司法の現場の誤った歴史認識A


原告が本当に自分の権利を守るために訴訟を起こし、棄却されたのなら間違いなく控訴するでしょう。ところが控訴せす゜に、テレビカメラの前で「完全勝利」と満面の笑みを浮かべているところを見ると、原告の本当の狙いは全国のどこの裁判所でもいいから「首相の靖国神社参拝は違憲である」の一言を得たかったのです。
裁判所はこのような原告の真意を理解した上で裁判に臨むべきですが、いまの裁判所の審理は完全に原告ベースです。五つすべて判決は原告の主張する権利は法的権利ではないという理由で、請求を棄却したのですから、つまり第一回の口頭弁論で終結し判決を出すことが可能でした。にも拘わらず二年間も審理や証人尋問を続けること自体、時間と労力と税金のムダ。あたかも裁判所が原告のイデオロギー運動を手を貸しているのと等しい状況になっています。

法曹界と国民感情の大きなズレ
靖国訴訟の口頭弁論の際には、「国は侵略戦争をし、死ねば靖国の神になる』などと騙して国民を犬死させた」「靖国神社は軍国主義の装置だ、血塗られた天皇の祭殿だ」などありとあらゆる罵詈雑言を並べ立てました。しかし、それに対し被告の代理人たちはまったく反論をせず、ずっと黙ったままでした。なぜ原告と戦おうとしないのか、私には不思議でなりませんでした。

裁判の大原則の一つは弁論主義です。つまり裁判では当事者が争わない事実は「あったこと」として、判断の基礎になるのです。例えば731部隊の細菌戦被害裁判など、いまなお戦後補償裁判は続いていますが、国の代理人が「いや、それは違う」と反論は、戦わなければ、事実でなくとも事実とみなされてしまうのです。

それが分かっていながら黙っているということは、国の代理人として自覚に欠けています。法廷で黙り続けている靖国訴訟の国の代理人を見ていると、彼らも原告同様、首相の靖国参拝は違憲だと考えているのではないかと思ってしまいます。

私の感じる限り、裁判官にしても検事にしても、いま法曹界全体の意識が国民感情と大きなズレがあるように思います。おそらく国民の大半は首相の靖国神社参拝が軍国主義の復活に直結するなどとは思わないでしよう。しかし、司法の現場ではそう信じて疑わない人たちのほうが多いのです。

福岡地裁で判決は次ぎのようなトンチンカンとも言うべき認定をしました。平成13年8月15日には例年以上に靖国神社の参拝が多かった。それは二日前に首相が参拝したためである。よって神道が広まったから憲法の政教分離の規定に反する、いうのです。
私は、小泉首相の参拝の翌々日に参拝が増えたのは、首相の靖国参拝を支持する国民が多いからだと解釈しました。とにかく裁判所は法廷で声の大きい法の主張に引っ張られ、不通の感覚からズレてしまつているのではないかと思います。(続く)