高野山 奥の院 金剛峰寺は世界遺産

弘法大師(真魚。空海)弘法大師の称号は、空海の入定87年後の921年に醍醐天皇から贈られたもの。

高野山、奥の院、一の橋から燈篭堂、弘法大師の廟所を含む広い地域を奥の院、一の橋から燈篭堂までの19キロの間には全国大名の40%と言われる大名墓、庶民の墓が立並び其の数は20万基とも30万基とも云われている、正確な数は判らなくても弘法大師の元に眠れば極楽往生出来るとの信仰が如何に強かったかが判る、参道の両側には墓と共に千年杉と呼ばれる杉が生い茂り聖域と呼ぶに相応しい雰囲気を漂はせている。
其の広さに驚く九百メートルの高地に此れだけの盆地があるとは、空海が唐から帰る時に根本道場を造るのは何処が良いかと投じた三杵が高野山の松の梢に止まって居たとの伝承は宗教的には面白いが其の様な事は在り得ないので、現実は空海師が修業の地に相応しい場所を求めて方々探され高野山こそ相応しい地と判断され嵯峨天皇に上奏して高野の地を賜ったのが弘仁七年であった、以後弟子達、多くの工人と共に伽藍の造営【始めは金堂と根本大塔】に努められたが志半ばにして入定(即身仏,生きたまま仏に為る)され後を高弟真然大徳が空海の志を継いで完成させた。
何度、参道を歩いても、あの森厳な佇まいには感動を新たにする。墓石の数々を見れば、日本歴史そのものである。
今回特に驚いたのは、浄土宗本山の知恩院開祖である、法然上人のお墓があったことである。私は、浄土宗某寺の檀徒総代を勤めているが、なぜ空海さんの真言宗にお墓があるのであろうか。一度、菩提寺のお坊様に聞いて見たいと思う。浄土宗では、般若心経や観音経を唱えないと言っても過言ではない。なぜ、法然様のお墓が高野山にあるのか。教えて欲しいものだ。一般信徒の我々俗人は、一派に属するより、悟得のために広く仏教を知りたいのである。