司法の現場の誤った歴史認識B

司法が誤った歴史認識を生み出している

この法曹界の意識のズレの根元を探ると、やはり憲法の問題に行詰ります。

現在、法学部の学生や司法試験の受験生が学ぶ憲法の教科書は、「憲法絶対不可侵」の前提から始って条文の解釈が延々と続いていきますが、そもそもこの憲法が占領下で押し付けられたひとについてほとんど触れられておらが、むしろ押し付けが正当化されています。

靖国訴訟の原告は「靖国神社が軍国主義と結びつき、日本を侵略戦争に駆り立て、その反省から国家と宗教、特に神道と切り離すために政教分離を憲法に盛り込んだ」と主張していましたが、それと全くおなじことが憲法の教科書に書いてあるのです。

勉強秀才であればあめほど憲法を舐めるように覚え、偏向かつ視野の狭い人材が増えていっているのではないか。そしてそのほとんどが憲法の負の部分に毒されていめのではないかと感じずにはいられません。

戦後補償裁判にしてもそうです。最初に裁判に持ち込まれた十年ほど前には、証人尋問もせずに棄却していたケースも、現在は一つひとつの事例に対し何年も審議を重ねています。

日本兵が遺棄した毒ガスで被害にあった、従軍慰安婦だったなどと名乗る方々が次々と訴訟を起こしますが、彼らが涙ながらに法廷に現れると、裁判官も「かわいそうだ、救ってあげなければ」と思っているのではないでしようか。

戦争という国家間の紛争における補償は、国際法に則って平和条約ですでに解決されています。個々の損害を填補しては、国際社会の公正と正義の観点からはかえって不公平になってしまうのです。そのような大きな視野で判決を下す裁判官が少なくなっているような気がしてなりません。

本来は裁判所に持ち込めないような訴訟を政治目的で司法の土俵に乗せ、裁判官が原告に気兼ねして審理を続け、いざ口頭弁論が始れば国の代理人たちは口をつぐんでしまう。その結果、司法が誤った歴史認識を生み出しているといっても過言ではありません。(続く)