正法眼蔵 4
平成17年 7月
1日 | 時節若至−にゃくしーの道を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後―きゃうこうーにあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然−じねんーに仏性現前の時節にあふ・時節いたらざれば、参師問法するにも、辧道功夫かるにも、現前せずといふ。 | 「時節が至れば」といふことについて、古今の人々はしばしば、ぼんやりと仏性の現前する時期がやってくれば自然に現れるであろうと思っている。そしてそのような考えで修行してゆく中に、自然に仏性が現れる因縁時節ら会うのであろうと信じて、その時期がまだ来てなければ他に師をたずね、教えをもとめ、努力して道を励んでもなお仏性は現前しない。 |
2日 | 恁麼−いんもー見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類−るるいーなり。 | このような考え方の修行者は、結局は、いたずらに世俗の生き方にもどって、むなしく天から降って来るものを待っている。このような者たちは、おそらくは、偶然を信じる天然外道たちの部類である。 |
3日 | いはゆる欲知仏性義は、たとへば当知仏性義といふなり。当観時節因縁といふは、当知時節因縁といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。 | ここにいう「仏性の義を知ろうと思えば」ということは、さらに深く考えるならば、仏性の義を知るべきであるということである。そして当に時節因縁を観ずべしということは当に時節因縁を知るということである。いわゆる仏性を知ろうと思うならば知るべきことは、時節因縁そのことである。 |
4日 |
時節若至といふは、すでに時節いたれり。なにの疑著−ぎぢゃーすべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来−げんがぶつしゃうらいーなり。 |
「時節が至れば」といあことは、すでに時節は至っている。そこになんの疑うべきことがあろうということである。たとえその時節について疑うことがあろうとも、はーやはりわれわれに仏性は到来しているのである。 |
5日 |
しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至−にゃくしーは既至−きしーといはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。 |
あなたがたは知りなさい。「時節がもし到来すれば」ということが、昼夜にわたって現前しているのである。「もし至れじ」とは、すでに至っているということにほかならないのである。時節がもし至っているならば、仏性はそれ以上とりたてて至りようがないのである。 |
6日 |
しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理−ごりー自彰なり。おほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。 |
従ってそのため、時節がすでに至れば、仏性は現前するのである。あるいはその仏性を知らんとすれば当に時節因縁を観ずべしといふ道理がおのずから明らかとなるのである。およそ時節の至っていない時節というものはどこにもなく、仏性の現前していない仏性というものはないのである。 |
7日 |
第十二祖馬鳴−めみょうー尊者、十三祖のために仏性海をとくにいはく、山河−せんがー大地、皆依建立―かいえこんりふー、三昧六通−ざんまいろくづうー、由慈発現−いうじほつげんー。 |
インド禅宗の第十二祖馬鳴尊者(アシュバゴーシャ)が、十三祖加毘摩羅尊者のために仏性海について説いて言った。「山河大地もみなこれによって成立し、座禅も神通力もみなこれによって現われる」従って、この山河大地まみな限りない仏性の海である。 |
8日 |
しかあればこの山河大地、みな仏性海なり。 |
馬鳴尊者がここにいう「みなそれによって成立している」とは、仏性によって成立している今のこの時節を山河大地というのである。 |
9日 |
皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのこ゜とし。さらに内外―ないげー中間―ちゅうげんーにかかはるべきにあらず。 |
ここですでにみな仏性によって成立しているというからには、限りない仏性海の祖とはそのようなものであることを知るべきである。仏性はそのほかに内にあるものでもなく、外側にあるものでもなく、中間にあるものでもない。 |
10日 |
恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは?腮馬觜をみるなり。皆依は全依なり、依全なりと、会取し不会取するなり。 |
そのため、山河を見ることそのものは仏性を見ることである。また、仏性を見ることは、どこにでもあるものを見ることにほかならない。ここにいう、「みなそれによって」とは、すべてが仏性によって成立すると体験すべきである。 |
11日 |
三昧六通、由慈発現。しるべし、諸三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由慈不由慈、ともに皆依仏性なり。六神通はただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。 |
仏性によってすべてが成立することであると、全体的な体験と更に局部的具体的に仏性を見るは驢腮、馬觜、又は仏子や柱杖、などの個別的な事物の一切が仏性の現前であることを体験しなくてはならない。 |
12日 | 前日の訳文解説続き。 | 馬鳴尊者の語の「禅定も神通もこれによって現れる」とは、さまざまの座禅が現れるのも、山河大地と同じくみな仏性によるということであり、六つの神通がこれによって現れるのも現れないのも、共にみな仏性によっていることを知るべきである。 |
13日 |
六といふは、前三々―ぜんさんざんー後三々を六神通ハラ蜜といふ。しかあれば、六神通は明々百草頭、明々仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗にけい礙するものなり。 |
