日本を哲学する

        --国に徳あり--

日本の神様は大自然の原理そのまま

    --人間とは間違える存在である--

 

はじめに

近年、外国人が大変多く来日するようになり、クールジャパン、凄いぞ日本と言われています。しかし、私は何を今さらと思うのです。

結論から先に申しますが、それは日本文化が勝れて魅力的だからです。知れば知る程日本文化は奥が深く魅力的で、生活人である日本人一人ひとりの二千年間の工夫と努力の集積が表現され、日本人の英知の蓄積が随処に見られます。そこにこそ、人間として世界の人々からの共感が得られつつあると言っていいでしょう。

その日本文化の深奥に位置するのが神道だ、と世界的歴史学者トインビーは喝破しています。神道はまた、韓国のあの金完燮(きんわんそぷ)氏も「日本の神道は人類が作り出した最も理想的な形の宗教だ」と認められています。

本書では、その由来と必然性について、私なりに洞察した結果を示したいと思っています。

本書は、昨年七月「日本の神様は大自然の原理そのまま」と題して発行したものを改訂したもので実質第二版である。              

東京の著名な某大手出版社に原稿を応募し本稿を送付したら「この原稿、まさに「良書」という内容であり出版して世にお考えをしっかりと広めるべきだと強く感じた。これだけ出版の意義のある原稿に出会えて、とても嬉しい。それに伴う徳永様の文章力も申し分ございません。書籍として全国流通していくべきだと思います」と思わぬ判定を受けたことを記録しておきます。。

            平成三十年十二月        徳永圀典

 

 

 

 

 

第一章 日本の原理は大自然の原理に合致する

 

第一節 神の前の無私

神様の御前には「無私」で「心を込める」のが神道の神髄です。 

学べばまなぶ程に、知れば知る程に、日本文化の素晴らしさ、物凄さ、奥の深さに感動します。

外国人の来日が増加するにつれ、日本文化が世界に滔々と流れて広まり、「cool japan」と評価されているのはご存じの通りです。

本書は文化論ではありませんが、私に言わせれば、それは当たり前のことなのです。日本文化の本質は神道に基因し原点は、神道にあると思っています。

例えば、伊勢神宮をはじめ神様にご奉納する絵画、彫刻等々に、天下一流の作者でも作品には歴史的に絶対に氏名を入れません。それに何も感じないのは知性の貧困です。神様の御前には、「無私」であり「心を込める」のみ、これが神道の神髄です。

この精神が日本文化の素晴らしさの根底にあります。それが「日本人の物づくりの原点」なのです。この蓄積が無意識ながら日本人の遺伝的原点であり、二千年の文化の精神的基点と申せましょう。これある限り日本人は外国には負けないのではないでしょうか。

二千年前から今日に至るまで、日本は諸外国から歴史的に高く評価されています。その例を歴史書からざっと挙げてみましょう。

 

・『魏志倭人伝』二千年前の中国人の来日感想です、「(日本人は)盗まない、風俗は淫らではない、婦人は焼きもちやかない」。

・孔子(紀元前五百年前の人)『前漢書』に「東夷の天性従順、日本に行きたい」。

・『晋書』(中国正史の一、唐の時代、三~四世紀)「婦女は淫らではなく、嫉妬もしない」。

・ザビエルの言葉(室町時代)「日本人は盗みの悪習を大変憎む」。

・鎖国前の徳川初期、ロドリゴというスペイン人は日本の都市の清潔さ、食料が豊かなことを見聞して「日本に住みたい」。

・幕末明治初期の来日外国人・フロイス宣教師は、日本の子供の聡明さに驚いて、それは親の躾にあると見抜き、シーボルト(ドイツ人)は「日本は中国と類似性はない」と述べた。

・阪神大震災の時、火事場泥棒がなく世界が驚いた。

・東日本大震災。助け合いに世界が感動した。

 

これらは全て、日本人の清廉性を外国では見れない特異なものとして驚嘆しているのです。もう一つ現代的な特異事例を挙げてみましょう。

テレビ報道などで選挙の投票風景が映されます。外国の選挙投票用紙の大きさに違和感を覚えたことはありませんか。日本の用紙は小さい紙切れなのに、諸外国の用紙は格別に大きいのに気付きます。日本人は漢字、平仮名、カタカナを国民全員が読み書きできますから投票したい人のみの氏名を書けばすみます。処が字の書けない国民のいる国は大きな投票用紙に候補者全員を記載しチェックさせて投票するしかないのです。日本のような識字率の高い国は世界に無いのです。

仏教はインドに発しました。中国経由と東南アジア経由があり、最終の仏教最高蓄積地は日本です。仏像を見ますと、日本の天平勝宝時代に開花した日本仏像彫刻の素晴らしさ、芸術性は、経由国のそれ等を断然圧倒するものになっています。日本人にはそれが当たり前で気がつかない人が多いのでしょう。

一事が万事。日本は古代より外国から取り入れたものを咀嚼し、全く新しい、人間の生活に役立つものを作り続ける能力が他国を断然圧倒してきていることが分かります。「日本文明は八世紀から独自の文明である」とハンチントン教授も指摘しているのです。

この伝統は近現代でも発揮されています。英国の女王が讃嘆したという便座ウオッシュレット。洋式便器は元々輸入したものでしたが、TOTOが開発発明し、世界を圧倒しています。現在の日本文化は本家本元の西洋或いは中国を遥かに凌駕しており、彼らが改めて日本文化を“凄い”と称しているわけです。これは日本人の優秀さ、“手の工夫の文化”に依拠していると思います。

 

二節 神様は「森と水」に象徴される

大自然は絶対です。その大自然の産物である人間は、大自然の運営原理に素直な生き方をするのが最適で幸福な筈です。

日本民族の神を一言で申せば、「大自然崇拝」と見て間違いありません。大自然を畏れ謹み崇めて神としてきたのです。表現を変えれば、天地自然の法則、宇宙運行の原理を神として敬うものと言えます。元々大自然の産物である人間がその生みの親の原理に従って生きるということと同義です。

これは大自然の原理に従順に生きる姿勢であり、洵に天地自然の理に適ったことです。大自然の根幹である太陽の化身とされる天照大神を崇める神道は、地球の原理と同一であり、それへの信仰は絶対に間違いないこととなります。日本が連綿とした国であり続けるのはこの大自然の原理に適っている天皇を中心としているからだ、と改めて確信するのです。これは科学的にも正しいのです。

オリンピックで有名な古代アテネの建造物、パルテノン神殿を多くの方はテレビ等で目にしていると思います。あれは、アテネという都市国家が紀元前四百三十四年に政治・経済・芸術のトップに立ったという政治的シンボルです。神殿と言いますが、今や瓦礫の廃墟にしか私には見えません。

それに比べて、日本の神社は鬱蒼たる森の中に佇み、恰も生きておられるように思えます。全国各地、二千ヶ所あるという鎮守の森に、日本の神様は静かに息づいていらっしゃいます。伊勢神宮を初めとして、緑の森林に覆われたお社はまさに生きた神殿でありましょう。

伊勢神宮は毎朝、神様に捧げるお供え物の為に、千数百年前と全く同じ儀式、木を擦り、火をおこして調理する方式を、今なお同様な形態で運営し続けています。供物は自給自足、塩、魚まで古式通りに自前で生産・収穫します。こんな国や神社は日本だけで、世界にはないでしょう。

以前たまたま見かけた何かの記事の中で「伊勢神宮の力強い自然の中に本当の日本を感じた」と言っていたのはフランスの若いエリートでした。

神社の建物は皇室の御所と同じ、簡素美を極致に表現しています。伊勢神宮を初めとする神社も鎮守の森も日本を象徴する根源的実在です。これらに気が付いてほしいものてす。

宗教的に悟得(ごとく)した時の感動は、所詮は言語では語り尽くせず、もどかしさを感じます。宗教の原典を調べたり解釈しても、その深奥に到り得るのは至難のわざです。神道には他の宗教の聖書やコーラン、経典のような言語による理論体系はありません。だが、日本人の日常生理の中に恰もDNAの如く組み込まれた神道ダイナミズムが存在し、神前の柏手(かしわで)でその悟得が自然に感得されると私には思えるのです。柏手は、心身清浄、カタルシス、浄化作用と言えるのではないでしょうか。

 神道はお(はら)いにより日常の罪障(ざいしょう)を洗い流し、再び清浄に立ち返る再生と復活であり、神社で行う、二礼二拍手一礼は心身浄化の独特の表現手段です。

私は、毎朝、自分の考えた祝詞(のりと)をあげています。神様の前で、柏手を打つ行為、祓え給えのお祓いは、それまでの過去の(つみ)(とが)を打ち払って再び一から出直す、再出発の儀式ではないかとさえ私は思っています。

人間は水が無くては一日たりとも生きられません。その水を育むものは緑、森林であり、日本の神様は清浄を最高としています。その清浄を(もたら)すものは水です。私は日本の神様の原理が、日本そのものの原理でありそれは「緑と水を(あが)める」ことだとも考えています。

森と言えば、日本には「植林の思想」が千古脈々と続いております。伊勢神宮は三百年先の遷宮檜用材のために真剣に植林をしています。この植林思想のない中国とか朝鮮半島を思い浮かべて下さい、禿山と砂漠化です。人類文明発祥の地チグリスユーフラテス、森のない処、文明は枯渇しています。。

現在、地球人口激増の為、世界規模で深刻な水不足、排気ガスによる温暖化が深刻化しています。中国の黄河は干上がり、米国、インド、中央アジア等、世界的に地下水が枯渇しています。ロシアのアルタイ湖などは数年以内に干上がるといわれています。このように地球が限界を示しつつある現在、「緑と水」を大切にする神道が「生命」を救う原理であり信仰だと外国では気づき始めています。当然でしょう。森の消滅は文明の消滅であることは歴史が証明しています。

 

三節 物質文明(西洋の原理)の避けられない災いを救う神道

新年になりますと神社に参拝します。神さびた大()(さん)の林立する鎮守の森は森閑として、清々(すがすが)しく冷気もあり、緊張を感じつつも、心に安らぎと平安を覚えます。「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と西行さんも歌っています。

