正法眼蔵F
平成17年10月

 1日

尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに満月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。

龍樹尊者の後継者迦那提婆尊者は、明らかに満月の相を知り、円月の相を知り、現身を知り、仏性を知り、諸仏の本体を知っていたのである。
 2日

入室瀉―につしつしやべうーの衆たとひおほしといへども、提婆と斉肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆会の導師なり、全座の分座なり。

龍樹の室内で仏道の奥儀を伝える多くの弟子の中で、提婆尊者し他の弟子達ときくらべものにならないであろう。提婆尊者は師と半座を分かつほどの仏道の真実を伝える師であり、大衆たちの指導者であり、釈尊の教えをすべて受け継いだ仏祖である。
 3日

正法眼蔵無上大法を正伝せること、霊山に摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。龍樹未廻心―みういしんーのとき、外道の法ありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。

仏道の悟り、即ち真理を正伝することは、ちょうど霊鷲山―りょうじゅせんーにおいて迦葉尊者が第一の座であったことに似ている。龍樹が仏道に帰依する前、バラモン教徒であった。そのときの弟子は多かったけれども、みな師弟の縁を切って分かれてしまった。
 4日

龍樹すでに仏祖になれりしときはひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼蔵を正伝す。これ無上仏道の単伝なり。

龍樹が正統の師となってからはただひとり提婆を仏道の正しい継承者として仏道を直々伝えたのである。これは正しい仏道のひとりからひとりへの伝承である。
 5日

しかあるに、潜偽の邪群、ままに自称すらく、われらも龍樹大士の法嗣なり、論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。むかしすてられし群徒の人天−にんてんーを惑乱するなり。

ところが、いつわりを言う悪者たちが、自分たちも龍樹菩薩の後継者であると自称した。そして経典の理論書を作り、或いは解釈書を編集したりする多くの者がそれらの書物を龍樹の手になるものであるとしている。しかしそれらは全く龍樹の作ったものではなく昔龍樹によって絶縁させられた者たちの作で、世の中の人々たちを惑わしいているのである。

 6日

仏弟子はひとすぢに、提婆の所伝にあらざらんは龍樹の道―だうーにあらずとしるべきなり。

従って、仏の教を学ぶ者たちは、ただ提婆の伝えるものでなければ龍樹の言葉でないことを知るべきである。
 7日

これ正信得及―しやうしんとくぎふーなり。しかふあるに、偽なりとしりながら稟受−ばんじゅーするものおほかり。謗大般若―ほうだいはんにゃーの衆生の愚蒙、あはれかなしむべし。

これは正しい仏道の信仰によって始めてできることである。処が、偽の仏書であると知りながら、それを受け入れる者も多い。般若の空の教は龍樹の説ではないと仏説を謗り、仏智ほけなす者たちが現われたが、その愚かしさは、あわれ悲しむべきである。
 8日

これ正信得及―しやうしんとくぎふーなり。しかふあるに、偽なりとしりながら稟受−ばんじゅーするものおほかり。謗大般若―ほうだいはんにゃーの衆生の愚蒙、あはれかなしむべし。

これは正しい仏道の信仰によって始めてできることである。処が、偽の仏書であると知りながら、それを受け入れる者も多い。般若の空の教は龍樹の説ではないと仏説を謗り、仏智ほけなす者たちが現われたが、その愚かしさは、あわれ悲しむべきである。
 9日

いま天上・人間、大千法界に流布せる仏法を見聞せる前後の皮袋―ひたいー、たれか道取せる、身現相は仏性なりと。

いま世界の人々の間に伝道されて来た仏教を見聞きしてきた古今の仏道修業者たちの間で、だれがいまの龍樹の身現の相を仏性であると言ったであろうか。
10日

大千界には、ただ提婆尊者のみ道取せるなり、余者はただ仏性は眼見・耳聞−みもんー・心識等にあらずとのみ道取するなり。

この世では、ただ提婆尊者一人だけがそれを言っているのである。ほかの者たちはただ、仏性は目で見たり耳で聞いたり心で認識することができない、超現実的、超人間的な存在としてのみ知るばかりである。
11日

