日本、あれやこれや I 日本の原理5. 遷宮とお伊勢参り
平成17年2月
1日 | お伊勢参り1 |
遷宮が20年毎に千数百年間行われ、日本の伝統文化の維持に極めて高い貢献をしている。日本人の心の古里でもある伊勢神宮である。 |
その大祭の度に、伊勢へ、伊勢へと押し寄せている民。平安中期の承平4年、934年9月、神嘗祭の日に「参宮人十万、貴賎を論ぜず」とある。 |
2日 | お伊勢参り2 |
鎌倉時代、宝治元年1247年、内宮式年遷宮や弘安十年1287年の外宮式年遷宮などには |
「遠方万邦の参宮人、幾千万を知らず」と記されている。 |
3日 |
お伊勢参り3. |
江戸時代、ヤソ会宣教師ルイス・フロイスは天正13年1585年の手紙にこう記している。「日本諸国から巡礼として天照大神の |
もとに集まる者の多いことは信じられない程でー中略―男も女も競って参宮する風習がある。伊勢に行かない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである」 |
4日 |
「おかげまいり」1. |
参宮の桁違いに大規模な集団参宮があったが、全国各地から |
伊勢へ、伊勢へと。それを「おかげまいり」という。 |
5日 |
「おかげまいり」2. |
「おかげ年」は江戸時代に4回、慶応の「ええじゃないか」を加えると5回である。 |
明治にも1回記録がある。大体60年周期に起きている。殆ど式年遷宮の翌年か翌々年である。 |
6日 |
「おかげまいり」3. |
すべて式年遷宮と関係があり、そういう時期に参宮すれば、平生にも増して、 |
大神さまの「おかげ」を頂くことが出来ると信じられて、なんとしても新しくなる神宮を拝みたいと爆発的な盛り上がりとなったのであろう。 |
7日 |
参宮人数1 |
宝永2年、1705年には、僅か50日間に三百数十万人 |
文政13年、1830年は5月間で五百万人であった。老若男女が伊勢へ伊勢へと押し寄せたのである。 |
8日 |
参宮人数2 |
ちなみに、昭和28年の遷宮は650万人の国民から7億円の浄財、 |
昭和48年の遷宮には、800万人の国民から30数億円が寄せられた。 |
9日 |
日本文化の原型 |
原型のまま新しく造り替え直された神殿の前に立てば「これが真の日本文化だ」と気付かぬ人はあるまい。神域にみなぎる清浄さに祈りを込めればいつの間にか色あせて汚れた人の心はおのずと清められるに違いない。 |
その清らかな心を取り戻した時、我々は、かけがえのない伝統に感謝する心に満たされるのである。 |
10日 |
二十年の意味1. |
神宮の殿舎が「掘立式高床倉」と「木造萱葺」の素材で出来ている。 |
宮大工が、神明造りの原型を繰り返し再現するには、20代で下働き、40代で中堅、60代で棟梁、夫々造営体験を積み重ねて行く必要がある技術伝承である。これが20年の意味であろう。 |
11日 |
二十年の意味2. |
当時の暦法と関係もあった。20年に一度は旧暦元旦が立春と重なった。「朔旦冬至」は十一月一日と冬至の重なる事であるが20年に一度ある。 |
要するに満19年が満数であり、20年目は一切が始めに戻り新しくなるという原点回帰の思想ではないかといわれる。 |
12日 |
生命のよみがえり |
既に1300年近く前の持統天皇2年に立制され続いている遷宮、原型と寸分違わぬ、大いなる繰り返しである。 |
そして、可能な限りの清浄が求められる。 |
13日 |
生命のよみがえり |
朝夕の大御饌祭−おおみけさいーには必ず新鮮な食物、土器も一回ごとに新品である。 |
年に一度とれる新穀を、真っ先に神様に召し上がって頂く神嘗祭も神宮のみで毎年繰り返されている。 |
14日 |
生命のよみがえり |
遷宮には、大いなる徹底した、祓えへの意がこもっている。祓えは本来の清浄に復帰すると同時に、新しい生の出発、いのちの甦りの期待である。 |
一切を新しくすることで、根源の清浄を取り戻し、そこに生命の再生を祈念する。清々しい清浄な境地には活気ある生命がみなぎっている。 |
15日 |
純日本的な伊勢の営為 |
それは伝統文化の直接的継承を可能にする営為である。 |
20年ごとの造営事業により、職人の技術、神職の祭儀も人から人へと確実に受け継がれてゆく。根底には、神を仰ぐ深い慎みと喜びが込められている。 |
16日 |
宮大工の矜持 |
新築の家に棟梁は必ず、棟木に自分の名前を刻み後世に残す。 |
神宮の殿舎を立てる宮大工は、どこにも名前を刻さない。いかなる場所も手抜きをしない、絶対誤魔化さない仕事で挑む。神様だけに褒められたいと言う。 |
