正法眼蔵 6

平成17年9月

 1日

六祖示門人行昌云、無常者即仏性也、有常者即善悪一切諸法分別心也。

六祖が門人の行昌に説いて言った。「あらゆるものごとが移り変ることが仏性である。移り変らないものは善悪やすべてのものごとを分別する心の現成として自己を顕現するものである」と。
 2日

いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度―しきたくーにあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽−ぐうじんーすべからざるなり。

ここに六祖が言っている無常とは、異教徒たちや小乗の者たちの推し量ることのできないものである。小乗の者たちや異教徒たちの末輩が万象は無常であると言っても、その真意がちがう。彼らに六祖の言うところの無常の真意を究めることはできるはずがない。

 3日

しかあれば、無常のみづから無常を説著―せつぢゃー・行著−ぎゃうぢゃ−・証著―しようぢゃーせんは、みな無常なるべし。今以現自身得度者―こんいげんじしんとくどしゃー、即現自身而為説法―そくげんじしんにいせっぱふーなり、

六祖のように無常の真実を体験会得した者のみが自ら無常を説き、行じ、実証するのであって、無常であることを現しているのである。すなわち、いま、無常の姿によって衆生を救おうとする者に対しては、自分もまたその姿によって教えを説いているのである。
 4日

これ仏性なり。さらに惑現長法身、惑現短法身なるべし。常聖これ無常り、常凡これ無常なり。

これが仏性である。さらに言えば、長いものは長いものとして仏身の姿であり、短いものは短いものとして仏身である。聖人であることは無常であり、凡人であることも無常である。
 5日

常凡聖ならんは、仏性なるべからず。小量の愚見なるべし、測度の管見なるべし。仏者小量身也―ぶっしゃしゃうりょうしんやー、性者少量作也―しゃうしゃせうりやうさやー。このゆへに六祖道取巣、無常者仏性也、

凡人であること聖人であることは常住すなわち永久不変であろうと考えるのは、仏性を理解しないことである。それでは、仏の本質が限定されたものとなってしまう。六祖は「無常のものは仏性である」と言われているのである。
 6日

常者未転なり。未転といふは、たとひ能断と変ずとも、たとひ所断と化すれども、かならずしも去来の蹤跡にかかはれず。

常住なるものは、移り変わらないものである。移り変わらないということは、一切の物事は、たとえ主観として現れるとしても、あるいは客観として現れるとしても、それは決して移り変りあとかたを残さないのである。そのため常住であり永久不変なのである。 
 7日

ゆへに常−じゃうーなり。しかあれば、草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心―にんもつしんじんーの無常なる、これ仏性なり。

従って、草木や林のように無常なるものも仏性であり、人間の身心のように無常なものも、仏性である。

 8日

国土山河−こくどせんがーの無常なる、これ仏性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提―あのくたらさんみゃくさんぼだいー、これ仏性なるん゛ゆへに無常なり。大般涅槃―だいはつねはんー、これ無常なるがゆへに仏性なり。

国土山河も無常であり仏性である。また悟りの智慧も仏性であるから無常である。解脱も無常なのだから仏性である。
 9日

もろもろの二乗の小見、および経論師の三蔵等は、この六祖の道―だうーを驚疑怖畏すべし。もし驚疑せんことは、魔外−まげーの類なり。

もろもろの小乗の者たちや経典学者たちは、この六祖の深慮なる教えを聞いて、驚き疑い恐れるであろう。またもしこれに驚かない者は、魔物のような異教徒のたぐいである。
10日

第十四祖龍樹尊者、梵云那伽閼刺樹那、唐云龍樹、亦龍勝、亦云龍猛。西天竺国人也。至南天竺国。彼国之人、多信福業。尊者為説妙法。

インド禅宗の第十四祖龍樹尊者は、サンスクリット語の名前をナガールジュナという。中国では龍樹あるいは龍勝といい、また龍猛ともいう。西インドの人で、のちに南インドにやってきた。その国の人は、多く現世の幸福を与える教えを信じ行じていた。尊者はそのため、彼らに対して仏のすぐれた教えを説いた。

11日

聞者逓相謂曰、「人有福業、世間第一。徒言仏性、誰能覩之」尊者曰、「汝欲見仏性、先須除我慢」彼人曰「仏性大耶小摩耶」

すると、それを聞いた者は、互いに言い合った。「人には現世の幸福を得るための行いをすることが世間では一番の理想です。それなのに、あなたはいたずらに仏性について説かれますが、だれが仏性なんてものを見ることができるのですか」
12日