 天地自然、万物に神が宿るという日本人の素朴で大らかな宗教心、連綿と続く「かたじけない」という心情は民族の心です。日本人は二千年以上前からこの鎮守の森を心のふるさととしてそこに祭られている氏神様を代々守り続けています。神道の基本原理は、村落共同体が夫々に神々を祭り、自然を崇拝し豊作と永遠の繁栄を祈ることです。豊作と村の安全と繁栄を祈るのが神社の祭りであり、人々の心に村落共同体の一体感・連帯感を養ってきました。

ゴッドという一神教のイスラム教やキリスト教とは違う日本の神様です。日本の神様は自然の恵みへの感謝の神です。一神教のように争いの起きる余地はありません。世界的に自然保護が叫ばれる現代ですが、日本人は二千年来自然を大切にしてきています。

山形県の月山神社に、漸く登りつめ大古杉の中に神さびた神社が見えた途端、霧が一面に立ち込め、そのかき動き回る荒々しい霧に遭遇したことがあります。神様が現前されたような、神に触れたような畏怖と感動を覚えた瞬間を私は忘れません。

「神道の髄を見たるか御社(みやしろ)に霧立ちたるは神立ちませる」と思わず呟きました。

これは私だけではないのです。昭和二十四年世界的な歴史学者アーノルド・トインビーが初めて伊勢神宮を参拝した時の言葉があります。トインビーは神道を高く評価し、「戦後、日本人は近代化の道を邁進してきたが、その見返りとして心理的ストレスと絶えざる緊張にさらされている。それは産業革命がもたらす、まぬがれない代価である。ところが神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係だ。日本国民も、自然の汚染によって既に報いを受け始めているが、実は神道の中にそうした災いに対する祖先伝来の救済策を持っているのである」と述べています。

西洋に発した物質文明が避けられない災いを救うのが神道だと言っているのです。さすがです、日本文明の本質を喝破しています。

ドイツの植物学者ヒューセン博士は、「日本人が生活環境に郷土固有の神社林を保護育成してきたこと、また山岳地帯には祖先伝来の原生林がまだ存在することとあいまって、日本民族の優秀な資質育成に大きな効果を果たしてきたことからも、現代人はこれらを大切に守って子孫に伝える責任がある。ヨーロッパ諸国では、放牧により早くから原生林を失い、その弊害を補うために人口植林に努めている。日本の(しゃ)(そう)などを見て祖先の賢明さに敬意を表する」と、鎮守の森との関係で味わうべき言葉を残しています。

この鎮守の森、新幹線でもローカル線でも、高速道路を通っても、ああ、あれは鎮守の森だと思われる森が全国到る所にあって、ほっとします。単なる神社や森ではなく鎮守様は世界的に注目されているのです。日本の鎮守様は日本各地の中心で森と緑と水のシンボルと言えます。水と緑は人間の「いのち」を支えるものであり、それを崇める神道こそ地球規模の宗教だと言ったトインビーの予言は立証されそうです。

私はこの「日本の原理」とも申すべき、日本運営の基礎的思想こそ二十一世紀の地球を救う宗教だと確信しています。欧州は放牧のために早くから原生林を失い人工植林に努めていますが、彼らは日本の社叢を見て、祖先の賢明さに敬意を表すると言ったのです。

ギリシャのエーゲ海や地中海は色こそキレイですが、陸に森林がないため栄養が海に流れ込まず、プランクトンが少なく、森枯れは海枯れで、不味い魚しか獲れません。朝鮮半島や中国大陸には植林の思想がありませんから、森林は伐採したままです。森林が無くなると文明は滅びると言う学者もいます。中近東あたりもそうでした。チグリス川、ユーフラテス川、かつてナイル川を支えた豊かな森林は地球の文明発祥地で古代メソポタニア文明やエジプト文明を築きあげましたが、伐採が進み砂漠化しました。中国の黄河文明の延長線上にある現今中国も砂漠化が激しく進んでいます。未来の悲惨さが見えつつあります。

 

四節 自然と共に生きるという日本的存念

古代から八百万の神々や大自然の偉大な働きを考えて「我々の身体は地球からの借り物」という日本人の思想は、科学的にも正しいと思います。身体の凡ての元素は地球からの借り物で、我々は一定期間地球に存在したら身体をすべて地球や宇宙に返還します。

二十一世紀は、「生命の元の親」であるその地球に感謝し、自然と共に生きるという日本的存念が世界人類に必要になってきたのではないかと思います。それが神道ではありませんか。その思想の根幹にあるのが神道です。森の中で祈ることを日本人以外は考えつきませんでした。日本人にとって森こそ生命の泉であり神なのです。

世界史を見ても、人類の文明・歴史を回顧すると、森の在る所、必ず文明は興り、森を食い潰した時、その文明は必ず滅んでいます。日本は縄文の太古より二十一世紀の現在まで国土は深い緑に覆われて、いよいよ栄えているではありませんか。それは日本民族が古代から自覚の有無に拘らず、大自然の原理でもある神道が血となり肉となって森との共生・共存の思想で生きてきたからです。日本の原理即ち神道は、森の原理とも言えるでしょう。

これに対して西洋の原理は、五百年前コロンブスのアメリカ到達以来、白人主導によって世界を植民地化し、物質主義に根ざして大量生産・大量消費の思想を生み、自然破壊を繰り広げてきました。この西洋文明は、原理的に自然征服・破壊の欲求から生まれた荒々しい性質のもので、現在の地球環境破壊の思想的元凶でありましょう。現在の地球環境破壊は、五百年にわたる西洋原理が破綻しつつあることを示します。

 

五節 日本の神様は地球環境保護神

このような視点から帰納して行くと、大自然の根源である太陽の化身・天照大神を代表とする日本の神様は、まさに地球環境保護の大神様と言えます。

この日本の神様の原理こそ二十一世紀の地球・人類の幸せを守る普遍的原理であると世界を啓蒙し、周知せしめたいと切に願っています。自然と環境に優しい神道こそ、世界を救う地球宗教だと我々は自信と自覚を持たなければなりません。

日本神道は次のような十の特性を持っています。

 

(自然崇拝)人間に幸せをもたらす森羅万象の偉大なるものを神として崇める

(先祖崇拝)人間の幸せを築いた古代の偉大な人物を神として崇拝する祖先崇拝の思想で貫かれている。この敬神崇祖が神道の基本

(森林は万物の命の水と酸素を育成)森と水は人間や万物の命を育てる元として、こよなく感謝の対象とする。

(日本の労働は欣労(きんろう)))太陽は全生命の根源、その化身の天照大神(女性)は自ら働かれ機織(はたおり)された。天皇自ら田植えをされ、皇后も養蚕される伝統が続いている。働くこと、手を使うことは日本の美徳。 

(大地と住民の保護)森の中の御社(おんやしろ)に鎮座され、簡素・質素を旨として地域や住民を見守る

(清浄清潔は健康の基本)水は生命の根源であると共に清浄と清潔をもたらす、「ハライタマエ、キヨメタマエ」が祈りの言葉。

(先祖の祭り、人間の平等性)人間は死ねば、誰でも神となり「(みこと)または(みこと)」と呼ばれる。

(資源尊重)    もったいない精神と簡素を旨とし、平安と豊穣を祈り、人間に素朴な健康生活をもたらす

(平和共存の原理) 和魂(にぎたま)は穏やかな心で人間に自然の恵みを教え平和に導く

(人間は宇宙の一部)日本の神様は大自然の心にかなう地球と人類生存の根幹原理そのもの。

 

六節 日本古来の道

今、私が戦後七十年の日本を改めて振り返ってみて、口惜しく思うのは、日本人が民族固有の道を知らなさ過ぎる、ということです。それは必然的に、日本草創以前から厳然として存在する日本の神様のことであり、天皇に帰結する問題なのです。それは即ち「日本民族のルーツ」であり「日本人の道」を示すものに他なりません。

その道を二千年間維持し続けている天皇を知ることは己れのルーツを探求することでもあります。敗戦後の新憲法さえ「天皇は国家・国民の統合の象徴」と規定しているだけに、尚更のこととして身につまされます。この日本民族固有の道、民族の独自性が日本文化創造の原動力であるからです。

日本文化創造は民族の固有性、独自性に立脚してのみ可能で、この日本民族の生命、造化創造の原動力が外来文明の模倣により失われてしまいました。それで国際情勢に翻弄されるような事態が生じているのです。戦後の不安動揺の原因はすべてここに在ると断じてよいでしょう。

ユダヤ人は、奴隷生活、亡国流浪、併せて四千年間を過ごしました。その間、他民族に虐げられ苛められながらも民族の神を固く信じ、民族の言葉を言い伝え続け、祈り続けてきた結果、国家の再興を一挙に果しました。国土、財産等を失っても彼らは、「民族固有の神・精神」を守り抜いて来たからこそ出来たことです

だが、戦後の日本人は、生命、財産、国土を有していても、精神的、思想的には空き家となっています。「魂」の抜け殻状態であり、このままでは、国際的圧力に左右され日本民族は解体に追い込まれる危惧さえあります。亡国の悲哀・悲運を免れるため、「日本民族の原点」を学ばなくてはならない、その原点こそが「日本の神様」なのです。

七節 国家の生命根

国家の「生命(せいめい)(こん)」は目には見えませんが、日本民族はそれを「天照大神」として仰ぎ、伊勢神宮に(いつ)(まつ)ってきました。

国家が現れた時、有史以前を情緒として神話という形で伝える知恵を日本人は持っていました。その神話世界と現実歴史が一貫して「道として実現」されているのが「日本の道」=「日本の原理」であり、それが「神道」に他なりません。

神道は日本民族の「生命根」なのです。これを否定する者は、無知蒙昧の輩であり、己を知らぬイデオローグであり素直さのない人間と断じて差し支えないでしょう。

他民族の神を仰いでいる人間は、それはそれでご自由だが、本源的には接木(つぎき)に過ぎない事となります。日本人の生命根は天照大神であり、神道であり、「天皇」とは一体となるものです。この事実は誰も否定できません。天皇は断絶することなく男子の系統を二千年間継承し続けてきた世界的奇蹟であり、「代々の天皇」は日本民族の「生命根」として国民の中心なのです。

