元善光寺 飯田市座光寺

推古天皇十年に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿が難波の堀から一光三尊の御本尊様をおむかえしたのが元善光寺の起元で、その後皇極天皇元年にその御本尊様は現在の長野市へ遷座され、できたお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名付けられました。それから飯田の方の当山は勅命によって、木彫りで同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりましたが、仏勅によって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰りきて衆生を化益せん」というご誓願を残されたとのことで、長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣りと昔から云われる。
推古天皇の頃、信濃の国麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光公が難波の堀江にてめぐり会った仏様をつれて帰り、どんな所へお祀りすれば良いのか考えましたが、臼より清らかなものはないだろうと、西の部屋の床の間に臼を置いて、その上に仏様を祀って四十一年の間親子三人で朝夕礼拝供養を致しておりました。如来様の御利益は広く世間にも知られるようになり、善光公は、村中の人たちと相談して粗末ながら小さなお堂を建て、如来様をお移しした。
そして朝になってお堂へ行って見ると如来様の姿が消えていて、驚いてさがすと、元の臼の上に戻っておられた。又お堂を清めてそこにお移しすると、又帰ってしまわれるという事が三度続いた。そして如来様が善光公におっしゃった事は、たとえ金銀財宝で飾った立派なお堂に安置されても私の名を唱える物がいない所には住めない。私はいつも西にいる。善光公はそれを聞いて感激し、仏様を西の間の臼の上に安置して四十一年の長い間供養した。
皇極天皇の頃、芋井の里(現在の長野市)に移せとの如来様のお告げを受けた善光公は、自身で仏様を移し、勅命によって立派なお堂を建てて、自分の名をもって善光寺と名づけた。そして座光寺に残された臼から、光明がさして光り輝いていたのでこれを仏様の台座が光ったのだから即ち「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺の宝物殿に今も残っております。
ちなみに地名の座光寺というのは、この「座光の臼」から出たという説もあります。小学校の国語の教科書に「光る臼」という題で、このお話がのせられていた。



我々は長谷村からの帰途、中央道に出る途中、この寺に立ち寄った。正式には座光寺という。長野市の善光寺にご本尊様が遷座されたので元善光寺というとある。1400年前、善光卿がご本尊を難波の池より迎えてお祀りする時、臼の上に安置して供養すること41年、臼から光明が輝いていたので、之を座光の臼と言い霊宝となっている。

この寺の裏に、古い小学校が昔のまま残されていた。そして、その前に、枝垂桜の大古木が大きく葉を繁らせていた。薄墨桜で著名なあの岐阜の古木の子供という。友は何でも良く知っており感心した。暑いのアイスクリームを食べた。

アクセス
JR飯田線元善光寺駅から7分、中央道飯田及び松川インターより車で18分、飯田市街地より12分。国道153号より200m。無料駐車場あり。特急バス、名古屋名鉄バスセンターより2時間30分。特急
バス、新宿西口より約4時間。