身現は仏性なりとしらざるゆへに道取せざるなり。祖師のおしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり、身識いまだおこらずして了別することあたはざるなり。

このからだの現れる人格そのものが仏性であるということを知らないから、仏性についていうことができないのである。諸仏はそれについて教えることを惜しんだり拒んだりするわけではないが、それを見聞する人々の目や耳がふさがれているから、それを見聞きすることができないのである。
12日

無相三昧の形如満月―ぎやうにょまんぐわつーなるを望見し礼拝するに、目未所覩−もくみしょとーなり。仏性之義―ぶつしやうしぎー廓然虚明―くわくねんこめいーなり。

まだ身心がそれを感得し得るものになっていないから相のない仏性の境地そのもの、満月の形を礼拝しても、それを見ることはできないのである。そのとき、仏性の本体は廓然虚明である。
13日

説仏性の身現なる、以表諸仏体なり。いずれの一仏二仏か。この以表を仏体せざらん。仏体は身現なり、身現なる仏性あり。

だからいのま龍樹の相の現われがそのまま仏性を説き、仏性を示現しているのである。このように仏性を説くからだが現われるとき、それによってすべての諸仏の身体が現わしているのである。
14日

四大五蘊と道取し会取する仏量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり。

どこの諸仏が、諸仏としての仏性の相を現わされないことがあろうか。仏の体は今のこの相の現われなのである。
15日

一切の功徳、この功徳なり・仏功徳は、この身現の究尽―ぐうじんーし曩括―なうくわつーするなり。一切無量辺の功徳の往来は、この身現の一造次なり。

今のこの相が仏性なのである。仏体も身心そのものと説き、或いは体得する諸仏や諸祖の体も、また今のこのからだによって実現されるのである。今ここに諸仏と相というものは、現実の今のものごとそのままの相である。
16日

仏のすべての功徳(修行の功績)自らは悟りを開き、他は衆生を救うというその働きも、この身現という仏性の人格的表現の功徳なのである。仏の功徳も同様に一仏一身が功徳そのものである。この故に限りない仏の功徳の自由自在のすべての働きのそれぞれは、今のこのからだの現われによってすべて実現されるのである。
17日

しかあるに、龍樹・提婆師資よりのち、三国の諸方にある前代後代、ままに仏学する人物、いまだ龍樹・提婆のごとく道取せず。いくばくの経師・論師か、仏祖の道―だうーを蹉過−しやくわーする。

ところが、龍樹、迦那提婆といっった師弟以来、インド、中国、日本の三国の昔から今まで、多くの人々が仏道を学んでいる者もあるが、いまだかって龍樹や迦那提婆のように述べている者はいない。どれほど多くの経典学者や理論家たちが、諸仏の道を誤って伝えて来ていることであろう。
18日

大宋国むかしよりこの因縁を画せんとするに、身−しんーに画し、心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相とせり。

大宋国においては昔からこの因縁を画こうとして、からだによって現わすことができず、心によって現わすことができず、空によって現わすことができず、壁に現わすことことができない。
19日

それだから徒に筆によって描こうとして、説法の座の上に鏡のような一輪の絵をかいて、それを龍樹のからだの現われである鏡のような円月の相、すなわち龍樹の現身として円月を描いている。

20日

すでに数百歳の霜華も開落して、人眼―にんげんーの金屑―きんせつーをなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、万事の蹉だたることかくのこどきなる。

年月を経て人の目に塵がはいって正しく見えなくなっているが、それが誤りであると指摘する人は一人もいない。あはれむべきことである。世の中のことすべてがまちがっていることはこの通りである。
21日

もし身現円月相は一輪相なりと会取せば、真箇の画餅―わひんー一枚なり。

もし、からだを現わす円月の相が円月の相であると考えるのならば、それはまことに絵にかいた餅のようなものである。
22日

弄他せん、笑也―せうやー笑殺人―せうしやにんーなるべし。かなしんべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇も龍樹のことばをきかしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いわんや身現に親切ならんや。