お正月には全国各地の神社に大勢の人々がお参りします。例年の事にて特に目新しくはない年中行事です。

 元旦とか出産や入学とか人生の折り目折り目に心を新たにしたい時われわれは神社に詣でます。この島の人々が縄文時代から自然にやってきた事です。現在のわが国の神社総数は約十一万、その内神社庁管轄は約八万と聞きます。九二七年の延喜式当時各集落の小さな祠も含め既に八万以上の神社があったと言います。先祖様も神様を祭るのが好きで、神様と共に生きてきた民族だとつくづく思ってしまう数字です。どこの国にも神話時代があります。但し、日本の神は西欧的概念のゴッドと違うのです。

日本の神々は自然崇拝であり、巨石、大樹、滝とかにも神を感じたのがわれわれの先祖です。

 自然崇拝の宗教など原始的だという外国人もいますが、それは神道の本質を知らぬ人々の謂いであります、神道の崇高さこそ、複雑な現代社会に必要とされるものです。それどころか、神道は地球の原理とも言え科学的にも正しいと私は考えています。

二章 西洋神の荒々しい原理

一節 絶対とは

「絶対」ということは、他に比較するものや対立するものがないことを言います。また、そのさま、「絶対の真理」「絶対の存在」を指します。

 それは即ち大自然のことであり、大自然の凡ての現象は絶対であり「法」なのです。絶対に逃れることの出来ない絶対存在であり、絶対現象です。太陽も星辰も、風雨も全ての大自然の諸現象は、全ての動植物と共に存在としては揺るぎない絶対のものです。

人間も存在としては絶対です。他の動植物も存在としては同列であり、大自然の「被創造物」に過ぎません。

宗教は、人間を救うものでなくてはなりません。神または何らかのすぐれて尊く神聖なものを信仰し、帰依するものであり、その教えやそれに基づく行いによって、人間の「心」を救うものです。

日本はその拠り所を大自然の生みの親、太陽の化身である天照大神としました。これは大自然畏敬のことでもあります。日本以外の国々のそれは人間の思想、イデオロギーであろうとさえ推察します。この相違が実は大変な結果を生んで今日に至っているのです。

中世のヨーロッパを概観してみましょう。多くの宗教戦争が記録されています。

 

・第一次カッペル戦争一五二九年

・第二次カッペル戦争一五三一年

・シュマルカルデン戦争

・ユグノー戦争

・八十年戦争

・三十年戦争

・七年戦争

・十字軍遠征

・民族の大移動

 

彼らは、戦争ばかりしているではないですか。宗教と言うが、結果から見ると宗教の名に値しないと思われるほど闘争ばかりです。彼らの神に疑問を持たざるを得ません。それは宗教と言うよりは、神という思想・イデオロギーではなかろうかとさえ思えてしまいます。真の神なら闘争ばかりではない筈で、闘争ばかりと言うことは人間ワザに異ならないのではないでしょうか。なぜなら神は誤謬をおかさないが、人間は過ちを犯す存在だからです。

 

次に中国を見てみましょう。シナは易姓革命の国と言われます。しかし、格調高い表現に幻惑されてはなりません。それは要するに「血の政治変革」の謂いだからです。天命と称して、前皇帝を殺害し己が皇帝になるのです。「焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)」に見る如く古代から前皇帝の治績を抹殺して、自己正当化の歴史改竄三千年というのが中国史の実態です。

この国は百家争鳴(ひゃっかそうめい)の国なのです。だから国の徳が欠如しており人民は政府が安定している間にと海外にせっせと送金し、外国籍を取得して、政府破綻の保険をかけるのが歴史的に常習化しています。シナと韓国は瓜二つで、この両国は海外移住希望者が九割を超えているのに対し、日本は九割以上が日本国民を希望しているという調査があります。日本には、国に徳があるのです。

挙げ句に、シナと韓国の両国民は夜郎自大(やろうじだい)で、尊大この上ない実に誤った儒教思想を身の程知らずに主張し、国際的に人間味のある普遍性に著しく欠ける国民性のままです。両国は、古代から一挙に近代化した国々で、普遍性が欠けた悲哀を痛感してしまいます、二十一世紀の大いなる茶番と申せましょう。ちなみに日本とヨーロッパは共に中世封建時代を経験し夫々武士道、騎士道を確立し人間性を豊潤にしています。

これら諸国に比べ、日本は、平安時代四百年、徳川時代三百年、敗戦後七十年、平和の世を過ごしています。

その上、元首の天皇は、万世一系の二千年、百二十五代も続いています。天皇は初代から名前に「仁」をつけている程、天皇イコール国家には「徳」があったと申すことができるでしょう。天皇は司祭者として国民・国家の安寧と繁栄を祈る存在であり、現在も日々その祈願をしておられます。

日本では二千年来、天皇が、神羅万象の本尊・太陽の化身とされる天照大神をご先祖としておられます、その一点をフォーカスするだけで日本国の原理は大自然の真理に同じだと知ることができます。

日本は、大自然の法を国家運営の基本としてきたと言えます。ですから間違えることが無かったと指摘することができるのです。日本国の原理は大自然の法に依拠しているから、連綿として二千年続いたのです。諸外国の如く人間の作った思想・イデオロギーによらないから、間違えることがなかったと言えます。

日本の原理は大自然に依拠するために、永遠性があり、対して諸外国の原理は人為的原理であるが故に、国家は間違え、非継続、断絶、闘争が発生するのです。

 

二節 人間とは間違える存在

 私が八十七歳となり考えますに、人間とは間違える存在です。絶対的存在ではあり得ません。過ちを犯すものです。

例えば、敗戦直後、占領軍に洗脳されている自覚もなく左翼となり、全学連で反日活動した若い人も、還暦となってみれば完全に保守となり、日本の良さに気づく人が実に多いのです。一人の人間で若い時と思想的に真反対の立場になっている戦後の老人たちがたくさんいます。このように、人間とは間違えるものなのです。

国家とて人間が運営するから間違えます。人類史上最大の間違いを指摘しましょう。二つあります。

一つは共産主義です。ソ連は七十年にして共産主義を放棄しました。共産主義の思想・イデオロギーは人間性に相容れぬと分かったのです。壮大なる人間実験の歴史と申せます。

二つ目は、一神教です。十数年前、カトリックのローマ法王が二千年間の過去のカトリックの過ちを謝罪しました。過ちとは、異教徒は殺しても良いという思想です。

中世ヨーロッパは、宗教戦争が多発しました。百年戦争、三十年戦争、七年戦争、歴史的に有名な「十字軍の遠征」も「民族の大移動」も全て宗教戦争です。ヨーロッパは世界の土地の三パーセントしかありませんが、世界の人口の一割が住んでいます。多くの異人種がおり、今日でも争いが絶えません。

宗教とは本来、人間を救うもののはずです。心を救済するものだと思うのですが、外国の宗教は、中近東を筆頭に戦争ばかりしています。喧嘩や争いごとが絶えないのですが、それは、間違える存在である人間が作った思想・イデオロギーを信ずるからではないでしょうか。

ユダヤ教から派生した一神教の人口を見ますと、

・ユダヤ教  一千五百万人

・キリスト教 二十二億人

・イスラム教 十五億人

となっています。この姉妹宗教は、イエルサレムという同じ場所を聖地としていて対立が続いています。宗教を信じている世界の多くの人を批判するのではありません。ただ、宗教人たちがなぜ争わなければならないのか、不思議でたまらないのです。

唯一神「ヤハウェ」は「すべてのものを創った、たった一つの神様」とされます。これらの宗教の預言者とは、唯一神からの言葉(命令)を〝預かる〟特別な人のことです。「方舟(はこぶね)を作ったノア」や「海を割ったモーゼ」などが有名ですが、彼らは人間です。

「メシア」はヘブライ語で救世主という意味です。いつの日にか「自分達(ユダヤ教徒)を救ってくれる存在(メシア)を神様が遣わしてくれるはずだ」という思想を持ち続けています。これはユダヤ人だけです。ユダヤ人は四千年間奴隷として世界を放浪していました。日本人にはそもそも奴隷の思想はありません。

ユダヤ、キリスト、イスラムの各教は、唯一絶対神の一神教で激しい戒律がある、砂漠から生まれた宗教です。砂漠では日本のように、おとなしくしていては生きて行けません。強いリーダーに統率されて行動を共にしなくては生き残れないのです。

この三つの宗教で、実際に神を見た人間はいないのではないかと私は思っています。幻を見たり、強い思い込みがあったかも知れませんが、彼らが出会ったと信じたものが神だったという保証は無いのではありませんか。マホメッドも、預言者モーゼもそうです。

事実、彼らの宗教は二十一世紀の現代も、争いばかりしているではありませんか。原因はその結果によって判断されます。人間を創った神様の掟を守っていても、争ってしまう。これは神ならぬ人間の作った思想原理に間違いがあるからではないでしょうか。人間は間違える存在なのです。その人間の言葉を何千年間も絶対視している結果が今の国際社会と申せましょう。ローマ法王にも変な人がいました。宣教師で性欲に溺れた人も沢山ありました。人間ですから…。

誤った思想の結果、戦争が起こっても仕方がないのです。

処がです。日本の神道はどうでしょうか。

我が国は、大自然を畏敬し、大自然を神としています。大自然というのは、「もう絶対そのもの」なのですから、間違えようがないことになります。

 

三節 砂漠の神と四季豊かな国の神

砂漠の神とは一神教のことで、旧約聖書の預言者アブラハムの一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。唯一絶対神で他の神々を排除し、その存在を認めません。砂漠の宗教とも呼ばれ、これら一神教発生の背景に中近東の過酷な自然があると考えられます。砂漠の民は生きる上で、明日の十円より今日の一円であり、持てる者から貰うのは当然の民族性があります。他の神々とは他民族の事です。自ずと四季豊かで温暖な気候に恵まれた国と異なる宗教が生まれるのは当然のこととも言えるでしょう。人間は所詮は風土の産物なのです。

現今中近東諸国の抗争を見ると、本当に人間とは哀しい、なんと言う愚かな存在だろうとさえ思えます。殺し合い、せめぎあいは絶えることがありません。個別の事情は理解するが、何とかそれを乗り越えられないものかと思うのです。

乗り越えられないその背景にこの唯一絶対神の非寛容な宗教原理があると私には思えます。一神教が異教徒を殺してよかったのは歴史的事実です。勿論現代は、そのような事は言いません。然し、信仰の自由は当然だが、このような一神教の原理では、抗争は途絶えることなく連綿と続くのではないでしょうか。目には目を、歯には歯をだからです。報道などで見ると、どうしてあの国の人達は自分たちの国の為に心と力と手を合わせて住みやすいようにしないのか、この際、宗教宗派意識は別にして生活安定の為に立ちあがらないのか、と不思議に思います。

