日本、あれやこれや N

平成17年7月

 1日 極端から極端へ1. 平安時代に無比なる女性文化を創った日本、その後約700年間は反対に、徹底した男性的な時代、つまり武士の時代に入った それは誠に男性度の高い文化である、切腹の習慣一つからも知られる。
 2日 極端から極端へ2.

極端に右に振れた振り子は必ず左に揺れ戻るものである。

日本は、現在までに男性的文化も女性的文化も、その両極端を経験した。どんな時代になっても、日本史の中にその原理となるようにものを見つけられ歴史のヒントが得られる国である。
 .3日 日本三筆

空海、橘逸勢−たちばなのはやなり

そして、嵯峨天皇。
 4日 武士のメンタリティ

オトシマエをつける
八幡太郎義家、前九年・後三年の役の苦戦を十数年やり奥州を平定。彼は関東の武士と生死を共にした。

称徳2年、1098年、晴れて武士として初めて宮殿の昇殿を許された。

 5日 義家が宮中に初めて出仕していた時、地方にいた家来の一人が酷い目に合わされたという知らせが来た。すると義家はすぐさま宮中から飛び出しその家来の仕返しをしてやった。 正に義家は立派なオトシマエをつけた。この情の厚さが源氏の連帯感であり親分の為に命を投げ出す連中が輩出する。
 6日 シマを守る

縄張りが顔と同様に重要である。タテマエとして出羽などの国は朝廷の支配下にあるが実質的命令は届かない。地方の縄張りは武士が地を流して拡大した。

これが一所懸命の語源という。武士は殿様から預かった領土を守れなくては成り立たない。
 7日 切腹

武士はカッコよさの為に命を投げ出す。切腹という特異な自殺法まで出てきた。

平家が滅びる時に切腹したという話は聞かないから、切腹はやはり源氏から出でいる。
 8日 切腹2.

文献的に切腹の様子がよく書いてあるのは、義経の家来の佐藤忠信以来であるという。

切腹は即死ではなく多大な苦痛を伴う。然し、それをやって見せる絶大な気力と体力の「カッコよさ」に敵も味方も感嘆してしまうのである。だから切腹すれば負けても恥とならない。
 9日 切腹3

恥にならぬ切腹で大威張りで先祖のところに行けるのである。

極端な自己顕示であり、戦時中の特攻隊になった日本の青年にも通ずるものがある。
10日 平家の滅び方

藤原政権に替わったのは武士の平家、然し完全に武力で天下を支配し経済的にも全国の荘園の大部分を押さえた平家の理念が藤原氏の如くになることであった。平安文化の高さは武士も憧憬していた。

だから清盛は自ら太政大臣となり娘を皇后にした、つまり孫を天皇にした。藤原不比等のやり方そのままである。平家一族が公家となり平安貴族化した。
11日

平家の公家化、貴族化は男性原理の武家が自らの原理を放棄することである。

武士の原理である男性原理を失わないでいた頼朝という天才が兵を起こし平家が一気に滅亡させられたのである。
12日 源頼朝

将器として幼少から一目おかれていた。自らは余り動かないで平家を滅ぼし、南は西南諸島から北は奥羽の端に至るまで完全に掌握した最初の日本人である

そして政治の実権を宮廷から取り上げ幕府を作った革命者とも言える。然しこの革命政府ほど珍妙なものは世界に類がない。
13日 源頼朝

完全に新政府を作っているのに、古い律令を変える気がない。征夷大将軍とは偉そうな名前だが、東方地方派遣軍司令官である。宮廷の重要会議に出ることも出来ない低い官職である。

功績のあった部下、千葉常胤のような家来が朝廷式の書付など有難がらない。頼朝自身の花押―かおうーのついたものを好む。朝廷はタテマエとして立てていたに過ぎない。
14日

政治の中心は鎌倉である。政治の命令が天皇の名でなく、頼朝の責任に於いてなされる、天皇制の実質上の変化である。外国人には分からない。

頼朝は朝廷を無くす力はあった、敬して遠ざけるような態度を取った為に、その後数百年、戦国時代のような乱れた時代でも朝廷を廃止しようというような武士は出てこなかった。
15日

公文式に公文書を出すのは右大臣か大将以上でないと出来ないので、便宜上頼朝以降の信長も右大臣になることが武士の野心となった。

秀吉だけは平家のパターンをとり太政大臣になった。
16日

では、なぜ頼朝が本当に名実共に日本の頭にならなかったのか、それは祖先崇拝のためである。

南朝の忠臣、北畠親房は「頼朝や北条泰時のような 人がなかったならば、日本の人民はどうなったであろう、と頼朝を高く評価している。
17日

少なくとも頼朝の為に、武力で天下を取った者も、皇位には手をださなかった。

この意味で頼朝は日本の皇室の永続性に一つの貢献をしているのである。幕府は皇室の権威を落すようでありながら安定性を増すという逆説的な効果があった。
18日 承久の変

多能であった後鳥羽上皇は鎌倉に幕府があるのが気に食わない。頼りない北面の武士や西国の武士の話に乗り軽々しくも鎌倉征討を計画された。

関東の武士には頼朝の恩威が染み渡っていた、一人として幕府に背く者はなく官軍は完敗し、御鳥羽、土御門、順徳の三上皇は島流しとなる。
19日 武士の宗教観

貞永式目によると、当時の武家の信仰が分かる。その第一条件は、カミをよく拝んで、神社をよく修理せよと命じている。第二条では、ホトケをよく拝んで寺院をよく修理せよと、命じてもいる。

