日本海新聞 潮流 寄稿 平成17年9月5日


           凛 りん

凛とするとは、凛然、凛呼としたさまを言う。りりしいことである。五月の節句は男の節句で男の子を祝うものだが、武者人形にその、りりしさが見られる。戦後は、女性時代となり、お雛さまの節句は大々的に報道もするし各地の雛祭りもあるが男の節句は少しも印象が無い。男女同権なら、人間は男と女しかいないのだから、男の節句も同様に盛大にやって欲しいものである。余談から始めてしまった。

その凛という言葉を最近よく眼にしたり耳にしたりする。それは、日本が国家として、凛々しくあって欲しいというような所から来ているように思える。それは、近隣諸国から、余りにも言われ放題、され放題で、国家としての体をなさない、なさけない様相に国民が心底、苦々しく怒りすら覚えているからではないか。凛として欲しい、その凛々しさは、武者の姿ではなく、精神の気概、在り様のことを指摘している。凛然とするには、先ず精神の独立と、自己の内面的確立が不可欠である。自尊自立が背景に必要である。他に依存的でなく、軟弱でないことである。それは取りも直さず、日本が軟弱だということである。

現状が当たり前になっているが国家・国民の安全を自ら守る事を放棄し、戦後
60年間、米国に依存している事は日本人の独立心欠如と大いなる関係がある。国家は個人が家庭を守るように、国民共々協力して安全確保が必要だが、それを米国に依存している。これは還暦を迎えた日本がいつまでも一人前の自覚も自尊も独立も放棄した状態に等しい。

人間でも、男女を問わず、風貌でも、凛々しい人には精神的な爽やかさも覚えて好印象を受ける。美醜によるものではない、少々顔は悪くても、精神が優位にある人は風貌に現れる、醜が消えて見える。巷間に凛然という言葉を盛んに耳にするのは、日本が剛毅に欠け、軟弱なことの反映であろう。
米国とか中国の報道官と日本の官房長官とを対比すると分かり易い。国家を代表する官房長官のあの眠ったような眼差し、発音、厳しさに欠ける風貌、これは日本のイメージを悪くする。新進気鋭のものに欠ける。その点、米国とか中国のそれは、青年のような溌剌たる気迫を受けるし聞くほうも迫力と鋭さで強い影響を受ける。能力の問題ではない。それらは、外国との交渉に強く現われるであろう。理解の出来上がった関係なら兎も角、外交では、緻密で、人間的威圧もあり、無愛想なほうが良い場合があるし、概してそうである。

日本を代表するのは総理を初め、大臣、そして与党の幹事長等の政治家である。彼らは、常に日本国としての威信をかけた言動が必要だが、私の見る処、国家の矜持に欠け、気概・気迫の精神もなく、徒らに媚びて相手に擦り寄るようにさえ見受ける。
いい事例が、去る
5月に、中国を訪問した与党両党の幹事長である。中国の外交担当首脳とか主席に、なんの用事で訪問したのか。国際法を破る非礼な国の主席に、こちらから出向いてお説教を賜る構図に国民は苛立ちを覚え我慢ならないのである。

会談したとしても、堂々として、憮然として、伝統のサムライ魂を相手の肝に銘じさせて欲しいのである。野党第一党の党首は、無法国家・中国寄りだと発言し擦り寄るのだから国民は益々ストレスが溜まる。これでは、対等外交の先駆者の聖徳太子が嘆かれる。

明治初期、欧米を歴訪した岩倉使節団の重臣は、白人をして感銘を与えしめた程、堂々とし、凛として尊敬を得たのである。いかなる時代であろうと、対外交渉の際には国家を背負う、民族を代表するという気概を見せて欲しいのである。無礼な国に対して安易に迎合し自分を失う必要は豪もない。

凛とするには、自己に厳しさが必要、それ故に他から尊敬も受ける。
ただ国家には中国・韓国・北朝鮮のような非礼な国があるから国民は日本政府が真摯、敬虔且つ豪胆に凛とした外交が可能なように声を出して応援しなくてはならぬ。与野党議員の自らの国を貶めるような言動は断じて許してならない。
(鳥取市)鳥取木鶏研究会 代表 徳永圀典