自分の立場を越えなくては全体の安定には決してつながりません。彼らの汗して働く姿がテレビ等に映らず、してもらうだけのようにさえ見えます。日本人なら自らの立場を越えて団結するに違いありません。そのような民族的、風土的なものが日本には存在し、危機的状態には宗派、思想、イデオロギー等を超えようとするに違いありません。

 日本の自然は温和で、四季もあり湿度も充分ありますから三十年ほど経過すれば、火山も禿山も放置のままで完全に森林は復元します。ですから、砂漠に何千年生きてきた人間と大違いの民族気質、慣習、伝統が生じて来ます。有難い風土の日本です。

日本人が優しいのは、この風土の産物です。見るがいい、日本猿の可愛いこと、蜘蛛でも、亀でも、魚でもこの風土に適応したものは一律に温和なことが分かります。熾烈な環境の砂漠や熱帯地方の動植物の原色とは大いに違います。ですから、外国の動植物や種を日本に無闇やたらに入れると、土着のか弱い動植物は弱肉強食されて絶滅の危機に瀕してしまいます。

これは人間社会とて同様で、昨今の国際経済・政治情勢とよく似ています。これ等から勘案しても、元来日本人の本質は島国でもあり、平和共存なのです。故に土着の信仰であるカミも森羅万象、大自然の恵みに対する感謝の宗教となっています。日本のカミは寛容で砂漠の神のような敵対的なものはありません。これが日本の基礎原理であり、私はこれらを含めて「日本の原理」と呼んでいます。

 

四節 神様と市場経済

日米経済の支配原理の違いは本質的には、日本のカミ様と西洋神ゴッドとの相異であると喝破します。米国九・一一テロは狂信的イスラムの仕業、イスラエルとパレスチナとの眼には眼をの終わり無き憎悪。米国流経済が普遍的モデルのように日本を席巻、外資系は日本の金融機関ならやらないアクドイ法律違反をして荒稼ぎします。堪りかねた金融庁が時に行政処罰をするが荒儲け絶対主義が外資のルールです。この様な市場経済が人間の幸福に大きく貢献するのか甚だ疑問です。

日本には「君子財を愛す、これを取るに道あり」と経世済民の思想と志から「経済」という言葉が生まれたように、明治以来国を治め民を救うという哲学がありました。外資系は目先の利益の為に巨額の株、為替の空売りをし、発展途上国の矛盾や隙をくぐり平気で一国を破綻させます。十数年前、タイ国を筆頭にインドネシア、マレーシア、韓国と実に経世済民の思想からは程遠い手法で一国を混乱させ、国民を酷い目に遭わせ荒稼ぎしました。日本もその対象の例外ではありません。マネーと情報を占有し政治的、意図的、狡猾的、覇権的に市場をコントロールし儲ける仕組みに見えます。

米国格付会社は、エンロン、ワールドコム等に破綻直前まで良いランクを与えており、粉飾も見抜けませんでした。それら社長のブッタクリのような年俸八十億円など珍しくありません。模範と言われた米国企業会計もあのザマです。米国の巨大貿易赤字、財政赤字を格付けにどう評価しているのか。米国は二兆三千億ドルの対外純債務のある世界最大債務国、貿易収支は年間四千億ドルの赤字が常態で、この破綻的状態は知らぬ顔を決めています。ちなみに、日本は約一千四百兆円の世界一の純債権国。外貨準備は一兆ドルと世界最高レベル。米国格付基準はダブルスタンダードであり、視点に大矛盾があります。要するに軍事力為替ではないかとさえ思えます。中国など元は切り上げてよいはずです。為替は純経済ではなく恫喝・軍事・政治力学によって動かされているのが実態です。

日本としては米国との同盟が最も安全ですが、クリントン時代にウオール街のマネーがわが国経済を破綻寸前に追い込んだ端著は力関係にありました。元財務大臣のルービン、サマーズ等は米国資本の代弁者でIMF、世界銀行と絡んでいます。その後ルービンは米国の名だたる金融資本の会長に戻っています。日本では考えられない政経一致です。ホワイト・アングロサクソンプロテスタント、WASPワスプ三%の富豪が国富の四十%を持つ過激な米国式経済には甚だ疑問を抱かざるを得ません。

経世済民の思想による経済運営が、より大多数が人間の幸福に近づける道です。なぜ簡単に日本型資本主義を放棄したのか。とは言うものの、日本の資本は確かに柔軟性、流動性、創造性に欠け競争原理に適応していないのも事実です。市場経済の弱肉強食とは、敗者必滅で敗者は例外なく貧困に喘ぐ事を忘れてはなりません。

イスラムはイスラム教、イスラエルはユダヤ教、そして、アングロサクソンはキリスト教。唯一絶対神は異教徒を迫害する歴史を有します。彼等は眼には眼をで、相手が徹底的にダウンするまで叩くのです。

日本のカミ様は自然崇拝であり、感謝の神であり、本質は森羅万象共存の精神であり、ゴッドとは根本的に違います。

アングロサクソン、特に米国主導の市場経済は唯一絶対神的なゴッド流です。一神教民族は排他的独善的で、異教徒を徹底的に弾圧したのは歴史が示すところです。テロは断じて許されませんが、どうやら、地球規模で見られる矛盾、地域紛争、環境悪化、宗教問題抗争などは凡て西洋文明の原理から生み出されているようです。

狩猟民族は動物の捕獲に、(わな)とか(おとり)をかけて騙して捕え、おびき寄せる技術に長けることになります。彼らのマネー、市場経済原理の根底にはそうした民俗的特性を感じます。牧畜・遊牧は絶えず動物を殺して食べ、血を見て暮らす生活です。日本人は家族同様の牛を明治以前は食べませんでした。クジラを食べるのが残忍で牛を食べるのは残忍でないという彼等の発想を理解するのは困難ですが、獰猛、残忍性は過酷な環境で生きてきた証しとも言えます。

米国建国時、星条旗の星の数は十三州、今や五十州、これは侵略による併合の証拠です。歴史は国により相反する理解があって当然のことです。米国の初代大統領ワシントンは英国では領土を奪った人間として教科書に書かれています。それに対して両国は互いに何も言いません。国の歴史を相手国の主張通りにするのは属国か植民地になる事と同様、民族に対する重大な背信なのです。

五節 略奪を正義とする生き方

ノーベル賞創始者ノーベルはダイナマイトを発明して巨万の富を築きました。火薬のダイナマイトがなぜ巨大な富を齎したのでしょうか。欧州は氷河に削られて岩盤が露出し、破砕しなければ住宅も耕作も不能でした。

欧州の北緯はロンドン五一度、パリ四九度、ノーベルのオスロは六o度、樺太の北海域と並ぶ位置です。東京三六度、札幌四四度と比較して、いかに欧州が北に位置するかが分かります。太陽のイメージある南欧、モナコ、ローマ、ナポリも北海道辺りに過ぎません。欧州大陸や北アフリカは岩盤や砂漠ですから、地中海に微生物が注がれず魚介類が貧困です。日本の主要都市はエジプト・カイロ等の北アフリカ圏の緯度だが、あちらは雨がなく砂漠地帯となっています。

世界には砂漠・草原・森林・灼熱・極寒・熱帯・温帯と様々な国があります。日本はサンサンと太陽が注ぐし、抜けるような冬の青空もある暖温帯です。ロンドンの冬はスモッグで陰惨に近い冷温帯です。その上、日本は多湿であるから緑は豊富、大地は堆積土であり稲作に適し、四季もあり、人間の住む環境として誠に恵まれています。

彼我のこの違いある風土で何万年も生きておれば、大きな格差が人間の気質や肉体に生じて当然です。ユダヤ教・イスラム教・キリスト教は過酷な環境から生まれた宗教です。砂漠では立ち止まっては餓死しますし、移動し食物を求め生きて行く狩猟・移動牧畜が生活の基本です。星辰を頼りに、人間の群れは一人の力強いリーダーに従うしか生きて行けません。

ここから彼らの原理は生まれるのです。砂漠で生まれた宗教は唯一絶対神であり、異教徒を排し、絶対の信仰を捧げ、歴然たる排他性、差別性は歴史に刻まれています。彼らの神々は血の滴る生贄をお好み召されます。清浄と新鮮野菜を好まれる日本のカミとは大違いであり、神に民族の本質が現われます。

所詮、人間は風土の産物です。彼等は農耕で食べられないから、海賊行為、他所からの略奪で手っ取り早く幸福を掴もうとします。

元京大教授の故・会田雄次氏は「彼等は略奪が最も一番豊かになる方法で、優秀な人間がやる企てであると考えていた。英国の王家は先祖が海賊であった事を誇らしげに宣伝している」と指摘しています。

六節 植民地支配を生んだカトリックの選民思想

この五百年間、白人の物質・物量思想を、私は「西洋の原理」と呼んでいますが、地球生態的に最早や限界に達しつつあります。眼には眼をの復讐思想、これは唯一絶対神の原理であり、有史以来のイスラエル・パレスチナ紛争は到底治まりません。両国の戦争孤児を日本が引き取り、共に育て手をつないで遊ばせ、平和の尊さを無為自然に体験させている事例があると聞いたことがありますが、日本にしか出来ない素晴らしいことと言えるでしょう。砂漠の民は水が無いから、日本人の様に怨念を水で流し和を創るのを知らないのでしょうか。人間とはまさに風土の産物です。

世界経済も日本の神様の原理によらなければ、人々を本当に幸せにすることは難しいということになります。

 

世界史と呼ばれる欧米の歴史をここ五百年を俯瞰し、鳥瞰すれば、彼らの文明は実に荒々しい原理に成り立ち、植民地を作って世界の覇権を握ったという事実が残ります。その背景には、カトリックの選民思想即ち白人以外を蔑視する思想的源泉があったのは明白です。

その白人の世界植民地化を、敢然として「体当たり」で阻止し、自らは敗れたものの、植民地を解放し、地球の人類史的救世主となったのは日本人でした。明治維新後の日本人なかりせば、アジア、アフリカ、中南米の有色人種である諸国・諸民族は、未だ白人支配の植民地・奴隷の立場に甘んじていた可能性は否定出来ません。実際彼ら諸民族の誰も、白人に歯向かおうなどと思っていたものはいなかったのです。

