正法眼蔵 3しょうぼうげんぞう
正法眼蔵第二巻・摩訶般若波羅密
時に天福元年夏安居の日観音導利院に於て解く。寛元二年三月二十一日、越州、吉峰寺侍者寮に於て之れを写す。道元

 1日 正法眼蔵
第三 仏性

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易。

釈尊が言われている。「一切衆生には、悉く仏性がある。仏の本質は常住で、変わることがない」

 2日 これわれらが大師釈尊の師子吼−ししくーの転法輪なりといへども、一切諸仏、一切祖師の、頂にん眼ぜいーちんにんがんせいーなり。参学しきたること、すでに二千百九十年、当日本仁治二年辛丑歳、正嫡わづかに五十代、至先師天童浄和尚、西天二十八代、代々住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。

これは偉大な師、釈尊の力強い教えであると共に、凡ての諸仏、及び歴代の諸祖の根本精神である。この教えを学んで既に二千百九十年(仁治二年、1241年まで)、正しい後継ぎは僅かに五十代(先師天童山如浄禅師まで)、インドに二十八代、中国に二十三代の諸仏たちが、代々に亘ってこれを伝えて来たのである。諸方の諸祖たちも共にこれを伝えて来たのである。

 3日

世尊道の一切衆生悉生有仏性は、その宗旨いかむ。是什麼物恁麼来―ししもぶついんもらいーの道伝法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。悉有−しつうーの言は、衆生なり、群有−ぐんうー也。

釈尊の言われる「一切衆生には、悉く仏性がある」ということばの真意は何であろうか。それは「名づけることのできぬ何ものかが明らかに現前している」ということである。あるときには「衆生」といい、あるときには「有情」といい、あるときには「もろもろの生物」、あるときには「もろもろの生類」というのはみな衆生のことであり「一切存在のことである」。

 4日

すなわち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時―しゃうたういんもじーは、衆生の内外―ないげーすなはち仏性の悉有なり、単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄―にょとくごひにくこつずいーなるがゆへに。

つまり、一切存在の凡てを衆生というのである。そのとき衆生の内も外も、悉くが仏性である。なぜならば、仏性は師から弟子に伝えられるばかりでなく、凡てのものに同時に伝えられるからである。

 5日

しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。
悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼晴
―ぶつそがんぜいーなり。
衲僧鼻孔
―なつそうびくうーなり。

ここにいう、仏性が悉く衆生であるという「ある」とは、有無の有ではないことを知るべきである。「悉くある」ということは、仏のことばであり、仏の舌であり、諸仏の眼であり、諸仏の鼻なのであって、解脱によって始めて体験されることである。

 6日

悉有の言、さらに始有にあらず、本有―ほんぬーにあらず、妙有等にあらず。いはんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。

ここにいう仏性は、今始めて有るものでも、本来有るものでもなく、有無を超えて有るものでもない。まして、縁によって有るものでも、迷いによって有るものでもない。また、心や対象、本質や外面的性質というように、限定して考えられるものでもない。

 7日

しかあればすなはち、衆生悉有の依正―えしょうー、しかしながら業増上力―ごうぞうじょうりきーにあらず、妄縁起―もうえんぎーにあらず、法爾―ほうにーにあらず、神通修証―じんづうしゅしょうーにあらず。

従ってそれは、過去の行いによって生じるものでも、迷いによって生じるものでもなく、自然に生じるものでも、神通力によって生じるものでもない。

 8日

衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼晴も、業増上力および縁起法爾なるべし。

もしそのようなものであるならば、聖人達の悟りの道、諸仏の悟りの眼も、過去の行いによって有るもの、迷いによって有るもの、自然に有るものとなろう。

 9日 しかあらざるなり。尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休なるがゆへに。 しかしそうではない。仏性は少しもまじりけのない全体であって、この世界には仏性以外の、何ものも無いのである。なぜならば、それが凡ての思慮分別を超えて、何ものとも対立しないからである。
10日

妄縁起の有にあらず、へん界不曾蔵−へんかいふすんざうーのゆへに。へん界不曾蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。へん界我有は外道の邪見なり。

仏性は妄想の結果現れるものではない。それが、普く世界に隠れないからである。しかし、普く世界に隠れないということは、世界が一つの自我によって成り立っているということではない。世界が一つの自我によって成り立っているというのは、バラモンの誤った考えである。
11日 本有の有にあらず、亘古亘今―くわんこくわんこんーのゆへに。始起の有にあらず。 是什麼物恁麼来のゆへに。倏々−しゅくしゅくーの有にあらず。合取のゆへに。
12日

