嵯峨野の紅葉狩り  京都市右京区 平成16年12月2日

明日の登山、桟敷岳を前にして、快晴の嵯峨野の紅葉見物をした。何十年ぶりの嵯峨野はまだ健在であった。やはり、京都は千年の都である。

釈迦堂ーー清涼寺のことである。「釈迦堂さん」とよばれ人々に親しまれている清涼寺、「源氏物語」の光源氏のモデルといわれる 源 融 の別荘、棲霞観があった。東大寺の僧、 「 然 が宋より持ち帰った釈迦如来像を安置するため建立した寺。清涼寺にはほかに阿弥陀三尊も安置されており、いずれも国宝に指定、嵯峨野にある多くの寺のうち、国宝の仏像があるのはここだけ。

釈迦堂正門 清涼寺本堂

宝筐院ーー
足利二代将軍の義栓と楠木正行の墓所がある。両者は当時の敵と味方であった。紅葉の素晴らしい庭園。

落柿舎ーー松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人、向井去来(江戸時代前期に活躍した俳人)の草庵、元禄4年(1691年)には芭蕉がこの草庵に滞在し、『嵯峨日記』を記した。去来が庵にいることを知らせるためにしていたように、今でも土間の壁には蓑と笠が掛けられてる。落柿舎から北100mほどの路傍には「去来」とだけ彫られた向井去来 の墓がある。のどかな田園風景にしっくりとなじむ、わら葺の建物。

祇王寺ーー『平家物語』に名高い白拍子・祇王ゆかりのお寺。平清盛の寵愛を受けていた祇王は、仏御前の出現によって捨てられ、祇王は母と妹とともに嵯峨野に庵を結び、尼となる。後に仏御前も祇王を追い、4人の女性は念仏三昧の余生を過ごし。紅葉も庭も実に素晴らしい。

二尊院ーー平安時代初期、承和年間(834〜847)に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖として建立した。その後荒廃したが、法然上人らによって再興。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)、唐門「小倉山」の勅額(後柏原天皇)は、この時に下賜。
常寂光寺ーー常寂光寺は、日蓮宗の寺院で本尊は十界大曼茶羅。日蓮宗不受不施派本圀寺16世日禎は、豊臣秀吉の東山大仏の開眼千僧供養に出仕を拒否、この地に隠居し、そこを寺院に改め、土地が常寂光土の感があるとして寺名とした。

小倉山の中腹にあり、茅葺きの仁王門が印象的。そこをくぐると急な石段が山の斜面に沿って本堂へと続いている。石段の両側には春夏は緑の紅葉の、秋は紅葉のトンネルである。晩秋の山の斜面に散った紅葉も美しい。本堂の背後に建つ多宝塔は元和2年の建築と伝えられ、均整のとれた美しい姿をしている。
大河内山荘
ーー市内の眺望の良い、素晴らしい一山。商売たつぷりの入場料1000、の抹茶付きは頂けない。紅葉は終わっていた。小倉山の南面約2万平方メートルの荒地に時代劇の名優大河内傳次郎(1898〜1962)がこの地に魅せられ映画の出演料の大半をそそぎこみ30年もの年月をかけて、こつこつと
創りあげたすばらしい借景庭園。

衣笠山・比叡山・仁和寺・双び丘展望
野々宮神社と竹林ーー潔斎を行う野宮は帝の即位毎に定められていた。その慣習も平安時代の初期には廃れ、そして社が建立される。その社が野ノ宮神社。嵐山の喧騒を離れた荘厳な雰囲気が漂っている。嵯峨天皇皇女仁子内親王の代から、この地が使用される、そもそもの斎宮制度が途絶え社のみが残された。後奈良天皇、中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が出されたように皇室の保護を受けていた。黒木鳥居と小柴垣に代表される現代の聖地は昔からの聖地であり、物語の上での聖地でもあったことは源氏物語「賢木の巻」における描写で伺える。そのためであろうか、この神社には多くの若い女性が詣でている。 この竹林の様相だけは、少しも変らないと友と語り合う。
天竜寺ーー京都五山の第一位は、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)、1239(暦応2)年に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるため、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまり。 天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰めること、「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的。 これまで長く中絶していた中国との貿易を再開して、その利益をこの寺の建立資金とした夢窓国師の、この造天龍寺船による貿易事業は、その後も室町時代を通じて行われ、わが国の経済や文化に寄与するところが大。 創建以来650余年、その間に8度も兵火にかかって今は殆ど古建築をみることができない。(寺院案内パンフレットより)

宝厳院ーー大亀山 宝厳院(だいきさん ほうごんいん)は、臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院のひとつ。寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公により、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建。

大堰川暮色