事実、蘭領東インドと呼ばれていたインドネシアなどは、三百五十年もの間オランダによる過酷な植民地支配を受け、すっかり諦め切っていました。それが大東亜戦争が開始されるや否や、自分たちと同じ皮膚の色をした日本兵が、自分たちは絶対に敵わないと信じ込んでいた白人(オランダ)兵をバッタバッタとやっつける姿を目の前で見てしまったのです。日本の敗戦後、彼らはオランダと戦い、独立を果たしました。

インドも同様です。イギリス軍の先兵として、マレーシアの前線に立たされていたインド兵はイギリスの敗退によって日本軍の捕虜になり、軍事訓練を受け強兵となって、支配者だったイギリス軍と戦い独立を勝ち取りました。ガンジーの非暴力主義によってのみ独立出来た訳ではありません。この日本と日本軍がもたらした独立の波が世界に広がり、白人支配の時代は終わりを告げたのです。

因みに、戦前ですが、世界で初めて人種差別撤廃の発議を国際連盟にしたのも日本でした。有色人種の旗手として白人の人種差別主義と植民地支配をぶち破ったのは、自然を崇拝する神の国まさに日本だったのです。

中国などは白人の犠牲にすらなっていたのに、視野狭窄でこの自覚がありません。不幸な民族で、その性がひねくれていることに同情を禁じ得ない存在です。

日本の神々は、みな元「人間」です。日本人は仏教と異なり、死ねばみな、「みこと=命(みこと)あるいは尊(みこと)」として神になります。生きている時は、天皇の前に「国民」として平等であり、死んでからも「みこと」として平等。生死を超え一貫して平等思想が完結しているのが日本神道なのです。

大正時代、日本が世界で初めて人種差別撤廃を国際的に訴えた背景にはこうした歴史的宗教的素地があったからであることが分かります。日本型民主主義もこれと同じ宗教的歴史的文脈の中にあるものであり、決して戦後に米国からありがたく教えていただいたものばかりではないことを覚えておいて下さい。

 

七節 日本の神様はゴッドに非ず

キリスト教は歴史的に、宣教師を尖兵として後進国を植民地化しました。奴隷制度も聖書の解釈に基づいて正当化されていました。それでなければ、社会全体が同じ人間を動物以下のものとして扱うことなど出来なかったでしょう。ナチスのユダヤ虐殺も同様の聖書解釈によって正当化されました。

このようにキリスト教のゴッドを日本古来のカミと混同して、米国宣教師が「日本の神様=ゴッド」として誤訳してしまったことで、日本社会に混乱が起こりました。明治以降、それまでの縄文以来の大和ことばのカミが持つ概念が消え去り、西欧的概念のゴッドと同様になってしまったのです。これは津田左右吉氏も指摘しています。

ここに現代の悲劇の大元があります。

戒律、教義のない神道は厳密には宗教に非ず、自然そのものであり、宗教法人に相応しくはありません。日本人は西洋神ゴッドと日本のカミを峻別して理解しなくてはならないのです。明治以降特に軍閥と政治が、天皇という歴史的に非政治的な存在を、国の発展途上で悪用してカミの道を誤解させ、誤解を世界に拡散させてしまいました。戦後は一部ジャーナリズムや文化人等に誤解拡散の責任があります。日本人はこの事を確りと認識し誤解を世界に向けて解かねばなりません。あまりに誤訳が広まりすぎて、難しくはなっていますが、誤解を解くには国民一人一人の自覚が必要とされます。

宗教の根幹は「心」であると洞察しています。色んな宗教がある、だが、神道以外の宗教には必ず教義があり戒律を持ち厳しく信者を拘束しています。仏教とて例外ではなく、日本人がそう感じないのは、仏教が葬式仏教に堕落しているからに過ぎません。仏教では地獄に落ちると言い、イスラムでは一日に五回、大地に頭をすりつけて聖地への礼拝を義務づけています。

キリスト教でも煉獄に落ちると脅します。死者は牧師の足元に安置させられ、神との交流は牧師が仲介しています。仏教では死者に「戒名」という極めて差別意識のあるものを付与します。処が、日本の神様はみな元人間なので、平等です。キリスト教などは、血の滴る十字架を礼拝させるものであり、本質的にはとても日本人に馴染めるものではありません。

大自然とか大宇宙には「恣意(しい)」なるものはありません。特定の人間に特定の恩恵など有り得ないと私は思っています。祈り・願いは、自分の心、潜在意識を通じて繋がっている自己の根元である祖先とか大自然への働きかけであろうと考えます。念じ念じて、願望実現の発動機となり物事が成就するのです。かかる意味に於いて神道は他の宗教と異なり、実に自然であり人為的なものではありません。神道の真の真たる所以がここにあります。

 

第三章 遷宮で蘇る知恵を持つ日本の神様

一節 儒教が喧しい

ケント・ギルバード、ヘンリー・ストーク、黄文雄、いずれも儒教のせいで韓国も中国も、不幸であり知的普遍性に欠けると本に書き、ベストセラーになっています。

それは、中国と韓国の儒教による事大主義、己を高しとする態度が近代合理性、人権平等主義に反すると視ておるからでしょう。

人間とは普通、一つの思想を信じています。思想は、人間を生かし、人間に希望を与えるものです。

だが、その思想が時代遅れになる時、思想は人間を生かすどころか、人間を殺す、或いは滅ぼすものになります。

多くの人間が、持っている思想の為に「死に」、あるいは「滅んで」います。それは個人のみならず、氏族や国家も同様のことです。

つらつら歴史を想起しますと、ある氏族は一定の思想と役割を持ち歴史に登場します。そして、その氏族の思想が古くなり、その古い思想を必要としない時代が来ます。その時、その氏族は滅んでいます。

日本の古代史を見れば端的な例があります。古代、物部氏は、神道と武力を持ち朝廷に仕える豪族でした。当時はマジナイを中心とした神道が古くなって行く時代でした。この時代、新しい文化的宗教である仏教が日本に入って来ます。それを蘇我氏が取り入れました。ここで、まあ一種の宗教戦争が起きた訳です。

やはり新しいものが勝つのです。仏教は、新しい当時の国際宗教と申していいでしょう。古い国民的宗教の神道に勝利してしまいます。

物部氏は、言うならば古代神道と共に、つまり「一つの思想」と共に滅んでいったと言えます。

蘇我氏に於いても同じことが言えます。

仏教の保護者であった蘇我氏は、古代最大の宗教戦争である「物部氏との戦い」に勝利し、政治的実権を一手に収めます。仏教立国の理想が着々と実現されて行きました。この理想に応じて現れたのが聖徳太子です。

だが、蘇我氏の仏教立国が聊か行き過ぎました。日本には、古くから土着の「神々の権威」が残っていたのです。この古い神々が天皇の権威と強く結びついていました。こうした神々を否定したことは天皇の権威を否定することになります。

古い神々が天皇家の人々と共に立ち上がったのは当然でした。神々の巻き返しです。日本書記が語るように、物部氏を滅ぼしたのが新しい神である仏の祟りとすれば、蘇我氏を滅ぼしたのは「古い神々」ということになります。

こうして古代日本を代表する二つの豪族、物部と蘇我両氏は共に滅び「天皇親政の世」がきたと言えます。

思想は一時的に栄えても、時が経つとそれを奉じたグループと共に滅びます。近代では、共産主義という思想、イデオロギーはソ連崩壊で、思想上では終止符を打っていると言えます。

「徳永圀典の宗教イデオロギー論」によりますと、古代の思想、儒教も同様です。世界を見渡しても古代から中世、そして現代も欧州そして中近東と宗教戦争ばかりです。

古い思想を信じたままでは危険過ぎるということに至ります。日本の神道は大自然の原理と同根ですから絶対間違いないことになると帰結するのです。

 

二節 遷宮の叡知

先年行われた伊勢遷宮の行事は、まさに、日本国二十年毎の、さわやかな新風のような一大行事、民族の魂の再結集行事です。時、恰も国難的危機到来の中、日本人の心が一致団結する絶好のタイミングとなりました。

伊勢神宮の宮域(ぐういき)は五千ヘクタール。千古の自然が四季折々を彩ります。訪ねるたびに違う異なる表情、この自然の中に神の息吹きを感じます。

五十鈴川河畔の桜は生命の力強さに溢れています。夏ともなれば、木洩れ日が差し込む中を玉砂利の参道を進み、真っ直ぐに伸びた神杉の木立に目を奪われます。

秋。神宮の神田(しんでん)の稲穂が頭を垂れる。稲は天照大神より国土、御神体と共に授けられたものです。ここには日本人の原風景があります。そして元旦、宇治橋から望む鳥居からしずしずと太陽が昇る。日本、日本人誕生の瞬間です。

眼に見えぬものに感謝する。人目がなくとも礼節を守る。これが「純の純なる日本人らしさの原点」であり、その源にあるのが神道です。

宇宙万物は変化して止みません。遷宮は、停滞を防ぎ生成発展の為の儀式を二十年毎に行い、それにより民族の精神が活発化し永続して行くものです。(なめ)の儀式と相通ずるように見えます。これ等には人間最高の知恵を感じます。

なんだかよく分らないが、神社に行くと心が落ち着いて安らかとなる、というのが日本の神様のお社です。そこは森であって、頭で考えるものでもなく、それで清々しくなって、アマテラスの神を見たと叫んだのが、那智大滝や伊勢神宮でのトインビーであり若いフランス人の伊勢体験であり、西行の「なにごとの おわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」の歌なのです。

色々と思考を重ねるうちに、どうやら戦後の日本人は余りにも即物的となり「眼に見えぬものに感謝し、己れを戒める」と言うことを捨ててしまったように思えるのです。人が見ようと見まいと、守るべきことは守る、人目が無くとも礼節を守る――それが「日本人らしさ」であると思います。中国人とか韓国人にないものであり、それが真の「日本人らしさ」であると申せましょう。

その日本人らしさの原点、根源にあるのが神道です。古代より日本人は、そのようにして(はぐく)まれていたのです。今も、意識が無いのかも知れないが、我々の暮しの中に脈々と息づいている神道なのです。日本人には神様とは分かつことの出来ない(きずな)があります。だが、分りにくいという外国人が言うように、それは日本の風土に住まないと分からない、感じられないものなのでしょう。教義や経典が無く、感じる宗教なのかも知れません。

