正法眼蔵 5

平成17年 8月

 1日 しかあれども、父にうけず、祖にうけず、母氏−もしーに相似ならず、傍観に斉肩ならんや。

それは父から受け継いだものでもなく、祖父から受け継いだものでもなく、母方の周氏の姓名を受け継ぎながら、さらにもっと深い意味を持つものであり、他のものと是れを比べることはできようか。それは、常識で考えている姓でない、もっと根本的なものの姓名仏性なる姓名であると答えたのである。

 2日

四祖いはく汝無仏性。いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども無仏性なりと開演するなり。

四祖が「お前に仏性などない」と言ったそのばあいの「お前」と言ったのは、特定の五祖のことではない。それをいまここでなんじと言っているのであるが、それは仏性を言っているので、ここの修行者たちはこれについてよくよく参究すべきである。
 3日

しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか,仏向上にして無仏性なるか。

いまはどのようなときを無仏性というのであろうか。仏に囚われない仏を無仏性というのであろうか。自由自在の境地をいたずらにさぐり求めてはならない。
 4日

七通を逼塞することなかれ。八達を模索することなかれ。無仏性は一時の三昧なりと修習−しゅうじゅうーすることもあり。仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし。

無仏性し一時の禅定であると理解する者もいる。あるいは、仏性の成就したときに無仏性となるのであろうか。仏性が発心したときに無仏性となるのであろうかと問い、そして説くべきである。
 5日

露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし。仏性をしても問取せしむべし。しかあればすなはち、無仏性の道―だうー、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅―わうばいーに見聞−けんもんーし、趙州に流通―るづうーし、大いに挙揚−こようーす。

露柱(本堂の丸柱)にも質問させなさい。露柱にも質問させなさい。従って無仏性という言葉は古くから云われてきたが、そのもとをたづねると、はるかに四祖が5祖に答えた語から出たといわれている。それが更に、五祖の黄梅山に伝えられ、また「大い」によって説かれたのである。
 6日

無仏性の道、かならず精進すべし、しそすることなかれ。無仏性たどりぬべしといえども、何―かーなる標準あり、汝―にょーなる時節あり、是なる投機あり、周なる同姓あり。直趣−ぢきしゅーなり。

この無仏性の言葉について、必ず努力参究して体験すべきである。滞りがあってはならない。無仏性の言葉はこのようにさまざまな禅者にさかのぼることは出来るけども、その標準となるのは、四祖が五祖に「何という姓名だ」と問うたことに始まり「お前は」と問われた時節によって無仏性現前であり「是れ」として一切のものごとを究明することができる。それが無仏性の現前である。
 7日

五祖いはく仏性空故―ぶつしゃうくうこー、所以言無―しょいごんむー。あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。

そこで五祖は「なるほど無仏性でありますが、なぜ「無」といふのかというと、仏性は空ですからゆえに空というのです」と答えたのである。この五祖の言葉の中に明らかに言われているように、空は「無」いではない。
 8日

空なるゆへに空といはず、無なるゆへに無といわず、仏性空なるゆへに無といふ。しかあれば、無の片々は空を道取する標榜なり。

その仏性は「空」であるというそのことを、言葉で表現するのに半斤といわず、八両といわずとは、八両とか半斤という同じ目方の量をちがった言葉で表現するようには「空」を表現できないということである。八両とかいう数量では空の表現にはならないから「無」というのである。ただ仏性は空をいうのに、空とのみいっては意味をなさぬから「無」と言ったのである。従って、無の形をこえているから形をこえているというので、それは空を言い表す標榜(しるし)である。空は無をいい表わす。
 9日

空は無を道取すする力量なり。いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色を強為―ごういーして空とするにあらず、空をわかちて空を作家―そかーせるにあらず、空即空の空なるべし。

五祖が仏性空といったのは、四祖のいった「無仏性」を端的に表現する力量(手段)である。ここにいう「無を把む力量手段」なる空は「色即是空」の空ではない。何故なら「色即是空」の時の空は、色に対する意味を持っているが、今の場合の「空」は、仏性空の時は、色と相対しての意ではない。色即是空の語の真意は、色の存在するのを無理やりに空とするのではない。空の根本義は「空是空」の意味における無のことである。
10日

空是空の空といふは、空裏一片石なり。しかあればすなはち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖・五祖、問取道取。

空是空というのは、空は空なる故に空というのではなく、空は「是」として空であるとの意味である。「空裏一片石」である。即ち意は仏性の空を目方の量のように八両目といわが、半斤といわない。「無」というのである。こういえば明瞭となる。空であるから半斤、八両目というよび方が変っても、同じ量を言っている名である。
11日

