真田庵  和歌山県九度山町
正しくは、善名称院という。1600年関ヶ原の戦いの後、豊臣方に味方したために、徳川家康によって信州上田城主であった真田昌幸・幸村父子が押し込められた。昌幸は夢かなうことなく、この世を去りこの地に葬られ、3年後の大坂の陣(1614年)で幸村・大助共に戦死。真田庵では、真田幸村の死ををいたみ毎年5月5日の子供の日に真田祭大法会が行われている。

幸村父子の隠棲生活が始まったが、高野山があまりにも寒かったため、庵を九度山に移している。その跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、真田庵です。
九度山での生活は、信幸からの仕送りもあって、それなりにゆとりのあるものだった。その一方で兵術や天文を学んだり、一子大助(幸綱)と共に紀ノ川で水練を試みるなど、将来に備えての訓練も怠らなかった。また、昌幸が刀の柄に巻いていた平織り紐を真田紐として行商させ、生活の足しにもしていた。