そしてわざわざ、「寺社異なれりと雖も、崇敬は是れ同じ」とある。宗教、宗派の違いはどうでもいいのである。
20日 立憲君主制

13世紀初頭、マグナカルター大憲章―により始ったと英国は自慢する。然し、その後、英国では何度も王朝は変り、死刑になった国王―チャールズ1世、独裁的な国王、ヘンリー8世なども出ている。

日本では、主権在民の原則を立てた泰時も、天皇を死刑にしていないし、日本の王朝もその後一度も変らなかった。
21日 武士の宗教観

貞永式目によると、当時の武家の信仰が分かる。その第一条件は、カミをよく拝んで、神社をよく修理せよと命じている。第二条では、ホトケをよく拝んで寺院をよく修理せよと、命じてもいる。

そしてわざわざ、「寺社異なれりと雖も、崇敬は是れ同じ」とある。宗教、宗派の違いはどうでもいいのである。
22日 起請文

貞永式目の終わりには起請文、誓いの言葉がある。「梵天帝釈四大天王、総じて日本国中六十余州の大小神祇、殊に伊豆箱根両所権現三島大明神八幡大菩薩天満大自在天神部類眷属・神罰冥罰各罷り被るべきものなり。依て起請如件―くだんのごとしー

外国・日本・本地垂迹説の神が全部入っている。欧米人は精神異常と見る代物であろう。然し、泰時くらい常識円満、思慮分別あり、果断、誠実な日本人は少ないのである。

泰時は理想的日本人である。
23日 女の道

源氏物語の箒木の巻、雨夜の品定めがある。ある雨の夜に、光源氏や頭中将たちが集まり、女性の品評をやる。女性を、下品、中品、上品の三に分類して楽しんだ。紫式部の自分の女性観である。

そして理想的な女性というのは、「ただひとへに、物まめやかに、静かなる心の趣」の人だという。心がねじけておらず、自然でひたすら実意があり、心のおだやかな優しい人が良いという結論らしい、貞操が少しも問題にならないのが面白い。道徳の臭みが皆無である。
24日 女の道

北条政子は「女の道」を色々な場合に範例として示したという。彼女の頼朝に対する貞節は大変なものであり、夫を大切にし、家を大切にする点で、つい最近までの日本婦人の生き方を決定してきたと言う。

平安朝時代には宮廷のみならず一般家庭でもそれなりに乱れていた。武家の正妻となる者は先ず貞操を完うすることが第一義となり厳粛となってきた。
25日 日本の母

つい最近までの日本の母親のイメージは北条政子の系統。貞潔・倹約で女の道をよく守ると共に、夫や男の子たちが男らしく振舞うのを期待するあれである。母親が息子と口論するなど先ず無かった。

大学出の才女の母親が息子に対する押さえが効かない現代、それは母親が親としてでなく才女として息子に向かって理屈を言うからである。
26日 武士と和歌1

平家全盛の頃、源氏で朝廷に仕えていたのは源頼政だけ、老年でも四位だけであった。「登るべき道むしなければ木の下にしいを拾いて世をわたるかな」と詠んだ。

さすがに清盛も憐れに思い三位にしてくれたという。頼政のことを源三位―げんさんみーという。和歌の徳により出世した最初の人。
27日 武士と和歌2

頼朝、奥州征伐で白河の関を越えた、能因法師の歌はどうだと諸将に声をかけた。「都をば霞と共にいでしかど秋風ぞ吹く白河の関」である。

梶原景季が
「秋風に草木の露を払わせて君が越ゆれば関守もなし」と詠い、即座に五百町歩の土地を与えた。文武両道が武士の理想として根づいて行く。
28日 武士と和歌3

足利義満が伏見の桜見、生憎と雨が降る、雨乞いの歌でも作らないかというと大内義弘が詠じた。

雨しばし雲に休らへ小幡山 伏見の花を見て帰る程」
雨がちょうど止み、大いに喜んだ義満は恩賞は望み次第と云った。
29日 武士と和歌4

細川幽斉の田辺城は石田三成により包囲されていた。幽斉は古今伝授を受け継いだ唯一人の人であり殺されると断絶するので御陽成天皇は心配されて勅命で包囲をとかせてもらったという。

これは家康にとり第二の頼朝たらんとしていた、頼朝の和歌のことは承知していた。細川は家康に優遇されて行くのである。和歌の徳である。優美な感性ある日本の武士。
30日 武士と禅宗

禅宗が宗派として成立したのは鎌倉から。自信に満ちた颯爽たる態度の禅僧―兀菴和尚―ごったんおしょうーに電撃的ショックを受けた。護摩を焚きひたすらご加護とご利益を哀願する当時の日本人和尚と異なるものを発見し北条時頼、以降深く帰依した。

晩年の時頼は禅宗の高僧のような生活、謡曲「鉢木」の最明寺入道は彼だと伝説が出来るくらいとなる。

時頼の臨終の堂々としたのは無学祖元の影響と言われる。
31日 北条時宗

元寇の時、まだ20代、鎌倉武士たちは時宗を見て大きな山を仰いだように見たという。

頼山陽も「日本楽府」の中で「相模太郎―時宗―は肝ーたんーーかめーの如し」と表現している。