空を体得するに、例えば、「空」は「虚空」であるといっても体得はできない。空でない言葉で表現しなければならない。でないと単に抽象的な概念の固定に過ぎぬ。このように「仏性の空」ということを「空」というだけでは

内容を言い尽くせないから「無」というのである。この道理から即ち「空なる故に空といわず」というのである。それを空を空といっても意味をなさぬから、このような表現をするのである。故に仏性は空だから無というのである。
12日

空を体得するに、例えば、「空」は「虚空」であるといっても体得はできない。空でない言葉で表現しなければならない。でないと単に抽象的な概念の固定に過ぎぬ。このように「仏性の空

」ということを「空」というだけでは内容を言い尽くせないから「無」というのである。この道理から即ち「空なる故に空といわず」というのである。それを空を空といっても意味をなさぬから、このような表現をするのである。故に仏性は空だから無というのである。
13日 また「空はものごとである」時の意味とは異なる。なぜというに、色即是空という時は、その空に対しての空の意ではない。仏性空の空は色即是空という言葉を根本的な観点から観る時は、色を無理やりに空とするのでない。 眼前の存在を無理やりに空と観るのではない、また空と言うものがそこにあるのにそれを一部とり出して色とするという意味で空即是色というのではない。色即是空というのは観念的な否定であるが、有仏性と言えば,有ることら囚われる。
14日

固定されたものを仏性とはいえぬから無仏性というのである。有仏性即無仏性という処に本性の仏性がある。空はものの無自性であるという表現で、色なる差別の相は否定されているから「是」は、概念的な空、

空虚でなくして、色そのままの差別の相として存在する、即ち色は空の中にそのままあるという意味である。従って、仏性の無と、仏性の有とについて、四祖と五祖が問うたりこたえたりしているのである。
15日

震旦第六曹渓山大鑿禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖とふ、「なんじいづれのところよりかきたれる」六祖いはく「嶺南人なり」五祖いはく、「きたりてなにごとをかもとむる」六祖いはく「作仏―さぶつーをもとむ」五祖いはく、「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」

中国の六祖、曹渓山大鑑禅師(慧能)が、五祖弘忍の黄梅山に始めて参じたときに、五祖が問うた。
おまえはどこから来たのか」「嶺南のものです」「なにしにきたのか」「仏になりたいと思って来ました」五祖が言った。「嶺南のものは無仏性である。どうして仏になどなれるものか」

16日

この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人無仏性となり。いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏をか期−ごーするといふなり。

ここにいう「嶺南のものは無仏性である。」という言葉の真意は、嶺南のものには仏性がないというのでも、仏性があるというのでもなく、無仏性を学びなさいというのである。「どうして仏になることができようか」ということばの真意は、仏になれぬというのではなく、どのようにして仏になろうとするのかと励ましているのである。
17日

おほよそ仏性の道理、あきらむる先達―せんだちーすくなし。諸阿笈摩教―あぎふまけうーおよび経論師―きやうろんじーのしるべきにあらず。仏祖の児孫のみ箪伝するなり。

およそ仏性の道理を明らかにした先人は少ない。それは小乗のものや仏教哲学者たちの知るところではなく、諸仏の子孫だけに伝わる
18日

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理よくよく参究すべし。三二十年も功夫参学すべし。十賢三賢のあきらむるところにあらず。

仏性は、我々が仏となる前に具わっているのではなく、仏と成った後に具わるのである。仏性は必ず、我々が仏となると共に生ずるのである。この道理を、よくよく身をもって学び究めるべきである。三十年二十年と、学ぶべきである。このことは、修行中の求道者たちの明らかにしえないことである。
19日 衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する、正的なり。

衆生に仏性があり、衆生に仏性がないというのは、このようなことである。それは、仏性は我々が仏となってから後に具わるものである。ということを学ぶための正しい目やすとなる教えである。

20日 かくのごとく学せざるは、仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあくらめず、見聞せざるなり。このゆへに、五祖は向他道するに、嶺南人無仏性と為道するなり。 このように学ばないのは仏法ではない。もしこのように学ばないならば、仏法は今日に至らなかったであろう。もしこの道理を明らかにしないならば、仏になるということの意味を明らかにせず、見聞しにいであろう。それだから五祖が相手に向かって「嶺南のものは無仏性である」といったのである。
21日 見仏聞法の最初に、難得難聞なるは衆生無仏性なり。惑従知識、惑従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。 我々が仏祖に見−まみーえ、仏道を学ぼうとする始めに、得難く聞き難いのは、衆生無仏性のことばである。あるいは勝れた師に従い、あるいは経巻を学ぶとき、聞いて歓ぶべきは衆生無仏性のことばである。
22日

