安岡正篤先生 特別講話
その四
徳永記録
自然の立木
自然に生えている木そのものであります。
それに苦辛して、即ち努力して、斤という字は、おの、ですから、人工を加えて、これを柱にし、
板にし、色々に工夫を加えて家にするとか、机にするとか、鋤にするとか、色々有用有益なものに仕立て上げる。
これを新しいというのである。「新」という字である。
素材である処の自然の立木と言うものがなければ、斧の加えようもない。
努力のしようもない。自然の立木に苦辛して人力を加え、技術を加えて始めて
新たなるものが出来上がる。
木を無視して、即ち歴史伝統的存在を無視して如何なる新しい創造もあり得ないのであります。
この一字でも、何が新しいかということが立派に説明されておると申していいでありましょう。
複雑微妙な禍福
どうも人間のこと、人生のことは複雑微妙でありまして、「老子」にも「禍かと思えば福のよる所であり、福かと思えば禍の伏す所で、誰かその極みを知らん」とありますが、まことにその通りでありまして「渦福は糾あざなえる縄の如し」という言葉もある通り、これは複雑微妙なもので、決してこれを禍である、これは福であるというように機械的に分けることの出来ないものである。