17日 |
宮職人 |
800種、2500点の御装束・神宝類を調製した2千数百人の職人も同様、中には平櫛田中翁の彫馬、唐組の平緒作りの深見重助など人間国宝クラスの超一流が、無名の奉仕人として満足して参加 |
し精魂込める。この心意気が連綿と日本にはこうして受け継がれてきた、地元も全国の奉賛者も、協力して、ともすれば失いがちな、何物かを取り戻して清々しい思いを持つのではないか。 |
18日 |
真新しい正殿 |
人を威圧するような重苦しさがない。人を驚嘆させるようなケバケバしさがない。 |
ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅心 うたた童にかへるかな 吉川英治 |
19日 |
真の日本文化 |
これが純日本的な伝統文化だと確信を以て言えるのは、辛うじて伊勢神宮である。確かに神殿、神宝、目の当たりにして感動しない人はあるまい。 |
あの明るさ、清らかさ、清々しい森厳なる森、簡素美そのものの姿こそ日本である。 |
20日 |
伝統 |
どんな立派な伝統でも、放っておけば、次第に衰え亡びてしまう。人々の努力次第で、永遠の生命を保ち続けられる。 |
あきらけく のちの仏の御代までも 光つたへよ 法のともしび ー最澄、比叡山根本中堂の1100年の灯、空海の霊廟の消えずの灯、900年と同様である。 |
21日 |
日本の伝統精神 |
どんなに世評の高い名工も、神様に対しては「無名の奉仕人」にすぎない。それで誰も満足し、それ故にこそ作品に精魂を込める。 |
このような超合理の心意気は、論文や口述では伝わらない。唯一体験を通してのみ人から人へと受け継がれる。これが日本の伝統精神であり工業技術にも影響している。 |
22日 |
心のふるさと |
千数百年間、お伊勢さんで親しまれた伊勢神宮は、朝な夕なの祭典で純粋に民族の信仰を守り伝えてきている。世界でも稀な聖地と言われる。 |
20年に一度の遷宮は、日本独自の手製文化を高度に磨き上げ、生命の再生を祈り続けている。まさに神宮こそ日本人の心のふるさとである。 |
23日 | 内宮鎮座の実年代考1. |
日本書紀「一の云はく、天皇、倭姫命を御杖として、天照大神に貢奉−たてまつーりたまふ。是を以て、倭姫命、天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠る。而して後に、神の誨−おしえーの随−まにまーに、丁巳の年の冬 |
十月の甲子を取りて、伊勢国の渡遇宮―わたらいのみやーに遷しまつる。 |
24日 |
内宮鎮座の実年代考2. |
書紀は倭姫命が大和を出発されたのが垂仁天皇25年、原注の「丁己年冬十月甲子」という干支は所伝は根拠があると言う。 |
十月甲子を皇大神宮の秋の大祭、神嘗祭と考えると、伊勢の伝承が中央に持ち込まれたとされる。 |
25日 |
内宮鎮座の実年代考3. |
「丁己年」を古伝として、第十代崇神天皇朝を三世紀後半、第十二代景行天皇朝を四世紀前半と推定。 |
中間の第十一代垂仁天皇は三世紀から四世紀初めとなる。前後の干支から、西暦297年が丁己年にあたる。 |
26日 |
外宮鎮座の伝承1. |
伊勢神宮の外宮は、雄略天皇朝に鎮座されたと伝えられる。記紀にはないが、平安初頭―延暦23年、804年―外宮から朝廷に提出された。 |
夢に誨―おしえーへ覚し賜はく「吾は高天原に坐−ましーまして見し求―まーぎ賜し処に鎮り坐ぬ。然も吾れ一所に坐ば、甚−いとー苦し。加以―しかのみならずー、大御饌―おおみけーも安く聞食―きこしめさーず坐ますが故に、丹波国の比治の真奈井に坐ます我が御饌津神―みけつかみー等由気大神−とゆけのおほかみーを我が許に欲−もがー、と誨へ覚し奉りき。 |
27日 |
外宮鎮座の伝承2. |
その時、天皇驚悟し賜ひて、即ち丹波国より幸行―いでまさーしめて、度会―わたらいーの山田原の下石根に、宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、宮定め斎−いつーき仕へ奉り始めき。 |
これによれば、大長谷天皇(雄略天皇)は天照大神の夢の教えに従い「御饌津神=等由気大神」を丹波の比治から伊勢の山田に遷され、立派な神殿を造って祀られたという。 |
28日 |
伊勢鎮座 |
豊受大神の伊勢鎮座は五世紀後半と見られる。 |
丹波と伊勢の関係が深く窺われる。豊受大神は産業神、豊受の「ケ」は御饌−みけー、つまり食物の意味、食物神である。 |