一切衆生無仏性を見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善功―ぜんげうーなし、ただ嶺南人無仏性といふ。

このことばを見聞し、理解していないのだある。六祖がひたすら仏となることを求めた時に、五祖が六祖を仏とならせるのに、外のことばや方法を用いず、ただ「嶺南のものは無仏性である」と言ったの
23日

しるべし、無仏性の道取間取、これ作仏の直道―ぢきどうーなりといふことを。しかあれば、無仏性の正当恁麼時、すなはち作仏なり。無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。

このように、無仏性について言ったり聞いたりすることが、仏となるための単的な方法であることを知るべきである。無仏性ということがわかったときに、仏となるのである。このことばを、未だ見聞せず、理解していないものたちは、まだ仏となってはいないのである。
24日

六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。この道取を挙して、句裏を功夫すべし。南北の言―ごんー、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得―だうてーの句に宗旨あり。いはゆる、人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずといふ一隅の搆得−こうてーあり。六祖これをしるやいなや。

これに対して六祖が答えている。「人に南北はあっても、仏性に南北はないでしょう」このことばの真意を学ぶべきである。南北ということばを、まじりけのない気持で見究めるべきである。六祖の言った言葉に学ぶべきところがある。それには、人は仏になることができるが、仏性そのものは仏になることができないから、仏性はそのまま無仏性である、という隠れた意味がある。六祖はそれに気がついていたのであろうん。
25日

四祖・五祖の道取する無仏性の道得、はるかに?礙−けいげーの力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有仏の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。

四祖、五祖のいう無仏性の言葉は、すべての時を覆い尽くす力を持っている。それによって釈尊やその前後の仏たちが、仏となって説法するに当たって、「一切の衆生には、悉く仏性がある」と述べる力を持つのである。「仏性がある」ということが、「仏性がない」という理解によって、始めて意義をもつのである。
26日

しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖・五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。

そのため、無仏性ということが、四祖・五祖によって説かれているのである。このとき六祖が真実を悟っていたならば、この無仏性ということばを、もっと追究すべきであった。
27日

有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし、なにものかこれ仏性とたづぬべし。いまの人も仏性とききぬれば、さらにいかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし。これ倉卒なり。

「有無の無ということは別として、無仏性ということはどういうことでしようか」と尋ねるべきであった。今日の修行者たちは六祖と同じく、仏性のことばを聞くと、仏性とは何であるかを問題とせずに、仏性の有無について論ずるがこれは軽率である。
28日

しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、ひさしく再三撈?―らうろくーすべし。まさに撈波子―らうばすーに力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、しづかに拈放−ねんばうーすべし。

従って、「凡てのものが無である」という無は、無仏性であることを学ぶべきである。六祖のいう「人に南北はあちつても仏性に南北はない」ということばの真意を、いつまでも、ねんごろに学ぶべきである。力を入れて学ぶべきである。このことばを静かに我物として、それから自由になるべきだ。
29日

おろかなるやからおもはくは、人間には質礙―ぜちげーすれば南北あれども、仏性は虚融―こゆうーにして南北の論におよばずと六祖は道取せりけるかと推度−すいたくーするは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却−ほうぎゃーして、直須勤学すべし。

愚かな者たちが、「人間には形があるから南北があるが、仏性には形がないから南北を論ずるには及ばないという意味であろう」と推量するのは、わきまえのない妄言である。このように誤った見解をなげうって、まっしぐらに、学び励むことである。

閑話休題      哲学者・田辺元     

田辺元は私の青年時代、愛読した。
30日

私は道元の思弁の深さ綿密さに打たれて、日本人の思索能力に対する自信

を鼓吹せられた。私は道元に対する感激と驚嘆とを広く世に伝えることを以って自分の義務であると感ずる。
31日

道元によれば、人生の意味は、生き生きと生き抜くことにある。生命の火を思い切り燃え上がらせ、白熱化し、燃え尽くして消える。一かけらの余燼も残さない完全燃焼、それが道元の意図する人生なのである。

道元は、行動こそ生きている証と考え、行動について「色は目だけで見、音は耳だけで聞く、と思うな。身と心とを一体にして色の中に、音の中に溶け込む時、本当に色が視え、音が聴えるのだ」という。