仏性は本来あるものではない。それが時を超えているからである。仏性は今ことさらに始るものではない

それが塵一つも加えないからである。仏性は一つ一つあるものではない。それが普遍的なものだからである。
13日 無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆへに。始起の有にあらず、吾常心是道のゆへに。まさにしるべし。悉有中に衆生快便難逢―くわいびんなんふーなり。悉有を会取−ういしゅーすることかくのごとくなれれば、悉有それ透体脱落―てうたいとつらくーなり。 仏性は始めを持たないものでもない。何ものかが、ここに現前しているからである。仏性は取り立ててあるものではない。平常心が仏道だからである。このように、仏性が何ものとも対立するものでないことを知るべきである。このように仏性を理解するならば、仏性は何ものにも囚われず、なにものにもこだわることがむないであろう。
14日 仏性の言をききて、学者おほく先尼―せんにー外道の我のごとく邪計せり。それ人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆへなり。 仏性のことばを聞いて、修行者達の多くは、バラモンの哲学者先尼の唱えた「永遠の我」のように誤って考える。それはまことの人に逢わず、まことの自己に逢わず、まことの師に見−まみーえないからである。
15日 いたづらに風火の動著―どうぢやーする心意識を、仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。 そのような者達は徒に、身心の活動による知覚作用を、仏性の覚知、分別であると思っている。誰が、仏性に覚知、分別があるといったか。たとえ覚者、知者を仏というとしても、仏性そのものは覚知でも分別でもない。
16日 いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云々の邪解―じゃげーを覚知とせず、風火の動静―どうじやうーを覚知とするにあらず。ただ一面の仏面祖面、これ覚知なり。 まして、仏を覚者、知者という時の覚知は、そのような者達が考えているように、知覚作用を覚知というのではない。ただ諸仏の各の、思慮分別を超えた働きが、まことの覚知なのである
17日
いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云々の邪解―じゃげーを覚知とせず、風火の動静―どうじやうーを覚知とするにあらず。ただ一面の仏面祖面、これ覚知なり。
むかしから古老先徳達が、インドに学んだり、人々を導いたりしてきた。そのような例は、漢代から宋代に至るまで数限りない。その多くは、身心の活動が、仏性による知覚であると思っている。哀れむべきことである。仏道を学ぶことがおろそかであるから、そのような誤りを犯すのである。
18日 いま仏道の晩学初心、しかあるべからず、たとひ覚知を学習すとも、動著にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。 いま仏道を学ぶ者達は、先輩であろうと後輩であろうと、そのような考えを持ってはならない。たとえ覚知を学んでも、仏性の働きはそのようなものではない。それに捉われることなく、まことの働きを理解するならば、まことの覚知、分別を理解するであろう。
19日 仏之与性、達彼達此なり。仏性かならず悉有なり。悉有は仏性なるがゆへに。悉有は百雑砕―はくざつすいーにあらず、悉有は一条鉄にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と斉肩―せいけんーなるべからず。仏性と斉肩なるべからず、仏性と斉肩すべからず。 仏とその仏性は一つである。そしてその仏性は万物に亘っている。なぜならば、万物が仏性だからである。仏性はこなごなでもなく、固まってもいない。それは凡ての対立を超えて現前しているのであるから、大きくもなく小さくもない。一度仏性と名づけるからには、仏と対立させてはならない。仏性そのものと対立させてもならない。
20日 ある一類おまはく、仏性は草木の種子―しゅうじーのごとし、法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長―げきやうしゃうちょうーし、枝葉花果―しえふけくわーもすことあり、果実さらに種子をはらめり。 ある一派の者達は思っている。「仏性は草木の種子のようなものである。仏の雨が湿し、度々地を湿すことによって、芽、茎が生長し、枝、葉、花、果実ができる。そして果実は、その中に種子を孕んでいる」
21日 かくのごとく見解―けんげーする、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条々の赤心なりと参究すべし。 このような考えは凡夫の考えである。たとえそのように考えても、種子も花も果実も、その全体が、まじりけのない仏性であることを学ぶべきである。
22日 果裏に種子あり、種子見えざれども、根茎−こんきゅうー等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる。内外―ないげーの論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。 果実の中に種子があり、その種子は見えないが、そこから根や茎を生じて、自然に大枝、小枝を茂らせる。しかし、仏性は内にあるのでも外にあるのでもなく、古今を通じて現前しているのである。従って、例え今の凡夫の考えを認めるとしても、根も茎も葉も、みな共に一体なのであって、共に悉く仏性なのである。
23日 仏言、欲知仏性義当観時節因縁。時節若至、仏性現前。 釈尊が言われている。「仏性の意義を知ろうと思えば、時節の因縁を観じ明らめるべきである。時節因縁がもと到来すればー客観の現象と主観の要素が具備し一致する時―仏性は現前する。
24日 いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず。 ここで「仏性の意義を知ろうと思えば」というのは、それをただ知的に理解するばかりでない。知ることである。
25日 行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかむとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。 自己が実践して知ることであり、悟って知ることであり、解脱して知ることである
26日 かの説・行・証・亡錯・不錯もしかしながら時節の因縁なり これについても説き、行い、悟り、否定し、誤解し、あるいは誤解しないことも、いずれもみな、時節因縁である
27日 時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。払子(ほっす)挂杖(しゆぢやう)等・をもて相観するなり 時節因縁のことを観ずることは、無我の上に立って主客一如の体験によるのである。払子(白旄を束ね柄を付すもの、始め僧の蚊払の具、後に導師の表徴として用いる)や挂杖(導師の持つ杖様の棒)によって時節因縁を観ずるのである。
28日 さらに有漏智(うろち)・無漏智、本覚・始覚・無覚・正覚等の智をもちいるには観ぜられざるなり。 そのほかの迷いの智、迷いを脱した智、本来具えている仏智、修行によって始めて仏智の真相を自覚する。
29日 当観といふは、能観・所観にかかはれず、正観・邪観等に準ずべきにあらず。 何によって観取するかというと、ただ時節因縁によとってのみ観じ取られる。それはいかなるものこども皆時節因縁、即仏性の外はない。悟りをこえた悟りなどの智によるばかりでは明らかにすることはできないのである。
30日 これ当観なり。当観なるがゆへに不自観なり。不他観なり。時節因縁にいなり、超越因縁なり。仏性にいなり、脱体仏性なり。仏々にいなり、性々にいなり 「当に観るべし」というのは、見るものも見られるものといった差別をこえ、正しい見方、誤った見方といった基準によらず、観が観としてありのままにそれを明らかに観ることである。ありのままに観るのであるから当に観るのである。観の外何ものもない。自己がそれを明らかにするのでもなく、他の者がそれを観るのでもない。それは時節因縁の到来万物みな悉く時節であり、またそれら自らそのものであり、到来することをこえた到来である。仏性そのものであり、仏性の解脱の境地である。覚者そのものであり、本質そのものである。