ふたたび 「奥の細道」@
一昨年十月と十一月の二ヶ月に渡り奥の細道の中から俳句のみ、本ホームページに掲載した。私は、昨年は、一年の内、三ヶ月を登山している、「山の自然の風雅な旅」であろうか。それは心に於いて芭蕉の旅と似通っている。矢張り、私は芭蕉に惹かれるのである。今回は、全文を心行くまで楽しみたい。平成17年 6月 1日 徳永圀典
 
平成17年6月

 1日

はじめに

道祖神の招きに応じて、また片雲の風に誘われる漂泊の旅を、私はいつの日にか、との思いがいつも頭をもたげてくる。勿論、わが国の名だたる大自然は勿論、名所・古跡・名勝 も訪ねたい、惜しみなく時間をかけて自分の生れた国の隅々、先人の跡などをとの思いや切である。西行さんや芭蕉のような放浪の登山に私は限りなく憧れる。(徳永)
 2日 人工的な現代、より自然なもの、より素朴なもの、人間本来のもの、に触れたいと思うのは齢を重ねた証しかもしれない。わが国の先人は簡素 なものの中に美を見つけている、それが日本人の原点であるようにも思える。時間をかけて、心行くまで再び芭蕉の世界に入ってみたい。(徳永)
 3日

「奥の細道」

月日は百代―はくたいーの過客―くわかくーにして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖―すみかーとす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず海浜にさすらへ、去年−こぞーの秋江上−かうじやうーの破屋−はおくーに蜘の古巣をはらひて、やや年も暮春立−たてーる霞の空に白川の関こえん

と、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もも引の破をつづりて笠の緒付かへて、三里に灸すうるより松島の月先心にかかりて、住−すめーる方は人に譲り杉風−さんぷうーが別墅―べつしょーに移るに、

草の戸も住替
−すみかはーる代−よーぞひなの家

面八句―おもてはちくーを庵の柱に懸置。(かけおく)

 4日

旅立  (江戸千住)

弥生−やよひーも末の七日、明ぼのの朧々−ろうろうーとして、月は有明にて光をさまれる物から、不二の峯幽−かすかーにみえて、上野谷中の花の梢またいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと言ふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪−なみだーそそく。
行春
−ゆくはるーや鳥啼―とりなきー魚の目は泪

芭蕉翁46才、新暦516日の時である。弟子の曾良−そらーを伴い、江戸は深川の杉風の別荘をあとに隅田川をのぼり、千住から奥州街道を北上した、ゆく春を惜しみつつである。

 5日 草加  (武蔵国埼玉県)

ことし元禄二−ふたーとせにや、奥羽長途の行脚−あんぎゃー只かりそめに思ひたちて、呉天−ごてんーに白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若−もしー生て帰らばと定なき頼−たのみーの末をかけ、其日漸−やうやくー早加と云―いふー宿―しゅくーにたどり着にけり。痩骨の肩にかかれる物先くるしむ。

弟子、曾良の日記では江戸より九里、草加の先の春日部の宿で、奥州路の旧宿と分かる。町はずれに松並木あり昔日を偲べる。

 6日 日光 
下野国

卯月朔日−うづきついたちー、御山に詣拝す。往昔−そのかみー此御山を二荒山−ふたらさんーと書しを、空海大師開基の時日光と改−あらためー給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかかやきて恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖隠−すみかおだやかーなり。猶憚多くて筆をさし置きぬ。

あらたふと青葉若葉の日の光

黒髪山は霞かかりて雪いまだ白し

剃捨て黒髪山に衣更   曾良

 7日 日光
下野国
曾良は河合氏にして、惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。 このたび松しま象潟の眺共にせん事を悦び、且は覊旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかへ、
・・・仍て黒髪山の句あり。
 8日 日光 

廿余丁山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺千岩の碧譚−へきたんーに落ちり。岩洞に身をひそめて入て滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝へ侍る也。

暫時−しばらくーは滝に籠るや夏−げーの初

 9日 那須 那須の黒ばねと云所に知−しるー人あれば、是より野越にかかりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行−ゆくーに雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明−あくーれば又野中を行。・・・

黒羽は城下町、俳人、翠桃を訪れた、ここは旧陸羽街道が通じている。

10日 黒羽

黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信−おとづーる。思ひかけぬあるじの悦び、日夜語つづけて、其弟桃翠など云が朝夕勤−つとめーとぶらひ、自の

家にも伴ひて、親族の方にもまねかれ日をふるままに、ひとひ郊外に逍遥して犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。
11日 黒羽

それより八幡宮に詣−もうづー。與市扇の的を射し時、別しては我国氏神正八まんとちかひしも此神社にて侍−はべるーと聞−きかーば、感応殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。

修験光明寺と云有−いうありー。そこにまねかれて行者堂を拝す。
 
夏山に足駄を拝む首途哉 
―かどでかなー

12日 雲岩寺

当国雲岩寺のおくに仏頂和尚山居跡あり。
 
 
堅横の五尺にたらぬ草の庵
 むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して岩に書付侍り、といつぞや聞え給ふ。
其跡みんと雲岩寺に杖を曳−ひけーば、人々すすんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打さはぎて、おぼえず彼麓に到る。
13日 雲厳寺

山はおくあるけしきにて、谷道遥に松杉黒く苔しただりて、卯月の天今なお寒し。十景尽る所、橋をわたって山門に入。さてかの跡はいづくのほどにやと、後の山によじのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。

妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
木啄−きつつきーも庵―いほーはやぶらず夏木立

ととりあへぬ一句を柱に残侍し。
雲厳寺は臨済宗妙心寺派の道場で八溝産地山麓にある山寺。

14日 殺生石

是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。この口付のをのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を侍るものかなと、
野を横に馬牽
−ひきーむけよほととぎす

