徳永の語る安岡正篤先生 その二

令和5102日  徳永圀典 92

前回、少し話しましたが、佐藤栄作とケネディ大統領との事。

昭和3710月、この頃ソ連がキューバにミサイル基地を作りかけていた。

アメリカはソ連艦船の海上封鎖に踏み切っていた。キューバ問題で沸き返っていたホワイトハウス、佐藤を迎えてもゆっくり話し合う暇もない感じ。佐藤とケネディの会見は10分の予定だった。

敗戦後17年、琉球はまだアメリカが占領している。

ホワイトハウスのオパールルーム、10分が終わりケネディが椅子を経つ間際に

佐藤が言った。

ケネディ大統領、「シュバイツァー博士ご存じですか」

「ええ知ってます」

佐藤「シュバイツァー博士が言ってますね。戦争に勝った国は負けた国に対しては、喪の礼に服するような礼を以て接しなければならぬと」

ケネディ「ほう」。

帰りかけた佐藤をケネディは留めて関心を示した。

佐藤は続ける「戦いに勝つ者は喪礼を以て之に拠る」という老子の教えてあり、東洋の哲学ともなっております。

シュバイツァ博士は、19455月、ドイツの無条件降伏の報を聞いて、老子語録を静かに味わいながら、敬虔な祈りを捧げられたと伺っております」

ケネディ「そうでしたたか」。

シュバイツァ博士は欧米でき神のように崇められている人物でした。

ケネディは益々興味を覚え佐藤との会談は1時間を遥かに超えたのでした。
ケネディは敬虔なカトリック信者、カトリック信徒の初めての大統領であった。

これは、安岡先生がアメリカ出発前に佐藤に指南されたものでありました。

安岡先生は、台湾の蒋介石や張群と親しかった。
お二人とも刎頸の交わりを蒋介石や張群としとったようです。日本が終戦当時、蒋介石に助けてもらったということで、その恩を忘れてはいけないということでした。
にわかに中国になびいて、台湾に見向きもしないようなやり方ではダメだ、と安岡先生はいつもいっておられた。
そういう点では節を曲げない人だった。張群という人は蒋介石とは同僚というか、パートナーでした。敗戦の時、日本を分割することを反対したり、賠償金をとらなかった。仮りに分割されていたとしたら、日本もドイツや朝鮮のようになってしまったでしょうね。
その上で、200万の兵隊を日本へ無事に送り帰してくれた。
こうした蒋介石の決断に日本国民として感謝しなくてはいけない。
ともかくも安岡先生の魅力は、時の権力に屈せず、正しいことを貫く。
憂国の日本の将来に対して心配した最後の国士だった。

人口に膾炙されている終戦の詔勅刪修について正確に記しておきたいと思う。

毎年815日、終戦の日が近づくと、マスコミはその秘話を語ってほしいと、先生に面会を求めて止まなかった。 そのつど先生は決まって、「綸言汗の如しという。詔勅は、陛下のお言葉で絶対のものである。これがひとたび渙発されたなら、その起草にどういうことがあったかなど当事者が語ってはならない」といって決して語ろうとはされなかった。

その先生が、「この詔勅には多少の誤伝があり、私が刪修したと語られるなら、私の学者として後世より問われる悔いも残るので、君たちだけには話しておく」と、側近の者に一晩しみじみと語られたことがある。

先生はその刪修に当たって、「義命の存する所」と、「万世の為に太平を開かむと欲す」の二点を挿入されたほか、陛下の重いお言葉として文章についても手を入れられた。 「義命」については詔勅の中で、陛下が「堪へ難きを堪へ」よ、とおおせられておられる宸襟を拝察して、それにふさわしい天子としての重いお言葉がなくてはならない。 そこで「義命」という言葉を選ばれた。

出典は中国の古典である『春秋左氏伝』。 その中の成公八年の条(くだり)に「信以て義を行い、義以て命を成す」とある。 従って、普通にいわれる大義名分よりもっと厳粛な意味を持っている。

国の命運は義によって造られて行かねばならない。 その義は列国との交誼においても、国民との治政においても信でなければならない。

その道義の至上命令の示す所によって終戦の道を選ぶのである。

「万世の為に太平を開かむと欲す」も「永遠の平和を確保せむることを期す」より強く重々しい。 これは宋初の碩学・張横渠(ちょうおうきょ)の有名な格言「天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」からそのままとったものである。

いずれにしても先生は、終戦の詔勅の眼目は、「義命の存する所」と「万世の為に太平を開かむ」の二つにあると考えられた。 わが国は、何が故に戦いを収めようとしているのか、その真の意義を明確にしておかなければならない。 従って、内閣書記長官をしていた迫水氏には、どのような理由や差し障りがあっても、この二つの眼目は絶対に譲ってはならない、とくれぐれも念を押されたのだが、閣議の席で、閣僚から二つとも難しくて国民には分りにくいから変えてはとの意見が出されたのである。

結局、「義命の存する所」という一番の眼目を、「時運の趨く所」という最も低俗というより不思議な言葉に改められてしまった。 これは永久にとりかえしのつかない、時の内閣の重大な責任といわねばならない。 「時運の趨く所」の意味はいってみれば成り行き任せ。 終戦が成り行き任せで行われたということは、天皇道の本義に反する。 時運はどうあれ、勝敗を超越して「義命」という両親の至上命令に従うことで、はじめて権威が立つのである。

戦後、日本は大きく繁栄した。 しかしこの繁栄の基礎に、「信以て義を行い、義以て命を成す」。 義命が存していたならば、物が栄えて心が亡ぶと識者が顰蹙            するほど、人の心は荒廃せずに済んだであろう。