尊者曰、「仏性非大非小、非広非狭、無福無報、不死不生」彼聞理勝悉廻初心。

尊者はこたえた。「あなたが仏性を見ようとするなら、まず自分の慢心を除きなさい」その人がたずねた。「仏性は大きいものてですか、小さいものですか」尊者がこたえた。「仏性は大きくも小さくもなく、広くもなく狭くもなく、幸せもなく、報いもなく、死ぬこともなく、生まれることもない」その人々は、このような道理のすぐれた説法を聞いて、初めの心を全く改めた。
13日

尊者復於坐上、現自在身、如満月輪。一切衆会、唯聞法音、不覩師相。

またあるとき、尊者はこの説法の席上、とらわれのない解脱の相好を現わした。それはちょうど満月のようであった。修行者たちはみな、ただ尊者の説法の声ばかり聞いて、尊者の輝かしい姿を見なかった。
14日

於彼衆中、有長者子伽那提婆、謂衆会曰、「識此相否」衆会曰「而今我等目所未見、耳無所聞、心無所識、身無所住」

この修行者の中に、金持ちのむすこの伽那提婆(カーナデーヴア)がいて、修行者の一人にたずねた。「説法中の尊者の満月の如く輝かしいこのお相を拝見しましたか」と尋ねた。修行者はこう答えた。「今わたくしたちは、目に見えず、耳に聞かず、心に知らず、経験したことはありません」 

15日

提婆曰、「此是尊者現仏性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧、形如満月。仏性之義、廓然虚明」

伽那提婆は言った。「このことは尊者が吾々に自在身を現じ仏性を現わしている相で、それによって私達に仏性そのものを示しておられるのだ。さて多くの修行者たちはどうしてそれを見る事が出来るのかといえば、それは仏性の光が身心を貫いて、皓々と外界に輝きわたっているからである」
16日

言訖輪相即隠。復居本坐、而説偈言、身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用辯非声色。

尊者の説法が終わった時、不思議にも満月の相はすぐに消え去った。そしてその時、龍樹尊者はもとのように説法の座にすわつていた。そして偈を説いて「からだは円月の相―すがたーを現し、諸仏の体を表わす説法は形なく、声や相にたよらない。
17日

しるべし、真箇の用弁は声色―しやうしきーの即現にあらず、真箇の説法は無其形―むごぎやうーなり。尊者かってひろく仏性を為説する、不可数量なり。いまはしばらく一隅を略挙するなり。

諸大衆よ知りなさい。真実の説法は、声や相の現れでない。真実の説法は相をもたないものである。尊者が時々に、ところどころで仏性について説いたことは教えることはできないが、今はここではただその一部を示すにすぎないのである。
18日

汝欲見仏性―にょよくけんぶつしょうー、先須除我慢―せんしゅぢょがまんー。この為説の宗旨、すごさず弁肯―はんけんーすべし。見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。

さきの龍尊者の言葉「お前が仏性を見ようと思えば、まず自分の慢心を除きなさい」という言葉の意味を、見過ごすことなく把握し、究めるべきである。ここに言う「仏性を見る」とは、できないことではなく、仏性を見ることそのことは、自己の慢心を除くことである。(自己は我欲であり、慢心は煩悩である)
19日

我もひとつにあらず、慢心も多般なり、除法もまた万差―ばんしゃーなるべし。しかあれども、これらみな見仏性なり、眼見目覩−げんけんもくとーにならふべし。仏性非大非小等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。偏枯に仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくわえきたるなり。

そのとき、自己は一つのものでなく、また慢心もさまざまであるから、それを除くものも多様である。しかし、慢心を除くことは、みな仏性を見ることにほかならない。それにしても一切の慢心を取り去って仏性を体験すれば、万有の一切が悉く仏性であるから、仏性はとりたてて吾々の眼の外にあるのではなく、柳緑花紅、渓声山色、ありのままのものごとのも一つ一つの相−すがたー、「はたらき」にほかならないのである。
20日

大にあらず小にあらざらん正当恁麼時―しゃうとういんもじーの道取に?礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得−すてーするがゆへに、しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし。いはゆる、身現円月相、以表諸仏体なり。すでに諸仏体を以表しきれたる身現なるがゆへに、円月相なり。

「仏性は大きくもなく小さくもなく・・・」という言葉は、世間の一般人や小乗の者たちの用いている同じ言葉にしても、全く趣を異にしていることを知り、混乱して考えてはならない。ただ一方的に、仏性は広大無辺の神秘的な超現実的な存在であろうと思うのは、誤った考えをもってきたからである。
21日

しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。身と現とに転疎なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。

仏性は大きくも小さくもないという。まさにその言葉によって言い尽くされた道理を、いま聞いたことのように理解すべきである。その言葉を理解し体得することは、そのまま仏性を行い現わすことになる。

22日

愚者おもはく、尊者んりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承―さうじようーせざる儻類―とうるいーの邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。