殺生石は温泉−いでゆーの出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。

―殺生石は那須湯本温泉にある温泉神社の裏にある。山の崖のガス排出口である
15日 芦野の里

また、清水流るるの柳は芦野の里にありて田の畔−くろーに残る。この所の郡主戸部某のこの柳みせばやなと折々にのたまひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳のかげにこそ立より侍つれ。
 田一枚植て立去る柳かな

芦野の奥州街道沿いの八幡とは那須神社のこと。大門通りに遊行柳と曾良の日記にもある。
16日 白河の関 心許なき日かず重るままに、白川の関にかかりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求しも断也。中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。 白河の関には二つ関所がある。
17日 白河の関

秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改−あらためーし事など、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良

白河の関は奥州三大関の一つである
18日 須賀川 とかくして越行ままに、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。 かげ沼と云所―いふところーを行−ゆくーに、今日は空雲−そらくもりーて物影うつらず。
19日 須賀川

すか川の駅に等窮といふものを尋て、四五日とどめられる。先、白河の関いかにこえつるやと問。長途のくるしみ身心つかれ、且は風景に魂うばはれ懐旧に腸−はらわたたーを断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
 風流の初やおくの田植うた

無下にこえんもさすがにと語れば、脇・第三とつづけて三巻−みまきーとなしぬ。

須賀川は宿場町、等窮はこの駅の駅長―町長だった俳人、生家が現存しているらしい。
20日
軒の栗

此宿の傍−かたはらーに、大きなる栗の木の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡−とちーひろふ太山−みやまーもかくやと―しづかーに覚られて、ものに書付侍る。其詞、栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや、
 世の人の見付ぬ花や軒の栗

可伸、栗斉ともいう俳人、庵の軒に栗の木あり、芭蕉はその人の生き方に心惹かれた。

21日 あさか沼 
(岩代国
等窮が宅を出て五里斗−ばかりー、檜皮−ひわだーの宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比−かるころーもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知−さらにしるー人なし。 古歌にある「花かつみ」を探していた。旧陸羽街道沿いの浅香山である
22日

沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端−はーにかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。

「花かつみ」を探しあぐねた。
23日 しのぶの里

あくればしのぶもぢ摺−すりーの石を尋て忍ぶのさとに行。遥山陰の小里にも石半―なかばー土に埋てあり。里の童部−わらべーの来たりて教ける。「昔は此山の上に侍しを、往来−ゆききーの人の麦草をあらして此石を試侍−こころみ

はべるーをにくみて、此谷につき落とせば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺

もじずり石は、この地方信夫に産したという布を染めた石―石にシノブ草を置き、その上に布を当て、叩いて模様を染めた。
24日 佐藤庄司の旧跡

月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は左の山際一里半斗に有。飯塚の里鮭野と聞て尋尋−たづねたづねー行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也、麓に大手の跡など人の数ふるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す・・・寺に入て茶を乞え

へば、ここに義経の太刀弁慶が笈−おひーをとどめて什物とす、
 笈も太刀も五月にかざれかみ幟
ここから安達太良山が望見されるという。黒塚の岩屋は謡曲にある。佐藤庄司は藤原の臣、瑠璃光山・医者王寺が庄司の寺。義経の四天王、佐藤義信、只忠信の墓や遺品がある。
25日 飯塚
(飯坂) 
其夜飯塚にとまる。温泉−いでゆーあれば湯に入て宿をかるに、土座に筵を敷てあやしき貧家也。灯−ともしびーもなければいるりの火−ほーかげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴−かみなりー雨しきりに降て臥る上よりも り、蚤蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消入−きえいるー−ばかりーになん。短夜−みじかよーの空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶夜の余波−なごりー心すすまず、馬かりて桑折−こをりーの駅に出る。遥なる行末をかかへて・・・。
26日 笠島

鐙摺・白石の城を過、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠島と云、道祖神の社、かた見の薄今にあ

りと教ふ。此比の五月雨に道いとあしく身につかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠島も
   五月雨の折にふれたりと、
 笠島はいづこさ月のぬかり道
27日 武隈

武隈の松にこそめ覚−さむーる心地はすれ。根は土際より二木−ふたきーにわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先−まづー能因法師思ひ出。往昔−そのかみーむつのかみにて下りし人、此木を伐て名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、松は此たび跡もなしと

は詠みたり。代々−よよーあるは伐−きりー、あるひは植継などせしと聞に、今将(いまはた)千歳のかたちととのほひてめでたき松のけしきになん侍りし。「武隈の松みせ申すせ遅桜」と挙白と云ものの、餞別したりれば、
 桜より松は二木を三月越

28日 宮城野 ・・・宮城野の萩茂りあひて秋の気色思ひやらるる。玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲ころ也。 日影ももらぬ松の林に入て、ここを木の下といふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の・・・。
29日 塩釜 早朝塩がまの明神に(まうづ)。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩てんきらびやかに、石の(きざはし)九刃(きゅうじん)に重り、朝日あけの玉がきをかかやかす。かかる道の(はてちんど)塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ 吾国の風俗なれといと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に「文治三年和泉三郎寄進」と有。5百年来の俤、今目の前にうかびてそぞろに珍し。梁−かれーは勇義忠孝の士也。佳名今に至りてしたはずといふ事なし・・。
30日 多賀城

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。 壷碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有。つぼみの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺斗か。苔を穿て文字幽也。

二年前に多賀城のこの壷碑を見学した。低い丘陵の桜花はじめ樹木は和歌の歌枕として名高い。