壬申の乱

大津政権対大海人皇子

大海人皇子は「雄抜(ゆうばつ)神武(しんぶ)」と評されるほど果敢な気質で、吉野山に入ったといっても皇位継承を断念したわけで゛はありません。皇子は吉野へ入る時、その配下の舎人(とねり)に対し、「私は修業に入るが、自分とともに修業しょうという者はとどまれ。だが、(おおやけ)に仕えて名をなそうと言う者は去れ」と言って、とどまった信頼できる者だけを連れて吉野に入り、その舎人らを使って大津京の動きを探らせたのでした。

一方、大海人皇子が去った大津京においては、十一月二十三日、蘇我赤兄、中臣金連、蘇我果安福、巨瀬人臣といった重臣がことごとく大友皇子の下に集まり、皇子の「六人心を同じくし、天皇の詔を奉る。もし違うこと有れば、必ず天罰を被らん」という言葉に応え、命をかけて従うことを誓いました。

そして二十九日、この五臣は天皇の前で、大友皇子を奉じて後事をつとめることを宣誓したのです。日本書紀には記載ありませんが、おそらくこの時、大友皇子は皇太子として立たれたのです。そして、天智天皇が十二月三日に崩じられると直ちに大友皇子が即位されたとみられます。これがいわゆる(こう)(ぶん)天皇です。

しかし、こうした政府の動向に対し、人心は大海人皇子の方へ好意的でした。吉野へ入った皇子へ同情や大津政権への批判的な童謡が流行ったといいます。また大津京への放火があったのも、そうした人心を反映したものでしょう。そうであれば、大津政権は、一刻も早く危険な存在である大海人皇子を葬る必要があります。天皇崩御後、大津政権は直ちに大海人皇子の討伐を画策し始めたようです。

これに対し、大海人皇子は美濃から帰ってきた舎人から、「大津京では天智天皇陵造営のための人夫を美濃や尾張から徴用しています。しかし、人夫たちは上京に際して武器を携帯してくるように命じられており、これは陵造営ではなく、事を構えるための準備に違いありません」と通報を受けています。また「大津から大和へいたる要所には監視がおかれ、宇治橋では皇子の舎人が物資を運ぶのをさえぎっています」と報告を受けるに及び、ついに先手を打って蜂起することを決心したのです。

「天武天皇紀」元年、672年五月条は、その決意を次のように伝えています。

(大海人皇子)(みことのり)して曰く、「(われ)、位を譲り世を(のが)るる所以は、独り病を治め身を全くして、(ひたすら)に百年を終えんとなり。然るに今、已むこと得ずして禍を()けんとす。何ぞ黙して身を(ほろぼ)さんや」とのたまう」

 

大海人皇子の蜂起

六月二十二日、大海人皇子は美濃出身の三人の舎人に次のように命じました。

「近江朝廷の臣たちは私を殺害しようと謀っている。これに対するため、お前たち三人は急いで美濃へ行き、安八磨(あはちま)郡の湯沐令(ゆのうながし)多臣品(おおのおみほむ)()(湯沐は皇族に与えられた食封(じきふ)の一種で安八磨郡は大海人皇子の湯沐であり、軍事・経済的基盤となっていた。令は役人)に挙兵計画を告げ、まず兵を蜂起させよ。そして、国司たちにも触れを回して諸軍を起こし、早急に不破の道(現関が原)を確保せよ。私もすぐ出発する」

つまり、自分の本拠地である安八磨郡に戻り、そこを拠点に大津政権に戦いを挑もうというわけです。既にこれ以前に安八磨郡はもとより、貴族・豪族・官人たちへの根回しはできていたとみられます。

そして、二十四日、遂に大海人皇子は行動を起こしました。

この日、舎人が飛鳥守衛の官司から駅鈴(駅馬を利用するための証明書壱的役割を果たす鈴)を手に入れようとしたが失敗したため通報される危険もあり、大海人皇子は徒歩で吉野を出発しました。

しかし、もはや後戻りのきかないこの挙兵に従っていたのは僅か二十余人の舎人。夫人・鸕野讃(ろののさら)()皇女(父は天智天皇、母は倉山田石川麻呂の(むすめ)遠智娘(おちのいらつめ)。後の持統天皇)、幼い草壁(くさかべ)忍壁(おさかべ)皇子と侍女たちだけです。

処が、その日のうちに一人二人と地方の豪族、実力者が加わり、馬食料の提供を受け、次第に「蜂起軍」らしくなってきました。とは言え、全ての地方民、豪族、官人たちがなびいてきたわけではなく、()(ばり)では駅家を焼き払って威嚇しても何の協力も得られず、そのまま伊賀郡へ急行し、さらに抵抗をみせた伊賀駅家も焼き払って進撃を続けました。しかし、伊賀郡司が数百の兵を率いて合流するなど皇子は地方豪族の根強い支持を受けたのです。

翌朝、()萩野(らの)で休憩をとった一行は、さらに歩を進め、積殖(つむえ)で大津京から脱出してきた高市(たけちの)皇子(みこ)(父は大海人皇子、母は采女(うねめ)尼子娘(あまこのいらつめ)。大海人皇子の長子)の一行と合流しました。また、鈴鹿山脈を越えて伊勢鈴鹿に入ると国司・三宅連(みやけのむらじ)(いわ)(とこ)らが合流してきた、五百の兵で要衝の鈴鹿山道を守らせるまでに勢力を増強しました。

