成16年8月--今日の格言・箴言27
風姿花伝の名言から 1

世阿弥の作である「風姿花伝」に初めて触れたのは、実に残念ながら50才頃であった。もっと早く知っておればと無念の思いを抱いた記憶が強烈にある。単なる能の本ではない、実に人間そのものの教育の真髄に触れた思いがした。「秘すれば花なり、秘せざれば花なるべからず」など息を止めるような言葉と思った。二ヶ月にわたり披露する。人間そのものの歩みの深奥に迫る思いがする。含蓄ある洞察次第か。平成1681日 徳永圀典

 1日 はじめに 1 これは人生訓の書でもあろう。「時分の花」「まことの花」「老骨に残りし花」「巌の花」「萎れたる花」「年々去来の花」「因果の花」等など哲学的人生訓の響きがある。
 2日 2
花とは、「心の花」でもある。人間にも、あの人には「花」があるともいう。能は芸であり、その極致を「花」とした、在り方の書物かも知れないが、人間を花に例えて一生を見通したのが風姿花伝でもあるように思える。
 3日 3
この風姿花伝を読み解いて行くと、極めて哲学的な眼で人生論を開陳しているやにも見える。能の花も、人間の花も、人間の格調や品質の高さと共に味わえるものも持っていると思える。
 4日 4
芸の花の基本は、「声」と「みなりー身形」にあるという。「童形―どうぎょう」は幽玄な美しさだが、姿も声も忽ちに移ろうものだ。これを失ったら「まことの花」たる芸を身につけていなくてはならぬという。
 5日 5
童形の先天的美質を失っても、修道により誰でも「花」を持てるという。芸の心の深さへ進む。これは芸だけではない、人間も「内心の感、外に匂ひて面白きなり」という具合にならなくてはならぬのであろう。わが身を顧みて恥ずかしい思いで私は記載している。明日から引用を開始する。
 6日

「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」

秘すれば、それにより花は保ち得る。秘めておかねば、花の効用は消滅する。実に含蓄ある言葉である。

あらわにした場合、大したことではない場合が多い。然し、秘事として味わわれる効用はまた別である。
 7日

「言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべき哉」

物言いが卑しくなく、身の佇まいのいかにも花やかに、優雅な気品と香気ある人を、天性の芸人、達人というべきである。

芸人に限らぬ、人間そのものの魅力の源泉でもあろう。芸格と人格の融合した気品,香気ある花やかさが達人の証と見た。

 8日 「稽古は強かれ、情識はなかれと也」 稽古は厳しくあれ、我意を立て固執しないほうがよい。

我意を張れば芸域が狭くなる。人間もその通りであろう。

 9日 7才
「その者自然とし出だす事に、得たる風体あるべし」
その子供が自然として出す事の中に、自ずと独特の良さを持った風体があるものだ。 子供の本性・本質・天来の美質を磨く中に最も自然な個性が育つ。
10日 12―13才より
「先づ、童形なれば、何としたるも、幽玄なり」

少年の姿だから、何をしようとも幽玄で花めいている。

生来の美質が賞でられている時期、得意の気分で勤める時期こそ大切。

11日 17−18才より
「一期の堺ここなりと、生涯にかけて、能を捨てぬより外は、稽古あるべからず」
17−18才となったら、一生の運命を決定する境目はここであると、大勇猛心を奮い起こし、どんな事があろうと一生能を捨てぬ覚悟を持ち稽古するほか方法はない。

少年期の得意が次々に失せて行く青年期の覚悟と努力が一生を決定する。将に人生の教訓と真理。

12日

24―25才
「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心也」

一時的な珍しさ、面白さにより賞美される花に過ぎないのに、本物としての評価と錯覚する心が、真実の花から愈々遠ざかる。

能だけではない、人間も大概の人がこの時分の花の持て囃しに酔い、この一時的な花が散ってしまうものであるのに気づかない。

13日

34−35才
「若し、此時分に天下の許されも不足に、名望も思う程なくは、いかなる上手なりとも、未だまことの花を極めぬ為手
―してーと知るべし」

もし30代半ばになっても、世に認められず世間の評判も思う程でなければ、いかなる上手であろうとも、まだまことの花を極めていないシテと思うがよい。 壮年期に頭角を現し得ない者に真実の花はないということか。一般的な人生でも首肯できる。
14日

44−45才
「此比
―このころーよりは、能の手立、大方替るべし。たとひ、天下に許され、能に得法したりとも、それにつきても、よき脇の為手を持つべし」

44、45才からは、能の仕様は大いに変わるべきだ。例え天下に名人として許され能の真髄に達していても優秀な、助演者を持つことが大切である。 功なり名を遂げて後、有力な助演者を持つことの強みは芸にゆとりを生み、身を砕く熱演とは違った豊かさを生む。
15日

五十有余
「この比よりは、大方せぬならでは手立てあるまじ」

五十過ぎてからの舞台的成功の秘訣は、大方「芸をしない」という方向を取る以外に致しようもない。 助演者に花を持たせる方法から「せぬ」方法へ。然し、それは、せずして花たる究極の芸への志向でもある。
16日

