青岸渡寺熊野那智大社那智の大滝ー和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

那智の滝

青岸渡寺の本尊様は「如意輪観音」様であった。二の滝と無関係ではないかもしれない。如意輪法を体得する為に大峰奥駆修行したとあるから滝と関係が大いにある。西国第一番札所である。推古天皇の593年からの寺伝とある古刹である。
「補陀洛(ふだらく)や岸打つ波は三熊野(みくまの)の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の札所。当山の縁起に開基は仁徳帝の頃(4世紀)。印度天竺の僧、裸行(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積みその暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初。
その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した24cmの観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立された。
平安朝中期から鎌倉時代には、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番札所となる。
現在の本堂は織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ南紀唯一の古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さとおなじであるといわれている。青岸渡寺尊勝院は、中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっている。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、南北朝時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘がある。
熊野那智大社、神仏合体修験場である。既に来年の大絵馬が飾られていた。

熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山と呼ばれ、古来より多くの人々の信仰を集めた熊野那智大社は、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、今なお多くの参詣者が訪れてる。473段の石段を登り、標高約500mに位置する社殿は6棟からなり夫須美神(ふすみのかみ)を御主神としてそれぞれに神様をおまつりしてある。夫須美神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)ともいい万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、また縁結びの神様として崇められている。
現在の位置に社殿が創建されたのは仁徳天皇の御世(317年)で、その後、平重盛が造営奉行となって装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興し、徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われている。本殿は国の重要文化財に指定。境内には、神武天皇東征の道案内をした八咫烏が石に姿を変えたという烏石の他、白河上皇お手植えの枝垂れ桜や平重盛が植えたという樟の木(樹齢約850年)が大きく茂っている。

那智の大滝、高さ133米の滝は流石に圧倒される。久し振りの拝観だけに素晴らしい滝だと痛感した。
那智山の奥山、大雲取山から流れ出る本流に、いくつもの流れが重なり合い、ついには原生林を切り裂くように落下しているのが「那智の大滝」。水柱は直下133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mの日本一の名瀑で、銚子口の岩盤に三つの切れ目があって、三筋になって落下し始めるところから、「三筋の滝」ともよばれています。その上には注連縄が張られているのを仰ぎ見ることができるが、神社(飛瀧神社)の御神体としてこの滝を崇め、毎年7月9日と12月27日の2回、古来からの神事にのっとり「御滝注連縄張替行事」が行われる。かつて、諸国からこの滝に詣でる人々は写経を経筒に入れてお滝入口の大鳥居をくぐってすぐ左側の「那智経塚」にそれらを納めた。また、皇室の方々がお参りになると参道に記念の塔婆を建てられ、亀山上皇が弘安4年に参詣された折のものがいまも宝物殿に納められており、それを模したものを、当時の面影のまま参道に建ててある。入口より御滝本までは昔のままの石畳み道が続き「鎌倉積石階段」と言う。滝の右手には南方熊楠が粘菌の採取を行った那智山原始林(国天然記念物)が広がり大滝を始め48の滝があり、二の滝や三の滝・文覚の滝や陰陽の滝などが知られています。特に陰陽の滝は熊野曼荼羅の郷河川公園から手軽に散策ができる格好のハイキングコース。※ 二の滝・三の滝を見学される場合は事前に那智大社へ連絡が必要。

二の滝

二の滝
 

 

 
 
 
 
 

 

三の滝

三の滝