そのようなものにたぶらかされているのは、全く笑止千万なことである。悲しむべきことは、大宋国中の在家や出家の者たちが、誰ひとりとして、龍樹の言葉を聞く者もなく知る者もなく、また提婆の言葉に徹することができないのでは、まして、どうして彼らが龍樹の身現に接することを会得していることがあろうか。
23日

円月にくらし、満月−まんぐわつーを虧闕−きけつーせり。これ稽古のおこそかなるなり、慕古いたらざるなり。古仏新仏に真箇の身現にあふれて、画餅を賞翫することなかれ。

円月のことに暗いから折角の満月を欠かしてしまっているのである。これは修業がおろそかであるからである。仏祖を敬うことが足りないからである。仏道を学ぶ古今の諸仏、更に真実に仏性を現わしている仏祖を拝し、ただ絵にかいた餅(肖像)を賞翫してはならない。
24日

しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目―やうみしゅんもくーそれ端直なるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐―ごつざーすべくなり。破顔微笑―はがんみせうーつたはるべし、作仏作祖−さぶつさそーするがゆへに。

このことを知るべきことは、龍樹の「身現円月」の相を描くには、法座の上の仏身の相をもつてすべきである。その相は、必ず仏身の現われであること、そしてその仏身の姿は必ず坐禅の相でなければならない。仏身はこのような相において始めて、以心伝心、破顔微笑の真実の仏道が伝わるのである。

25日

この画―ぐわーいまだ月相−ぐわつさうーならざるには、形如―ぎやうにょーなし、説法せず、声色―しやうしきーなし、用弁なきなり。

なぜならば、このような相において歴代の諸仏は仏道を修証し、以心伝心してきたのである。龍樹の円月相の画にしてもなお、真の円月相でないならば、どんなに見ていても円月相はないというべきである。だから説法もせず、声や姿もなく、言葉もなく、仏としての働きもない。そうなれば、一枚の画餅に等しいことになつてしまう。

26日

もし身現をもとめば、円月相を図すべし。円月相を図せば、円月相を図すべし。身現円月相なるがゆへに。

もし仏の身現を求めるならば円月相の相を描くべきである。円月の相を描こうとするなら、揚眉瞬目、皮肉骨髄、正法眼蔵、破顔微笑という円月相を描くべきであろう。なぜならばそれらは空想的な形相ではなく事実としての身現円月相であるからである。ゆへにこの円月相を描くには満月相を描くべきである。
27日

しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餅一枚を図す。

ところが、仏身の現われを描かず、円月を描かず、諸仏の相を描かず、描くことをその本質とせず、説法を描かず、一として月相でなく徒に絵を描いた餅一枚を描いて一体何をかなさんとするのか。

28日

用作什麼−ようそしもー。これを急著眼看―きふぢやげんかんーせん、たれか直至如今飽不飢―ぢきしにょこんはうふきーならん。

このあやまちを直ちに反省して、だれがすぐさまこの問題を解決できるであろうか。
29日

月は円形―えんぎやうーなり、円は身現なり。円を学するに、一枚銭のごとく学することなかれ。一枚餅に相似することなかれ。身現円月身なり、形如満月相なり。一枚銭・一枚餅は円に学習すべし。

月は円形であり、円形は無欠な身体の現われである。円形を学ぶについては、それは一枚の貨幣のようなものだと思ってはならない。一枚の餅に似たようなものであると理解してはならない。からだの相が円月の相であり、その形が満月の形なのである。一枚の貨幣、一枚の餅は、そのように円形に通じるものであることを学ぶべきである。
30日

閑話
道元によれば、人生の意味「生き生きと生き抜くことにある。生命の火を思いっきり燃え上がらせ、白熱化し,燃えつくして消える。

一かけらの余燼をも残さない完全燃焼、それが道元の意図する人生なのだという」
31日 中途半端な半死半生の人生は道元の最も忌み嫌うものである。道元は「行動こそ生きている証と考え、行動について「色は目だけで見、音は耳だけで聞く、と思うな。 身と心とを一体にして色の中に、音の中に溶け込む時、ほんとうに色が視え、音が聴えるのだという」