 

三節 遷宮による文化継続

伊勢神宮の二十年ごとに行なわれる遷宮とは、

「日本人再生の神事」であり、

「民族伝統継承の行事」であり、

「民族の魂復活の神事」であり、

「民族永遠を希求する測り知れない叡知」

が潜んでいます。

日本の天皇は、天照大神の長男アメノオシホミミの子孫であり、次男アメノホヒの子孫が出雲大社の千家です。日本では二つの家系(天皇家は皇統)が万世一系で連綿として続き現代に至っているのです。かかる家系は世界に類を見ません。

昭和天皇崩御の時今上天皇が大嘗祭をなされました。恐らく即位された天皇は祖霊に捧げた食事をされて祖霊と一心同体となり、祖霊の精神即ち霊、魂を受けて原点に立つ再生の儀式をされたと思います。出雲の千家も(かめ)太夫(だゆう)神事を終えて相嘗(あいなめ)の儀式があるやに聞き及びます。共通する神事のようです。両者共に、祖霊を受け継ぎ自らが新たに再生し甦る儀式と推測されます。 

ですから両家は二千年も存続しているのでしょう。毎年の儀式で精神の再生と復活が行なわれていると私はみています。

天皇は、歴史的に、政治から超越した存在であらせられます。これこそ「人類の叡知」と言わずにはおられません。世界各国の知性ある人々は、日本のこの仕組みを(うらや)み、(あが)め尊んでいます。どんな英雄も聖人も成しえなかったこととして、日本のこの仕組みを素晴らしいと思っているのです。

日本の神様は自然崇拝であり、感謝の神であり、その本質は森羅万象共存の精神であって、一神教のゴッドとは根本的に異なります。荒々しい原理を持つ砂漠の神により、この五百年で地球は破綻に直面していると考えるのは私だけではない筈です。地球は、彼らの思想的源泉・西洋原理、即ち大量生産、大量消費で(うめ)(あえ)いでいます。

日本の神様は地球に存在するすべてを受容されます。この心、全ての存在を敬いの対象とする日本の神こそ、人類を、世界を、あるいは地球を救済出来る究極の原理だと私は信じています。

四節 庶民のささやかな清浄行事「柏手(かしわで)

十二月下旬の冬至は陽の死であり、新年を迎え鎮守の森で打つ柏手はわれわれ庶民のささやかな再生の儀式と言えるのではないでしょうか。こうして精神が自浄作用をするのです。こう考えると日本民族数千年の知恵は大変なもののように思えます。

 ところが、明治以降特に昭和十年頃からの神社即ち日本の神様は、軍部に利用されてしまったと断ぜざるを得ない。真の姿が、ここ百年のことで一部日本人にも勿論外国にも誤解されてしまっているのは誠に残念なことです。  

 私は、神とは大自然、宇宙を動かす理とか法則というか、森羅万象に満ち満ちている力の様なものではないかと思ってみたりしています。その理法に対して多少の矛盾とか反則に一々拘泥しませんが、宇宙の理法に反する事は何時の日にか必ず摘出されるのではないか、と考えています。何故なら人間も大自然の一生命に過ぎないからです。

 文明は必ず滅亡する事実から西欧的考察で行き詰まり、東洋的自然観即ち大自然の理法を学び、遂に易経の変化の原理で開眼したのは歴史家トインビーであったか、と思います。     

 「 窮すれば変ず。変ずれば即ち通ず」。この哲学では物事は行き詰まる事はありません。日本国の現況は行き詰まっています。今直ちに為すべき事は自らが変ずる事ではないでしょうか。これは大自然の理法にも適い日本の神様にも通ずるものがあります。 

 

五節 日本人の英知の結晶  

 お正月には蔵やクド(かまど)のカミ様にお餅をお供えしている家庭が今でもあるでしょう。地鎮祭、木霊(こだま)(かたな)鍛冶(かじ)の火にもカミを意識し、カミに近づくためミソギをして(けがれ)れを払い、清浄になろうとするのが日本人です。その深層心理は無意識にカミを感じています。古大木とか、イワクラと呼ぶ巨岩、滝とか雷にも古代の日本人はカミの宿りを感じていました。これが伝来の日本のカミなのです。太陽も、カミとして日々祈っている人も多いでしょう。

実りの秋になると新嘗祭(にいなめさい)として五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)の感謝祭を行います。天皇が即位された時に行う大嘗祭(おおなめさい)は紛れも無く農耕民族の自然崇拝の産物です。天地の恵みをカミに感謝するお祭りです。日本人はこのようにして自然をあがめ、自然現象をもカミとし、その恵みに手をあわせてきた民族です。

人間を超えた大きな存在が天地宇宙に存在しているのは事実です。その天地自然の到る所にカミを感じてきた日本人であり、将に八百万(やおよろず)のカミガミがおわす日本国なのです。日本とはこのような意味で縄文時代からカミガミの国であるのも歴史的事実です。日本は紛れもなくカミガミの国であり、二千年前の日本国の創始者達は自然のカミガミをあがめる司祭者を天皇としたのだろうと思われます。このように歴史的に天皇を非政治的存在としているのは日本人の偉大なる英知と申せましょう。

 話は外れますが、他国の元首である大統領が金銭的汚職とか非人道的なことをして国外追放される。共和制で、お金、武力、権謀術策を駆使して元首になった人物が国の象徴として誕生したら、日本人の多くは尊敬の念を起こさないでしょう。スターリン、毛沢東、クリントン、最近では朴槿恵等が好事例と言えます。そんな元首であれば日本は大混乱し永久に人心は安定しません。

日本は実に素晴らしいシステムを古代から創造しています。世界に冠たる仁と忠恕(ちゅうじょ)(思いやり)の徳を生まれながらに備えたお方が象徴として存在するだけで、これは全く違います。天皇を神格化してはそれこそフェイクになりますからいけませんが、人間としてのご努力とご献身があり、他国に比して尊敬に値する存在であることは間違いありません。諸外国が心中羨ましく思っているのを知らないのは日本人だけ。この天皇を悪用する方が悪い。それは、戦前は軍閥や政治であり、戦後は大マスメディアとか進歩的左翼文化人です。

 

六節 ご神体の鏡は己れの心を映す

 靖国神社のある年のみたま祭に思い立った私は、妻と急遽上京し参拝しました。祭りは質朴で、カミの道らしいものと誇りさえ抱きました。簡素、清潔、清浄、荘厳こそ日本のカミ様の姿です。

日本のカミガミとは先祖の事でもあります。私が死ねば徳永圀(とくながくに)(すけの)(みこと)のカミとなります。これを他国の文化とか宗教意識で非難される筋合いは、毛頭ありません。

 日本は中国と異なり、「死者を鞭打たず」の民族的歴史的な感性を持ちます。死者は平等です。中国のように墓を暴いてまで死者を侮辱せぬ心情が存在するのです。我々の伝来の文化、信仰を他国から云々されるのはご免蒙りたい。

 米国のミアーズ女史は、カミの一部の本質を正しく洞察しています。日本の伝統神事は肉体的満足の対象である食物、精神的満足を齎す自然美への感謝の儀式だと喝破しているのです。   

 日本人は「人間の魂の生まれながらの善性」と「神にも似た清浄性」の存在を信じています。そして、「魂」を神の意思が宿る至聖の場所として崇拝します。神社の御神体の「鏡」は「人間の心」を映すものであり、心が落ち着き、清明である時、そこには「神」の姿を見ることが出来ます。神社の「鏡」に「神」の姿を見る所以です。それは「己自身を知る」ことにほかならず、即ち鏡は己しか知らぬ心を映しているのです。

 

節 宗教の核心は「心」 

宗教にはご神体があります。そして私は宗教の核心は間違いなく「心」の陶冶(とうや)と見ます。あらゆる宗教の教えの主眼は心にあると洞察されます。

日本の神道もそうです。神道は、清らか、清潔、明るい、簡素、心からなる、などを重視しています。

簡素は、仏教の僧侶の金襴(きんらん)緞子(どんす)袈裟(けさ)と異なり、白と黒の衣服。また皇室同様に、簡素美の建物であり祭礼用品です。仏教のようなキンキラキンは輸入宗教です。皇室の玉座は、ヨーロッパ諸国の王室と違い、実に簡素なものです。これは神道と同根だからに他なりません。

その心ですが、キリスト教でも仏教でも、牧師とか僧侶が神と人間との中間にいて神仏との取り次ぎの役目をしています。

神道では、神社に、即ち神様に捧げる事、或は物品は、絵画であれ、彫刻であれ、神様の前で必要なのは「人間の心」なのです。ですから、お供えの絵画も彫刻も、いかなる高名な芸術家と雖も無記名です。神様の前には単なる一人間でよいという考えです。肩書きは無用。必要なのは「真心」のみというのが神道です。心からなるものを神様に捧げます。

フランス人の社会人類学者、クロード・レヴィ・ストロースは言う「イスラエル、パレスチナの遺物は、現在とは隔絶された過去のものである。然し、日本の神社は、古代から現在に至るまで連綿と継続し、今なお存在することに、深い感動を覚える」と。日本の神道を素直に見るとこのようになるのです。

フランスの劇作家ポール・クローデルは大正十年から昭和初期まで駐日フランス大使を務めた人ですが、このように発言しています。

「私が断じて滅びて欲しくない一つの国民がある。それは日本人である。これほど興味深い、太古からの文明は消滅させてはならない。日本人は、最初から、自分たちを取り巻く自然環境を畏怖していた。日本人は慈悲深い大地と、海産物が豊富な海を崇拝していた。神々が彼らを幸福にしてくれるのだと心底から考えたのだ。日本人は、中国人とか韓国人などとは根底から異なる高貴な感性・情緒に恵まれています。私は、今世紀の地球の民族の指導的位置を日本人は占めなくてはならぬ存在であると確信しています。中国文明、中国人にこのようなものは無いのですから」。

