雪彦山--海抜915.2

関西百名山 登山記録 雪彦山 海抜915米
平成13年3月24日 土 快晴
参加者 清水、繁益、安東、長戸、高橋、徳永

雪彦山という名前を初めて聞いたのは、もう十数年前のことであろうか。ゆきひこ山と心の中で呼んでいたが、せっぴこさん、が正しい読み方であるのを知ったのは数年前のことであった。ゆきひこ山は、優しい響きがあり、なだらかな緑多いイメージを持っていた。せっぴこさん、と聞いて山のイメージが変わったことは確かである。彦は男を示す意味がある。それ以後は,きっとこの山は男性的な風貌を備えているに違いないと空想していた。15年前に住友を退職して鳥取の銀行に勤めたが宝塚の自宅と月来金帰であった。播州路を経て摂津の国と因幡の国を往復する度に、この雪彦山に私はいいしれぬ憧れを積み重ねイメージを膨らませてきていた。
雪彦山直下のバス終点近くの山裾は山陰を彷彿とさせる暗い杉林で山陽道のイメージではなかった。バスから垣間見た雪彦山にアットと声を出した。将に水墨画の世界が天高く毅然としていた。鎧立つ老武将の威風を感じた。屹立であり一切の情緒を峻拒するたたずまいであった。やはり彦山なのである。聞く処によれば日本三彦山の一つとして信仰の対象とされたのは頷ける。我々はいきなり一喝をくらった思いであり、圧倒され、刺激され凛々とした勇気が湧き出でてくる思いであった。会長がおられたらと一入切に思う。

山裾を左に巻いて進むのだが、いきなり岩の多い急峻であり軟弱を許さない。山は春気を孕んでいるらしいが胎動の予感すらない。行者堂跡を過ぎるとやがて前方に大巨岩が天を覆っていた。出雲岩の下である。これほどの巨石を至近に見たのは過去にもない。大杉谷の平等ーは遠望であった。巨岩を、いわゆる三点固定で這い上がる、油断は出来ない。やがて、実に太い鎖の5メートルの鎖場がある。女性が難渋していた。ここを上がれば展望が開けて素晴らしい。春機の胎動している世界が広がっていた。然し、ここも束の間で次は二つの巨岩の割れ目を通り抜けるのだがリュックを背負っては通れない。抜け出で次の人が漸く岩の割れ目から出でくる姿は人間誕生の姿に見えた。続いて岩場の馬の背登りとなる。岩の登りは慎重である。登り詰めると大天井岳であった。ここは岩場の頂で社があり素晴らしい展望が眼下に広がっている。雪彦山の山頂と言うに相応しい。瀬戸内から六甲山系が見えた。ここから先の北は熟練者クラスの下山道らしい。我々は計画通りに進む。雪彦山915米の三角点は予想通り風采の上がらぬ山であつた。北東に道があり一旦峠に下りた。再び登りとなるが淡々としたものであった。杉林なので暗い。やがて鉾立山、海抜942米と本日最高の山である。下山は中々のもので岩場の連続であった。虹ガ滝周辺の渓谷と紅葉は素晴らしいものであろう。この秋には会長と再び挑戦したいと心からおもった。最後に、雪彦山への私の多年の思いに彼は決して裏切らなかったことを指摘しておかねばならない。
余話

私は会長のアドバイスもあり前日は姫路に泊まり姫路城と歴史博物館を見学すべく午後2時頃森川会長に電話しお元気な声を拝聴した。さて、当日の快晴は言うを待たない、バス乗り場で清水氏が早々と到着された。ご子息の宅で一泊され歴史博物館を見学された由。月山会も新幹線で乗り入れとはローカルの域を越えつつあるなと感じつつ皆を待つ。処が会長が欠席と知る。これは一大ショックであった。興奮が到底やまなかった。想像外の出来事であった。全員が心から早期のご回復を祈る。今回の初参加は安東氏の同僚友人の高橋敬治氏であった。