たどり来し道        徳永圀典

傘寿の()  

はるけくもあゆみ越しかな山々を

            八十(やそ)()になれど道なお遠し

「生」 いのちとは動くことと見つけたり。

「悟」 一切は心より転ぜしものと悟れり。

「日々」和顔(わげん)愛語で暮らしたし。

「願い」夢幻(むげん)(くう)()我が生涯よ、願わくば、 連天の白鳥一瞬に消え去る水天一碧(いっぺき)の如き命終(みょうじゅう)あらんことを。

終詞(おわりのことば)」無に生じ無となりて消ゆいのちかな

この世のことは(くう)(くう)なり 

                        岫雲斎圀(しゅううんさいこく)(てん)

一燈照隅

住友銀行勤務の最高の副産物、安岡正篤先生との個人的懇談を縁起として一燈を点じた鳥取木鶏会各月例会も今年で23年目。昨年、我が一門から、米子市に木鶏会開講の運び、二燈を点火し得て欣喜雀躍(きんきじゃくやく)老而学死而(おいてまなべばしして)不朽(くちず)

 

憂国放論

地元新聞に十年間、毎月1800字コラムを担当、惨憺たる日本の現状を憂い続け、この間ファンレターが千通を越ゆ。「国字」に関して寄稿した時、桜井よし子氏から架電のご質問に感激。鳥取、島根、兵庫県の講演も年間十回に及ぶ事あり。遂には全国神社庁青年神職四百人の研修講師を二度勤める。演題は「縦糸の霞んだ日本織」「日本を忘れた日本人」「新しい神道の予感」等。これらが平成の大乱、私の憂国放論、人類最高の良いこと等の三著作へ発展、国会図書館に納める。「徳永の近・現代史」のゲラ刷りなど更なる数冊の著作原稿も整った。私の思いは今尚尽きず、素晴らしき日本への思いを残しおくは我が世代の義務と。

 

日本の原理を主張

新聞寄稿開始頃からHPを開始、今やアクセスは40万を遥かに凌駕。毎月新聞寄稿をした為、県内外識者への知名度は高まり、地元保守諸会派の理論中枢の如き存在と同人は言う。HPでは、忌憚の無い正論を大所高所から発信している。反応は極めて上々、為にその改善と前進に余念のない日々が続いている。基本的には徳永日本学研究所を基地として伝統日本の主張とその伝播であります。

 

大自然探訪

人事部時代、行友会山岳会長を勤めたが引退後一段と登山に傾注、年間百日登山が続いている。愛するは北ア・南ア、八ヶ岳等だが、大峰奥駆道、小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路など熊野古道、紀伊半島は縦・横断し関西百名山も完全踏破。日本二百名山はいつの間にか百岳を登頂し尚続行中。青年時代はスポーツに無縁な私だが、一昨年「純の純なる日本的の山の姿」の大峰奥駆け寄稿が山岳誌「岳人」に掲載されて思わぬ感激。素晴らしき日本の大自然の深奥に触れて、活き活きと山々を歩かせて頂き健康の日々を過ごさせて頂いております。

 

古き良き時代の神戸支店を懐かしむ会

外国部、本店営業部外国為替課、人事部勤務は通算十一年。神戸支店は外国と取引。立派な役員・部店長、上司先輩・同僚の鴻恩は山の如し。昨年、今春と当時在店の一部が集った。私にとり住銀文化は矜持あるものだ。私の認識で、小事を捨て大局的に見た伝統住友銀行とは、

一.仕事は厳しいが業務の合理性追及に於いて知性の通用する職場であったこと。

二、進取の気性に富み、合理性追求の一方で顧客にも職員に対しても人情の機微を決して疎かにしない企業であった事。

三、職員を大切にする大家族的風土を持つ。

四、問題あらば、実態を直視し、知性と勇気と意思を以て断固としてやり遂げる能力を組織として保有している銀行であろうか。住友銀行は、言い訳を一切しない、正々堂々とした男性的気概に長けた銀行であったと。

逆修(ぎゃくしゅ)を受けて十年 

菩提寺の檀徒総代をしていた十年前、我が(あずか)り知らぬピント外れの戒名を避けるべく自ら法名を発案し受戒した。即ち逆修である。既に位牌も我が家の仏壇と菩提寺本堂に祀った。偉大なる安岡正篤先生より賜った色紙「修徳永善是圀典」をベースとし、仏教風に詠んだものであります。

我が葬儀マニュアルも作成、没後半月は対外秘と遺言した。

なお、生きてこそ
迫りくる更なる老いと旅の終わり、人生への諦観が自然に深められ静かな心で迎えたい。命の大河への合流が自然であれかしと願う。身は大自然に還るとも心事は留めおきたしとも。そして静かに、人知れずお暇乞いをと願う。瞬間は自他も時空も越えたまどろみの中であろうか。
母なる大自然に同化される日まで、生かされる日々を、なお生き、生きて、生きたい。往生は一定(いちじょう)なるが故に生きてこそであり、日々(にちにち)(これ)(こう)(にち)であれかしと。