ここにいう六つの神通とは、小乗仏教で説かれるただ六つの神通ではない。六というのは数の六の意味ではなく、限りなく広いものの働きを今ここに六神通波羅蜜(六つの不思議な力の完成)というのである。従って一般に言われる六神通はすべての物事を明らかにするものであり、明白な仏祖の心であると信じ学んではならない。尊者の言葉は、六神通の言葉に囚われているように見えるが、実はそれは誤りで、その真意は仏性海の真実に触れているのである。それはちょうど百川の大海に帰するようである。 |
14日 |
五祖大満禅師、き州黄梅人也。無父而生。童児得道。及栽松道者也。初在き州西山栽松、遇四祖出遊。 |
五祖大満(弘忍)禅師は、き州黄梅の人である。父をもたず生れて、幼少のときすでに仏道の真実を悟った。これが栽松道者の生れかわりである。はじめ、この人がき州の西山に住んで松ょ栽培していたとき、四祖(大医道信)が諸国をめぐり歩いているのに出会った。 |
15日 |
告道者、「吾欲伝法、与汝、汝己年邁。若待汝再来、吾尚遅汝」師諾。 |
そして四祖が道者に言った。「わたしはお前に教えを伝えようと思うが、お前はもう年をとり過ぎている。もしお前が生まれ変わって来ることができたら、わたくしはその時のお前を待っている」師はそれを承諾した。 |
16日 |
遂往周氏家娘托生。因抛濁港中。神物護持、七日不損。因収養矣。至七歳為童子。於黄梅路上逢四祖大医禅師。 |
そして周氏という家の娘のところへいってその身体に宿って生れた。そのため入江に捨てられたが、不思議なものに守られて、七日間無事であった。そこで、人に引き取られて養われ、七歳の童子となり、黄梅の路上で四祖大医禅師に会った。 |
17日 |
祖見師、雖是小児、骨相奇秀、異平常童。祖見問曰、「汝何姓」。 |
四祖がのちの大満禅師を見ると、小児ではあるけれども、人相風格が珍しくすぐれていて、普通の子供とは異なっていた。四祖はそれを見てたずねた。「お前はどういう姓名だ。 |
18日 |
師答曰、「是即有、不是常姓」 |
「姓名はありますが、普通の名前ではありません」 |
19日 |
祖曰、「是何姓」、 |
「それはどういう名だ」 「仏性という姓名です」 |
20日 |
祖曰、「汝無仏性」。師答曰、「仏性空故、所以言無」。 |
四祖は言った。「お前に仏性などないよ」。童子はこたえて言った。「仏性には形がないから、ないとおっしゃるのでしょう」と。 |
21日 |
祖識其法器、俾為待者。後付正法眼蔵。居黄梅東山、大振玄風。 |
4祖はこれによって、彼が教えをつぐべきすぐれた器量を備えた者であることを知って、待者とならせて、のち仏法を伝授した。かくて五祖大満禅師は、黄梅の東山に住して、大いに仏道を盛んにした。 |
22日 |
しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、四祖いはく汝何姓―にょかしょうーは、その宗旨−そうしーあり。 |
従って、仏祖たちの言葉を学ぶについて、四祖が「お前の姓名は」とたずねた。ということは、単に姓名を聞いたことの外に、深い意味があるのである。 |
23日 |
むかしは何国人―かこくじんーの人−じんーあり、何姓−かしょうーの姓―しょうーあり、なんぢは何性と為説するなり、たとへば吾亦如是−ごやくにょぜー、汝亦如是−にょやくにょぜーと道取するがごとし。 |
昔は「師はどこの国の人ですか」と問われて「どこの国の者です」と答え、あるいは「君はなんという姓名の人ですか」と問われて「なんという姓名です」と答えた故事があるように、ここで四祖が「お前の姓名はなにか」という言葉によって仏道を説いているのである。 |
24日 |
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それは、ここで4祖がお前の姓名は何という何も、また姓名の本質は仏性自体である悉有の仏心なのであるそのことを示しているのである。ちょうど「わたくしもまたそうだ。お前もまたそうだ」と説くことのようなものである。 |
25日 |
五祖いはく、姓即有−しょうそくうー、不是常姓−ふぜじゃうしゃうー、いはゆるは、有即姓。いはゆるは、有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり。 |
五祖が「名前はありますが、普通の名前ではありません」といった真の意味は、有る者は普通の姓名ではない。普通の姓名は、ただ一時的で永久の名でないということである。 |
26日 |
四祖いはく、是何姓−ぜかしょうーは、何−かーは是なり。是を何−かーしきたれり、これ姓なり。 |
四祖は「普通の名でないというなら、その名は何というのだ」とたずねたという場合の「何というもの」とは、「是れ」のこと、仏姓のことであり、是れがとどういうものであるかと尋ねたのである。是は姓のことである。 |
27日 |
何ならしんぬるは是のゆへなり。是ならしんぬるは何の能なり、姓は是也何也なり。これ藁蒿湯にも点ず、茶湯にも点ず、家常の茶飯ともするなり。 |
「どういうものか」と問うのは、「是れ」があることによってこそ是である。是の体験である。「是れ」を是としてあらしめるのが、「と゜ういうものか」と問うことによってなされるのものである。 |
28日 |
姓が「それ」であり、「どういうもの」なのである。このような深い意味と内容を持つ仏性を、日々の生活の一々に反省し体験して、よもぎ湯にも使い、茶の湯にも使い、日常のあらゆることのうちに使って禅生活の生命の飲みものとしているのである。 |
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29日 |
五祖いはく是仏性。いはくの宗旨は、是は仏性なりとなり。何のゆへに仏なるなり。 |
五祖は「私の姓名は是れ仏性という姓名です」と言ったことの真の意味は、「是れ」といえるものはすべて仏性だということである |
30日 |
是は何姓のみに究取しきたらんや、是はすでに不是のとき仏性なり。 |
それは、「どのようなもの」と問うことのできるものであるから、既に其れが仏性なのである。 |
31日 |
しかあればすなはち、是は何なり。仏なりと異へドン、脱落−とつらくーしきたり、透脱―てうとつーしきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。 |
「それはどのような姓名か」ということはただそれだけら真理が説き尽くされているのであるから、是がすでに「是れ」でない時もまた、すべて仏性なのである。従って是れが何のようなものであるかと問われ、それが仏性であると答えられているのであるが、それを更に解脱し、超越してみれば、所詮残るものは必ず姓名、母方の姓の周氏という姓名のみである。 |