私の如き無名の人間が何故、このような天下の安岡正篤先生と面識ができたのかと言う疑問、それは(えん)尋機(じんのき)(みょう)とも申すべき計らざる人生の摩訶不思議を見る思いがする。

昭和20年8月15日の終戦当日、私は旧制鳥取一中(現鳥取西高校)二年を休学中で病に臥せ(うつ)ろな意識で昭和天皇の玉音放送を聴いた。その春、私は選抜され鳥取一中で唯一人陸軍幼年学校に入学予定であった。だが飛行場建設の勤労動員(砂運び)による過労が肋膜炎を起し休学中であった。

敗戦の不穏情勢のさ中、小さな町の流言が耳に入る、ソ連が上陸すると。この時、戦慄的恐怖を抱いた事を忘れない。翌年になると中国に出征していた従兄弟が帰国し母は喜びに(むせ)んだ。
そして聞く、戦争中あれ程悪人扱いをした中華民國の蒋介石総統が[怨みに報ゆるに徳を以てす]と云い、日本軍人を全員無条件に帰国させると云う。ソ連と異なる中華民国、これは少年の心に強烈なインパクトを与え東洋思想に魅せられる端緒となるのだが出典は「老子」だと父から聞いた。爾来私はこのご恩を強く感じ、蒋介石総統ご逝去後はいつの日か、日本人として御礼の墓参をしたいと心に秘め続けていた。  

時、改まって昭和50年、私は住友銀行支店長であった。来店された某病院の理事長と懇談した折、私は偶然この思いを打ち明けた。旬日を経て、理事長から安岡正篤先生と大阪は島之内の料亭たに川で夕食をするから出席せよとの事、恐いもの知らずの私は快諾する。

そのお方とは誰あろう、安岡先生40年来の内輪的な高弟であり安岡教学の篤実な実践者、美原病院創立者・片岡菊雄先生である。理事長の兄上、片岡勇蔵河内師友会長と四人の懇談であった。

応対辞令、礼法を整え初めてお目にかかる安岡先生に「未熟者でございますが・」とご挨拶申し上げる。
「これは、これはのご挨拶痛み入ります」と先生のお言葉。当時住銀部店長を対象に行われた先生の講義「東洋思想十講」とか明治以降の住友首脳との交流についてのお話を謹聴する。

初対面が宴席の場で、恐れ多きこと乍ら幾度も盃を賜わり感激する。心胆から発せられる厚重なる美声、どっしりとされて威厳と慈愛が漂うご風格は今にして思えば菩薩の如しである。巨人、哲人とはかかるお方を申すのかと身も心も緊張し震える思いでありながら先生の暖かさに包まれていた。
至福とはかかるものか、しっかりと先生を仰ぎ見る。私の人生で最も偉大なる人物との出会いの歴史的瞬間、住友銀行勤務の最高の副産物にして無上の勝縁であり邂逅である。

清談は尽きざるも、時流れて座に陶然たる親和が醸成される。先生は悠々たること泰山の如しである。
やおらして、女将が硯筆と色紙を持参する。思いもかけぬ事に安岡先生が私の為に揮毫してご説明を賜る、「修徳永善是圀(しゅうとくえいぜんぜこく)(てん)」と。

ほどなくして、片岡理事長から台湾の蒋介石総統のご廟参拝のお誘いを受ける。安岡先生のご紹介状あり、人事部長に私費として認可を受け台湾に公賓として入国した。かくして多年の思いは結実することとなるが新たなる志の萌芽も産むこととなる。

台北では歴史上の人物の何応欽(かおうきん)将軍、(ほう)()希孔(きこう)全代議長、周外務次官等と会食した。蒋総統の右腕・王新衡(おうしんこう)氏も表敬、安岡先生の色紙の話が出ると直ちに色紙で呼応、「録安岡先生句呼応 修徳永善是圀典」と。両国を代表する大人物の色紙に私は感激しご縁の深さに感銘を新たにした。安岡先生が良く仰った「多逢(たほう)聖因(しょういん) (えん)尋機(じんのき)(みょう)」の不可思議さを噛みしめた。
爾来、私は銀行時代を通じて安岡先生の色紙を掲額し朝夕仰ぎみて身を律した。そして心ある方には先生の著書百朝集を差し上げた、延べ百冊近くとなろうか。

現在、先生の書物は書店に山積され多くの方々に読まれている。当時は先生のご意向で書物の出版はされず、私は片岡理事長推薦の「偉大なる対話」(近鉄での講義録)を拝借し毎朝15分間、心を澄ませて大学ノートに写本を始め2年近くかかって完成した。

一方で安岡先生の講義は欠かさず拝聴し、講義とか伊勢神宮参拝時には片岡理事長と共に安岡先生のお側に私淑し謦咳に接した。それは私にとり最高の形而上的愉悦となっていた。そして安岡教学が次第に私の心のまた人生の大きい支えとなっていく。
歴代宰相の師であられた先生ご存命ならば現今日本をどう思われるのか。今なお先生の御徳風(おんとくふう)を日々お慕いしてやまない。

我が生涯の畏敬する学兄となり家族ぐるみの関係ともなった恩師・片岡理事長、一昨年は回忌ご供養に堺市のご自宅にお参りした。安岡教学の一燈をささやかにかざして二十七年、鳥取木鶏会にお招きした片岡理事長の名講義が懐かしい。

両先生を偲ぶにつれて我が至らざるを思うばかり。世相悪化を悲しみ日本の未来を憂いつつ、これからも両先生の心を心として励みたい。   完

安岡先生より賜った色紙

(ぼう)()(あき)(ばん) 老学正篤      

王新衡氏色紙