剋土(もくこくど)」、

土は水を剋す―「土剋(どこく)(すい)」、水は火を消す―「水剋(すいこく)()」、

火は金を焼く―「火剋(かこく)(きん)」、金はこれで木を切ったりしますから―「金剋(きんこく)(もく)」、以上が相剋であります。 

これらが易の中に入ってきますと根元的に活用されますので、この「相生」、「相剋」関係を知らなければなりません。またこういう造化の関係、作用を極めてシンボリカルに根本範疇として発達させたのが「十干、十二支」であります。

 

十干(じっかん)十二支(じゅうにし)

十干(じっかん)というのは、干という字が表すように根、根幹であります。それから十二支(じゅうにし)と言いますのは、枝、葉であります。 

根幹から生ずる枝葉、あるいは花、果実でもあります。これを十干、十二支と申します。

十干と言うのは申すまでもなく、皆さんよくご承知の、(こう)(おつ)(へい)(てい)()()(こう)(しん)(じん)()、という十種類。あらゆる暦に出ております。十二支は、()(うし)(とら)()(たつ)()(うま)(ひつじ)(さる)(とり)(いぬ)()、と言う。此れ亦誰知らぬ者もない、最も民間に普及した概念であります。 

真の意義

この十干、十二支を組み合わせますと六十になりますから、これで人間の存在、生活、それから生ずる諸般の問題を六十の範疇に分類総合して解説します。これの本当の意味というものが案外知られておりません。 

最も古い歴史を持つものでありながら、そして最も民衆に普及したものでありながら、非常に正解が少ない。これもよく普及したが故に次第に通俗化して堕してしまって本来の意義を失うようになりました。然し、この十干、十二支の本当の意味をまず知っておかなければ易に入ることが出来ません。 

陽と理知 

陰陽相対性の理法、これは前回解説致しました通り、草木を例にとって見ると一番分かり易いのであります。これを人間で申しますと、男は陽の代表であり、女は陰の代表であります。 

また我々の精神作用で申しますと「理知」と言うのは、これは陽の代表であります。だから理知、理というものを「ことわり」と言います。物を分類することでありますが、「ことわり」と言います。 

従って理知というものは「ものわかり」であります。これは非常に本質をよく表したものでありまして、我々の理知というものは、物を分ける働きであります。子供が少し大きくなると、目、耳、鼻、口、という風に顔全体を分ける。それから次第に抽象論、抽象的理法というものを覚えます。 

だから理知によって物が分かり、はっきりする。その代わり、物分りというものは余り、理知的、理論的になりますと、分かれ分かれて分からなくなる。「あれは物分りのいい奴だ」という理知主義者は、終いには「分からず屋」と言われるように分からなくなります。 

かって師友協会の講座で、理知だの感情だのという我々の意識、精神の解説をした時に大面白い実例を紹介して皆んなが大笑いしたことがあります。 

これは明治初年にアメリカから伝わってきたものであります。ペンシルベニアにインテリの一紳士がおりまして、それが細君を亡くして父と親子二人で住んでおりました。

不自由だろうと仲立ちする者があって後妻をもらいました。その後妻が一人の娘を連れ子して参りました、紳士は大変心の優しい、よく気のつく人で後妻母子と自分の父との間がうまく行くかどうかを大変心配しながら結婚した。どこの国も人情は同じであります。処がその後妻の娘と父との間がうまくいって、後妻の連れ子をしてきた娘を父が後妻になおしました。 

そこで息子が悩みだした。何となれば、我が父は、我が娘の配偶であるから我が子である。我が娘は我が父の妻であるから我が母である。そうすると、我が妻は我が娘の母であるから我が祖母である。 

我が父は我が子であるから、父の子である我は我が孫である。我が父は我が子にして、我が娘は我が母なり、我が妻は我が祖母にして我は我が孫なりということで、解らなくなって自殺しました。 

これは本当にあった事だから面白い。余程、哲学か、論理学等をやって頭が変なことになったのでしょう。成る程、A、B、Cというふうに抽象的に分ければそうなるわけですが、現実はそうではありません。 

抽象と具体とを混同した、つまり論理、概念の遊戯でありますが、神経衰弱等になるとそのようになるのでしょうが、これは現実にあった話であるから尚更面白い。 

                      徳永圀典