五十有余ー「老骨に残りし花」

老いの身に残った幽玄な味わいこそ、まことの花というべきもの。 芸の窮極を身に悟っている者は、芸をせずしてなお、芸の極致を感受させる。
17日 「似事―にせごとーの人体によりて、浅深あるべきなり」 ―物まねをするにも、似せる対象の人物により、細部まで似せるのがよいとばかりは言えない。

物まねと雖も、芸は品位の落ちるところまで写してはならぬ。

18日 「女懸り、仕立をもて本とす」

女の風姿は、衣装やその着様、身のもちようなどをもって基本とする。

世阿弥時代の女人への憧れは幽玄無上の美にあった。臈たけた女人の風情は衣装の着付けようによって先ず生まれでる。

19日 「老人の立振舞、老いぬればとて、腰膝を屈め、身を約―つーむれば、花失せて、古様に見ゆるなり」 老人の立振舞は、年老いているからと言って、腰膝を屈め、身を縮めては花もなくなり、いかにも古臭い型にはまった風体になってしまう。

老体の心の味わいである。若やぎを秘めて「老い木の花の咲かんが如し」という気分を感じさせる所にある。

20日 「能の位上らねば、直面―ひためんーは見られぬ物也」 能の芸力、品格などが高く達していない者の直面―素顔のシテ役―は見ておられない。能に置いては素顔をも「面」と考え、その直面に能の位の到達度を見た。 美貌もさることながら、芸格の深さも顔に鑑賞するものがある。
21日 「此道の、第一の面白尽くの芸能なり。物狂の品々多ければ、この一道に得たらん達者十方へ渡るべし」

物狂いは能の中でも第一と言ってよい程の興味尽くせぬ分野。

それらに上達してこそ芸域も広くなり、どんな風体をも演じこなせるようになる。
22日

「修羅の狂ひ、ややもすれば、鬼の振舞になる也。又は、舞の手にもなる也」

修羅闘争の激しい狂いの所作は、どうかすると鬼の所作と同様になり易く、時に又舞の型にもなってしまう。

修羅道に苦しむ武者の姿は、半端な芸域に揺れ動いていた。
23日

「何となく怒れる粧ひ―よそおいーあれば、神体によりて、鬼懸りにならんも苦しかるまじ」

神の風体は何となく「怒りの様相」があるので、神の性格によっては、鬼の風になってもよい。

神と鬼は憤怒の相において近似。差は紙一重で、芸能に於いては神は舞うが、鬼は舞わない。

24日

「鬼の面白からむたしなみ、巌―ゆはほーに花の咲かんが如し」

恐ろしい鬼の風体でありながら、なお面白いという演じ方は「巌に花が咲いたようだ」という味わいを出すことだ。

巌のようなゴツゴツした鬼の能だけを得意とするのでなく、幽玄無上の花やかな風情を常の印象に残しながら、折を得て鬼をする、この珍しさが鬼の能の花である。人間、人生にも含蓄と余韻のある話である。

25日 「陰陽の和―くわーする所の境を、成就とは知るべし」

陰陽和合の境地に物事が成功する秘訣があると心得るのがいい。

陰気の支配する場合には、人間の営為により陽気の活力を加え、陽気の支配する場には、沈静の陰気を配する工夫が大切。実に感銘的で実用に供せる真理。

26日 「一切の事―じーに序破急あれば、申楽―さるがくーもこれ同じ」 物事には序破急の流れがあるからは申楽にもこれがあるのは当然である。

元来、序破急は舞楽用語、事の順序の運び方に適応させつつ、まことに日本的な好みを代表する推移の表情を見せている。

27日 「能をせん程の者の、和才あらば、申楽を作らん事、易かるべし。これ、此道の命也」

能を舞う程の者で、和歌・和学の才能があれば、能を創作する事も困難ではない。その上、能作はこの道において命ともいうべきものだ。

和才あらば・・・、現代人の和才は余りにも衰微している。

28日 「本説―ほんぜつー正しく、珍しきが、幽玄にて、面白き所あらんを、よき能と申すべし」 典拠がしっかりしていて、珍しみがあり、幽玄な趣きもあって面白さもある。そういうものを「良い能」というべきであろう。

由緒ある典拠を求めた創作態度は申楽の格調を高め、古典主義といってよいような一方向を決定した。

29日 「いかなる名木なりとも花の咲かぬ時の木をや見ん。犬桜の一重なりとも、初花のいろいろと咲けるをや見ん」

どのような名木でも、花の咲いてない時の木を面白く思うだろうか。又、犬桜の一重の花でも初花が色々と咲き誇っている珍しさを面白く思わない者があろうか。

ささやかではあっても、時を得て咲く花は、時として花咲かぬ名木を圧倒する。

30日 「ただ花が能の命なるを、花の失するをも知らず、もとの名望ばかりを頼まん事、古き為手の、返す返す誤りなり」

花が能の命であるのに、その花がわが身から消滅してゆくのを気づかず、もと得た名声ばかりに頼っている事は、この道に長く在るシテの態度として、誤りである。

昔の名声は甘美だが、一気に古びさせる。「いま」の新鮮な面白さが芸の命なのだ。

31日

「花だに残らば、面白き所は一期あるべし」

その身の「まことの花」さえ残っていたら老いて技は落ちても、芸力による面白さは生涯消えない。

芸は技によって決まらない。技は種なのであり、花は心あって咲くもの。「花とはなにか」の工夫は一生を支配する。