しばらく、尊者の説いた偈文について学ぶべきである。ここにいう「からだは満月の相を現わし、よって諸仏の体を表わす」という偈文についてである。それは、すでに諸仏のからだを現す相であるから、円月の相をもつのである。
23日

まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。

従って、すべての存在の長いもの、短いもの、四角いもの、丸いもののその一つ一つが、仏性の身現の中に統一されていて、また、この相のように完全無欠であることを知るべきである。この諸仏の身体の現れについての理解をおろそかにするものは、円月の相を理解しないばかりでなく、諸仏体であることも体得し得ないのである。愚かなものは、尊者が今かりに急に化身して円月相を現したと思うのは、仏道を受け継がない者たちの誤った考えである。いつどこにおいて、この身のほかに化身をすることがあろうか。諸大衆はまさに知るべきである。このとき、ただ尊者は、説法の座に座っていたばかりである。からだを現したということは、いま誰でもが座っているように、ただすわっていたばかりである。

24日

この身、これ円月相現なり。身現は方円にあらず、有無にあらず、隠顕にあらず、八万四千薀にあらず、ただ身現なり。

いまのこの身そのものが、円月を現わしているのである。その身の現れは、四角くもなく丸くもなく、有でもなく無でもなく、他から現われたものでもなくまた他に隠れもせず、無限の物体でもなく、ただありのままなる、ただ現在この身が現われていることである。
25日

円月相といふ、這裏是甚麼処在―しやりししもしょざいー、説細説?月―せつさいせつそぐわつーなり。この身現は先須除我慢なるがゆへに龍樹にあらず、諸仏体なり。以表かるがゆへに諸仏体を透徹す。

それを円月の相というのである。ここにいう円月相というのは果たしてどういうものかというとそれを細い月ともいい大きい月ともいうのである。このからだの現われは、先ず自己の慢心を除いたもの、我欲を解脱した純粋の心境であるから、その身現は龍樹という自己があるのではなく、龍樹の自らの力によって創造せる現身であって、すでにそれは仏のからだである。諸仏体は一切を超越したものであるから諸仏体をも仏のからだをも超越している。
26日

しかあるがゆへに仏辺にかかはれず。仏性の満月―まんぐわつーを形如―ぎやうにょーする?明−こめいーありとも、円月相を排列するにあらず。

従って、そのため、仏の相という観念的なものに囚われていないのである。仏性は満月にたとえてその形を形づくって皓々然として見られる、けれども真の仏性は円月の相をならべそれを仏性というのではないのである。

27日

いはんや用弁も声色−しゃうしきーにあらず、身現も色心にあらず、薀処界―うんじょかいーにあらず。薀処界に一似―いちじーなりといへども、以表なり、諸仏体なり。これ説法薀なり、それ無其形なり。無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。

まして円月相なる仏性のはたらきも、声や相によっての即現でない。不可見のものである。従って仏の相を現わすこともまた単なる身体の上に行われるものではなく、仏性自らの自由な働きによるものである。故に現実の物ごとの世界と異ならないものではあるけれども、今ここに仏の人格仏の相として現わされているのである。それは仏の真実を現わされて世界であり、それは形のないものそのものである。形のないものがさらに形をこえた境地として現わされ、無相三昧としての仏性の相が現われるのである。
28日

衆いま円月相を望見すといへども目所未見なるは説法薀の転機なり、現自在身の非声色なり。

まして、円月相なる仏性のはたらきも、声や相によっての即現ではない。不可見のものである。
29日

即穏即現は、輪相の進歩退歩―しんふたいふーなり。復於座上―ぶおざじやうー、現自在身の正当恁麼時は、一切衆会−いさついしゅえー、唯聞法音―ゆいもんほふおんーするなり、不覩師相−ふとしさうーなるなり。

従って、仏の相を現わすこともまた単なる身体の上に行われるものではなく、仏性自らの自由な働きによるものである。故に現実の物ごとの世界に現わされるものではない。龍樹の仏身は一切のものごとが仏性なる限り、現実の世界と異ならないものではあるけれども、今ここに仏の人格仏の相として現わされているのである。それは仏の真実を現わされた世界であり、それは形のないものそのものである。形のないものがさらに形をこえた境地として現わされ、無相三昧としての仏性の相が現われるのである。
30日

多くの修行者たちはその時円月の相を見たけれども、龍樹の現身を見たことがないというのは、龍樹の説法の肉身の相が、仏性身という無相の相になり切ってしまつているから見えないのである。尊者の身体が隠れたり現われたりしたということは、仏性

の相がそこに働いているといういうことである。従って、「また説法の席上において仏身を現わした」という時、一切の大衆がただ説法の声を聞くばかりなのである。龍樹の相を見ないのである。