八節 うれしい便り

――これぞ、生命の泉ともいうべき貴国の春を知り、芸術の源ともいうべき秋を知りました。…女性の優雅、料理の丹精に何をつけ加えましょうや。何より惹かれましたものは日本の霊性、これであります。神道の奥義に触れようとして、得がたい経験を積み、今やそれは我が人生の宝となりました。この経験から断固として、こう言うことができます。「神道なくして日本はない」と。…なぜ皆さんはご自分について疑い、ルーツから遠ざかっていらっしゃるのか理解に苦しみます。日本の皆様は人類史上最大の精神文化の一つの継承者です。…もっと毅然として、千古脈々たる「大和魂」を発揚しようとなさらないのですか。          (フランス人作家ジェルマントマ)

 

わが国は、温暖な気候と緑豊かな自然、そして周囲を海に囲まれるという環境に恵まれて孤立性風土でもあり、他民族の侵略や文化的影響もなく、生まれたままの素直な人情と感性をそのまま文化として持ち続け今日にまで及んでいます。地球の未来は明るくないし、我が国も敗戦後七十年というのに、今尚、国家民族の座標軸が定まらず、悲観論、絶望論が満ち溢ふれ、日本は迷っています。

高山で道に迷ったら、一旦、道の分かる場所に戻り、現在地を特定し、考え直すのが基本です。中世では、鎖国して民族としての自己確認の時を費やしました。こうして民族は自己を取り戻すのです。            

自己確認とは、国の原点、成り立ち、父祖が血と汗で歩んだ過去の歴史を辿り原点を学び直すことです。それが民族として、生きる上で最も効率的であり合理性があります。日本の未来を構想するには、日本の国柄を見つめ直すことが近道なのです。世界の先進国で、国家発祥以来、生のままに近い姿を残し伝えているのは日本文明しかありません。

欧米的価値観では、人類は地球共々破滅へと導引すされるのを感じます。

一神教的文明は対立の剛構造です

対して日本の文明は、その対極に在る柔構造で、談合、調和、和の共存思想を持ちます。欧米のように大自然と対決し征服するという概念ではなく、自然をそのまま受け入れる思想が根底にあります。「感謝・もったいない」であり、質素・簡素がその基本的特徴です。これらは、取りも直さず、日本の神様、日本神道、かんながらの道、即ちわが国発祥以来父祖の歩んできた道そのものです。

これは、二十一世紀の人類共存に必要不可欠な原理であると思われます。なぜなら、西洋文明の、力を源泉とする大量消費は地球を食いつぶしつつあるからです。神社や鎮守の森は、二千年前から連綿と続き、現代的価値まで保有します。叡智と言うべき、政治権力を持たない皇室は百二十五代、世界最古で連綿と続いています。神社と同様、日本は大自然国家ということになります。

日本語は世界に三千近い言語がありますが、仲間がいません。これは、日本の国も言語(やまと言葉)も、この列島の風土から自然発生したということを示すものです。神道は戒律も制裁もなく自然崇拝と清浄・感謝であり、宗教ではなく自然の相を示すものです。この恵まれた平和の風土から自然発生し縄文の太古から涵養されてきました。自国を大和「やまと」と言ったのも和を大切にした民族国家ということなのでしょう。

 

九節 武士道と神道

サムライというアメリカ映画がヒットしてから、町の書店に武士道の本が沢山並ぶようになりました。情けないが、この傾向は、日本人にはどうやら生まれながらの身についたもののようである。欧米人に認められてから自分の国の持つ価値観に目覚める。ブランド物を買い漁る根性と瓜二つです。なんとも、いやはや、主体性に欠けることではありませんか。この国の持つ悠久で文明度の高い歴史を本当に学ばないからです。

その武士道、明治時代に新渡戸稲造が滞米中に英語で書き下ろしてルーズベルト大統領を感動させ、日露戦争で資金不足の日本を支援させた原動力ともなったものです。それは世界の指導者階級を(うな)らせたからです。

日本の武士道とは元々、成文化されたものではありません。然し、戦前の日本人には、精神的徳目として婦人も含めて殆んどの人に、大なり小なり内蔵されたものとなっていたと思います。家庭でも学校でもいつの間にか教えられて身についていたもので、日本人の道徳の光源なのです。

戦前までは、婦人はまだ社会的な存在ではなかったが、妻或いは母として、最高の尊敬と深い愛情を受けていました。これは武士道と表裏の関係で、「夫と妻の複本位制」と理解すべきものです。家庭での母親の存在は厳とした慈と愛の存在でした。我々昭和一桁世代の内奥にはこのサムライ精神の片鱗が残存しています。この武士道精神の凄さ、素晴らしさの故に明治維新以来、日本があっと言う間に欧米に伍することを得たと確信しています。

それを知悉しているアメリカ占領軍が日本を二度と立ち上がらせないために神道と武士道を「反動的で権力者のための御用道徳」と難癖をつけて禁止したのです。その占領政策が完全に奏功して、日本が現状のような亡国的様相を呈して来たことは誠に残念至極この上ないことです。

では、武士道とは何か、その本質は「精神的貴族」です。そして神道と表裏の関係にあり、そのキーワードは「至誠」です。日本の神様の前には清明なる心を前提とします。武士道もまた、主君に対し忠にして信の誠であらねばならぬのです。

 

武士道を徳永流に纏めてみましょう。

一口では難しいが、先ず浮かぶ言葉は「恥を知る」であろうか。「武士の情け」あるいは「渇しても盗泉の水を飲まず」「名を惜しむ」「卑怯であってはならぬ」「潔くあれ」「ウソをつくな」「弱い者をいじめるな」等を思い出して行くと、なにやら現代政治家やら国家中枢官僚に最も欠けているものばかりではないでしょうか。元々は師表(しひょう)に立つ武士の徳目であり至誠が中核です。

明治初期の指導者は欧米視察をして「英・米・蘭などは町人国家なり」と喝破して、道義国家日本としての矜持を高く持ち、欧米人より精神文明度に於いて進んでいると自負していたのです。私は、先の戦争の開戦、戦争を和平に持って行かなかった大失敗、そして二十年前のマネー戦争の完敗は、何れも国家を三度滅ぼしたに等しいと感じています。が、それらはすべて政治家と国家中枢官僚に起因するものです。彼らのサムライ精神が欠如し、現場感覚を喪失して机上論で対処したからだと確信するのです。現場感覚なきトップの企業は破滅または衰退しているのは、市場経済の現代にも当てはまります。

名外相、陸奥宗光に見る如く、明治の元勲達は、幕末の死線を乗り越えた野性味溢れる現場感覚の分かる人たちばかりでした。戦ってダメとなると潔く方向を転換、その変わり身の速やかさが見事で颯爽(さっそう)としていた明治の元勲たち。その元気の根源がサムライ精神でした。

それは、

・命をかけた使命感

・名でもない、利でもない

・自ら正しいと思う志の為に命を懸ける

・道義を第一義とする

これらが武士道という思想の根幹でありましょう。

何をやるにも命懸け、責任の取り方も命懸け。命が懸かっているから自然と迫力が出る、勇気が出る。現代政治家の最も欠けている精神です。これが武士道なのです。

その精神を言い換えると、

・仁であり

・義であり

・勇であり

・礼であり

・信である

更に言い換えると仁とは慈悲であり、義とは正しいことであり、勇とは義をなすことであり、礼とは思いやりであり、信とは誠です。

武士の出処進退の爽やかさ、心根(こころね)の清浄、清明心は、いずれも神道とかかわりがあります。将に、人間至高のモラルでありましょう。最高の道徳でなくてはならぬ政治とは、このようなものに拠って立ってこそ国民の信を得るものであると信じて止みません。その精神こそが日本の神道であり、今の日本そして、世界に希求されているものです。

 

十節 現前的実在の神々

一の滝があれば二の滝あり、一の滝とは熊野は那智大滝、その上流に二の滝。烏帽子山という那智山源流部最高峰の原始林の渓谷を探索しつつ下って行く、鬱蒼(うっそう)たる渓谷は昼なお暗く、谷の巨石・奇岩・大古木には苔が繁茂し不気味である。眼下の谷に三の滝、青く美しい!やがて、ここより神域と墨書の立札、那智大滝の直上に近い。苔むした石を一つ一つ古木に掴まりながら谷に下りる、河原に降りて上流を見る、あっ、私は戦慄を覚え、思わずひれ伏した。森厳にして峻厳な雰囲気の中、まるで仏様を思わすお姿の御滝。滝壺は広く、(あお)い水を深沈(しんちん)と静かに湛え、荘厳、厳粛、打ちのめされたような思い!!

私はこのように衝撃を受けた滝を見たことはなく、思わず合掌した。霊威を受けて自ずから厳粛となり身が引き締まる。

西行法師も「那智に(こも)りて滝に入堂し(はべ)りけるに、この上に一・二の滝おはします。それへまいるなりと申す常住の僧の侍りけるに、(とも)してまいりけり。花や咲きぬらんとたづねまほしかりける折節にて、たよりある心地して分けまいりたり。二の滝のもとへまいりつきたる。如意(にょい)(りん)の滝となん申すと聞きて、拝みければ、まことに少しうち(かたぶ)きたるふうに流れ下りて、尊く覚えけり」。

高さ二十三米、幅七米、中ほどに、ふくらみがあり、優しい滝。柔和さの上に、威厳と気品ある風格を備えて神秘そのもの。悠久の昔から静寂(しじま)の中にひそと(しず)まる。いかなる経典・言語より宗教的悟得(ごとく)を得られるのは、大自然の神秘に神仏の現前的実在を覚えるからだ。那智の滝を見て、アマテラスを見た!と叫んだのはフランス人作家アンドレー・マルロー。那智大滝は原生林を切り裂いて落下、背後には南方熊楠(みなみかたくまぐす)が粘菌採取を行った那智原始林(世界遺産)が広がる。

至難の大峰奥駆け道も感動的なものであった。紀伊山地はこの那智原生林初め、大峰山系、大台ケ原・大杉谷等、わが国に残された数少ない原生林の宝庫であり魅力は尽きない。数年前の台風による惨害で、登山道が消滅したと言われる「日本の秘境・大杉谷」山行の追憶を試みる。