二十六日、大津皇子(父は大海人皇子、母は鸕野讃(ろののさら)()皇女の同母姉の太田皇女)も合流し、そのほか続々と蜂起軍への参加があり、しかも美濃の兵三千によって不破の関を確保したという知らせも入ったのでした。これによって鈴鹿山道、不破の関を掌握した大海人皇子は桑名郡家に仮泊し、東国諸国へ使者を派遣して軍兵の徴集にかかりました。ここに大海人軍の基本的な大津京攻略体制が整ったのです。

 

大津政権の滅亡

そのころ、大海人皇子の挙兵の報を受けた大津側は、ただ驚きうろたえました。大友皇子は学識豊かな人でしたが、事に対して臨機応変に対応する思い切りの良さはなかったようです。保身に汲々としはじめた群臣たちを束ねて、一気呵成に反乱軍を征伐するという統率力は持ち合わせていなかったのです。

群臣の中には時がたつほど形勢の不利になるとして、直ちに騎馬隊で追撃すべきだと提案した者もいましたが、大友皇子はそれを避け、国軍の編成、動員を行うという手間のかかる正攻法を採用したのです。そのため各地に使者を派遣したのですが、こうした動きが却って大海人軍へ時間を与える結果になったのでした。少なくとも二十四日、大海人皇子は飛鳥で駅鈴を求めて失敗しており、その情報を受けた大津側が直ちに行動を開始していれば難なく鎮圧できたはずです。

しかも、諸国の国守や豪族たちは殆ど大海人皇子に好意を持つか全面支援を行う方向に動いており、大津側が吉備国守に送った使者なども吉備軍が大海人軍に加わることを恐れて国守を殺害するという有様でした。不破の関を抑えられていたため、東国へ使者を送れず有力な筑紫(つくしの)(きみ)からも支援軍は得られず、結局のところ様子をみていた豪族たちまで大海人皇子に味方していったのです。

こうした大津側のもたつきぶりに比べ、大海人皇子は二十七日には桑名に夫人や幼い皇子を残し、不破の関の野上に行宮(かりみや)を立てて本営とし、戦略的に優位な位置から指揮をとったばかりか、その日には近江朝廷に兵を送るはずだった尾張国守が二万の兵を率いて皇子の旗下に加わり兵力も急速に増強されたのです。しかも、二十九日には様子を見ていた大和の諸豪族、官人たちが大海人軍に加わったため大津側は著しく不利な形勢になりました。そして、七月二日には戦端が開かれた時には大海人皇子は主力数万を不破から大津へ、別働隊数万を大和方面から大津へと大規模な軍事作戦を展開すねまでに強大化していたのです。

これに対し、物量豊富な大津軍でしたが統制が取れず、内紛によって将軍同士が殺しあったり、大海人軍への投降者が続出し、各地で敗戦を重ねました。

そして七月二十二日、遂に大津軍は總大将。大友皇子自らが指揮を取って、瀬田川のほとりで決戦に及びます。しかし、既に大勢は決しており、大友皇子自らの出陣も空しく大海人軍の圧倒的勝利に終わったのです。

翌、二十三日、霧散した大津軍への厳しい探索が行われている最中、大臣たちにさえ見放された大友皇子は、ただ一人残った忠臣・物部連(もののべのむらじ)麻呂(まろ)に見守られて山崎の山中にて自害して果てたのでした。

 

壬申の乱の戦後処理と天武天皇の即位

七月二十四日、戦火が完全におさまり、大津軍の諸将・敗残兵もあらかた捕縛され、大海人軍の諸将は近江筱浪(ささなみ)に集いました。そして、大津京に火を放ち灰燼に帰してしまうと、二十六日、大海人皇子の待つ野上の本営へ凱旋し、大友皇子の首を捧げたのです。ここに、古代史に激変をもたらしたさしもの大内乱・壬申の乱も終結を迎えたのでした。

大海人皇子はしばらく野上の行宮にとどまり、捕らえられていた大津側の群臣たちに処断を下しました。処断は中臣金連が死罪、中臣金連の子、蘇我赤兄。巨勢人臣とその子孫、既に自害していた蘇我果安の子が流罪、その他は一切とがめなしというもので、戦乱の規模の大きさにしては寛大な処置がなされたのです。さらに、大海人軍の功臣に恩賞を授けると、九月になってようやく野上を発ち、桑名を経て大和の岡本宮に入りました。

十一月、大海人皇子は岡本宮の南に造営された飛鳥(あすかの)(きよ)御原宮(みはらのみや)に遷り、翌二年、673年二月二十七日、その新宮において即位されました。御名は天武天皇、古代史上、自らの力で軍を起こし、指揮して天皇位を勝ち取った唯一の天皇です。

 

 

註 不破の関

  三関の一。岐阜県不破郡関が原町にあった

古関。近江と美濃の国境地点に近く、古代近江朝廷を守る中山道上の要地。壬申の乱に大海人皇子はここに本営をおいて近江に進撃した。