大杉谷は日本の秘境、滝と(ぐら)と呼ぶ絶壁が連なり原始的景観を擁している。大杉谷は明るい豪快な渓で直線的に流れている。・・両岸の山壁は(すこぶ)る急峻、この谷へ落ち込む支河の多くは吊懸(つりけん)(こく)で青壮年期の谷の特色、高山風景の雄深さ示すもの。渓を覆う原生林の美しさ、それは幽遂を極めた針活混淆の喬木林だ。峡谷には静と動が混在して基調は男性的だが女性的なものも伺える。絢爛豪快と華麗さもあり浸食の激しさを物語る。―中略―紀伊半島は植生の実に豊かな地域であり生命力溢れた森林を形成している。自然崇拝の中から熊野三山信仰が始ったのであろう。根源は自然を敬う感情にほかならない。北上川、熊野川、あの大らかに流れる美しい清流は敬虔な心を(はぐく)む。吉野からの大峰奥駆け、高野山からの小辺路、紀伊路の中辺路・大辺路、新宮の伊勢路、私は大自然の神々に同化と化生(かせい)を願っているのかも知れない。

 

十一節 万世一系・男系天皇の本質

問題の本質を列挙する。
一口で言えば、ご先祖を辿ると、初代神武天皇に辿り着くという事。
男女同権とか男女平等という問題ではない事。
女系がだめだとか、良い悪いの問題ではない。その絶対的二千年間の事実を、ここで簡単に放棄して伝統の断絶をしていいのかという問題。
ただし、女系天皇になると、王朝の断絶と事実として同じことになる。ここが重要な問題。これは伝統ある過去の日本国創始者・天皇家でなくなるのである。王朝断絶の本質的意味の分からない方は、本問題を語る資格はない。
左翼の共産党、社民党、朝日新聞等は、女系により自然に日本天皇は消滅するとして賛成するのだ。
日本国天皇は、初代から、そのようにして二千年の家系が連続してきているという絶対的事実、このような国は世界には皆無。ましてヨーロッパ諸国の王室なぞは、たかがここ数百年のものである。比較するに当らない。
アインシュタイン博士も言った、「西欧を初め人類が闘争に疲れきった時、世界の盟主に仰ぎたくなるのは、万世一系の日本の天皇様しかない、だから日本という国は滅んで欲しくない」と。
この二千年の伝統は人類史的なものであり、誇りにしてよい特性なのである。これに正しい理解と矜持を日本人は持って欲しい。
                平成十八年二月十二日      徳永圀典

第三章          国の徳

 国の徳、国家の徳、このような表現をするのは私が嚆矢ではないかと思っている。あの方に徳があると言う表現がある。国家にも徳があると如実に知らされたのは、中国と韓国の人々のビヘイビアー、行動の核心を洞察したからである。

中国人、韓国人とも、他国に移住したいとの願望が格別強く、それは九十%近いとの調査があった。日本人は逆に九十%の人間が日本に住みたいであった。

中国とか韓国は、歴史的に皇帝とか王様、国、即ち政府が安定している間に、通常はアメリカへ子弟を留学させたり金を送る、それは国家崩壊の避難対策であり彼らの歴史的自衛策である。なぜなのか、いつ政府が倒れてお金を失うかもしれないからである。歴史を見れば、中国は、易姓革命、革命だから前皇帝政府が消滅したら国内紙幣はパーとなる。それが数千年続いているのだから、国民は、親族しか信用できない民族性が構築されているのだ。政府は信用できないのだから海外に移住したいことになる。

近代韓国の大統領は法則の如く前大統領が必ず投獄されている。これでは自分の国を良くして行こうというものが国民に生まれない。「国の徳がうまれてこない」のである。中国と全く同様のことである。

日本は古代から天皇の名前に全て「仁」が付いている程、天皇は国民の為を思った歴史が紡がれている。国民は天皇、為政者、政府を信用しているのだ。

これが私のいう「国の徳」なのである。日本人は外国に逃げようとしないのは当然なのである。そしてコツコツと住む所を良くしようとしてきたのである。その結果が現在の美しい日本である。庶民もコツコツと自前の文化を家庭ごとに創りあげている。

ヨーロッパは道路を隔てて外国がある。そして歴史的に戦争が絶えない。政府の発行する紙幣は政府が倒れたらパーとなる。だから彼らは紙幣を信用しない、宝石とか指輪をつけていざ戦争なら逃げても宝石とか金で生き延びられる。中国とか台湾の「(きん)志向」はこのような背景と同じであると見て間違いない。海外移住は避難対策なのである。                         

日本人は、国、政府を信用している、政府即ち「お上」を信用しているから、国民も、常に「国」を良くしようとすることが身についている。

これが私の言う「国の徳」であります。さらに言い換えれば、天皇を頂いて民は安心してこの国土で暮らし、一人ひとりが一所を懸命に良くしてきた日本なのであります。国土が美しく整備されたあの田園地帯を想起すれば一目瞭然でありましょう。誠に有難い父祖の国なのであります。

だから、世界に稀な素晴らしい伝統文化が営々と培われた二千年の伝統がある。今、その日本の多様性ある素晴らしい伝統文化が全世界に知られクールジャパンと言われ注目を浴びていると言える。

                            完

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき 

私が地元紙「日本海新聞」の一千六百字コラムに毎月寄稿した十年間、毎年の正月三が日には日本の神様のことを書くようになっていました。知人で当時の鳥取県知事、西尾邑治氏がそれを見て徳永さんは、よく勉強しておられます、いつも日本海新聞「潮流」の寄稿を楽しみにして拝見しています。思い切ったことを言われます。勇気がおありです、正論です。神様の話は各別分かりやいので啓蒙される人々も多いことでしょう。これからも大いに期待しております。あちこちで、講演の依頼が多いことでしょう、聞いております。徳永さん、あんた、いいのを書いてくれましたなあ」とたびたび手紙やら電話をして下さっていました。六十代後半のことです。

月に一度は泊まりで出雲地区に出かけ、神社巡りもしていました。やがて鳥取県神社庁の首脳から、「徳永さんの神様の寄稿がたびたび新聞に出るようになり、話がし易くなった」との言葉を賜ることになりました。その後、全国神社庁の青年神職研修会四百人が米子市で開催される事となり、その講師に石破茂衆議院議員と漫才師の宮川大助さんと私の三人が招聘を受け、私は二時間の講話をしました。

一方で、私は登山に集中していたのですが、アルプスでもどの山岳にも祠は必ず有るものです。富士山、雄山、月山の堂々たる神社では神主さんがお祓いをして下さいます、剣岳、槍ヶ岳には祠、そして、日の出を拝む日本人の多いこと。太陽の化身は天照大神。その太陽をシンボル化した国旗、祖先の叡知は大自然の上に構築されています。

つくづく自然を大切にする日本人だと痛感いたします。それは大自然崇拝であり、共産主義の如きイデオロギーの人工国家ではないのです。日本は人間性に富んだ自然国家に違いありません。

伊勢神宮のあの玉砂利を歩く時、鎮守の森に独り佇む時、簡素美の極致のような建物を見上げる時、ご神体の鏡に向い己れの裸の心に向き合う時、日本の神様は静かに受け容れて下さいます。

そうだ、日本の神様は感じる神様なのだ。それは己れの心次第なのかも知れず、そこには絢爛豪華は不用。これが日本人の心の古里だと叫びたくなります。

私の、この日本の神様、鎮守の神様、森と水などの随想は、何も研究して得たものではありません。素朴に感じたままを綴ったものです。

地球が呻吟している、チャイナに見る環境破壊の姿は、人間のエゴの醜さが極限に達し、地球を追い詰め、ために私たちの地球がのた打ち回っているように思えます。飽くなき人間の欲望の結果でありましょう。

かかる時、日本の神様のお姿は、簡素、質素、謙譲なお姿に見えます。人類が今、最も大切なものを日本の神様がお示しなされているように私には見えるのです。

              平成三十年晩秋 米寿

                           徳永圀典

 

 

 

 

 

 

 

 

徳永圀典 昭和六年 鳥取県用瀬町生

鳥取木鶏会会長(創立32)、徳永日本学研究所代表、新しい歴史教科書をつくる会鳥取県支部顧問

教育を考える鳥取県民の会顧問、日本語の誕生歌詞普及会長(創立25)、登山家。        職歴 住友銀行本店外国部、本店営業部外国為替課、二九才、神戸支店外国副課長・外資系・外国関係十年、神戸支店取引先課長、大阪で支店長を歴任、本店人事部審議役。住銀傘下ふそう銀行取締役・本店営業部長を経て代表取締役常務。還暦で現役完全引退。鳥取県自治研修所講師四年。  (文筆活動)日本海新聞・潮流に各月寄稿二五年。山陰政経研究所寄稿。             インターネット活動23年 徳永日本学研究所http://www.ncn-t.net/kunistok/          著書(商業出版)人類最高の良いこと。(米子・山陰ランドドットコム)。日本人の誇りと自信を取り戻す三三話。(東京・コスモ21)。                             (自費出版)平成の大乱。私の憂国放論。日本の神様は大自然そのまま。母「静心院妙唱日琴大姉を偲ぶ」。用瀬アルプス物語。岫雲塾講義録。「手の日本文化論」。これぞ声無き「民の声」。     徳永の「近・現代史」。銀泉誌徳永圀典寄稿総括集                    。(総合監修) 鳥取木鶏会・活学三十年史。                          (講演活動) 全国神社庁青年神職研修会。中国地方中堅神職研修会。八頭郡敬神婦人会。総理府鳥取地区研修講師。鳥取県自治研修所講師、県民文化会館、鳥取市文化ホール、米子市、倉吉市、鳥取市、大山町、智頭町、琴浦町、東伯町、郡家町、松江市等々で講演、出版記念講演。住銀時代には甲子園研修所、関西財界企業三千社に中之島フエスティバルホールで人権講話。鳥取市用瀬町にて登山講演「山を思えば人恋し」。東部鳥取県職OB会「健康と登山」。

登山 全国二百名山の百五十名山登山。大峰奥駆道等熊野古道六ルート、紀伊半島は完全踏破。関西百名山、宍粟五十名山完全踏破。日本百名山は七十才台で六十山踏破。用瀬アルプスを鳥取市に提案し実現。用瀬アルプスおおなる小屋と六郎木小屋看板揮毫。おおなる山に山頂標識を米寿記念に寄贈。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                 

書名 日本を哲学する-国の徳

   第一版 平成三十年十月一日

    著者  徳永圀典

    発行者 徳永日本学研究所

        鳥取市馬場町三十九-

     電話 0八五七―二四―八七八九

    出版社 総合印刷

            定価 一千二百円